カジノ#2 「アプリオリ」の探知機
ギャンブルと聞くと、道徳意識の発達した現代人なら、誰しも眉根をひそめる言葉かもしれない。だが、その起源は古く最古の記録は紀元前2300年にまで遡り、競馬のようなベッティングという遊びに至っては古代ギリシャの頃には今とほとんど変わらない形にまで発展していた。確率論と統計学の発展によってリスクとリターンの関係性が証明されるまでは、ギャンブルは運のみによって勝敗が左右され、人はまさに運によって支配されているといってよかった。
ヴィアレット家が今日まで生き残れたのも、もしくはこの運が味方したことによってかもしれない。まさにこれは運命なのだと。
当代の双子の家が抱える多数の優れた数学者たちは、ひょっとすればその仮説を一笑に付すかも知れない。かの家は生き残れたのは、ひとえに時代を見極めるそのリスク管理によるのだと。
だが、ウィートリー家を含む欧州の家々は、そうは思わなかった。
当然、今は分家として残ったかの家々も、昔から優れた学者を多く抱えていた。今や知らぬ者はない高名な政治家のパトロンとなったことで、最先端の商売にいち早く参入することができ、革命やバブルの崩壊が迫ればいち早く逃げることもできた。だが、これを人の力のみに頼ってのみ行われたものと思うにはあまりにも上手くいきすぎている。
ヴィアレット家は運命すらも支配する。
そんな傲慢としか言えない信仰心が、ヴィアレット家の分家には根強く残っていたといってもいい。
『Vialettes suae sortis imperium』『ヴィアレット家は運命を支配する』と、ウィートリー家の運営するカジノの支配人室に刻まれている。
『ご主人様が貴賓室に入られました』
美しく着飾った老若男女が行き交うカジノのワンフロア。ジレとパンツスーツに身を包んだコンシェルジュたちの耳に通信機から無線が入った。
「了解。それじゃ、準備はいいかい」
「えぇ、大丈夫です」
霧島がそう問うと、『アプリオリ』はフロアで湧く雑音のなかでそう答えた。
「楽に構えてくださって大丈夫です。露五さんや玄武さんも裏で監視はしてくれていますし、私も異変があればすぐに駆けつけますので」
ジャンはそう言って「アプリオリ」の背中をひとつ叩くと、「それでは私はあちらから巡回します」と言い残してその場をあとにした。
「さて、Marchiaに入って初めての現場だ。気分はどうだい」
霧島はジャンに軽く手をあげて見送ると、いつもの飄々とした態度で聞いた。
「さすがに少し緊張しますね。お屋敷に初めて来たとき以来かもしれません」
「アプリオリ」はそういうと、懐からヴィアレット家の従者に与えられる黒色の懐中時計を取り出した。時刻は夜の6時をすでに回っていた。
「なに、今回は特定の目標がいるわけじゃないんだ。客のほとんどはヴィアレットの招待客だし、滅多なことはないさ。こんな機会は有り難く活用させてもらわないとな。それよりも、これからは大変だぜ。Marchiaに正式に入ったら、いつ呼び出されるか分からんからな」
「ヴィアレット家の歴史を知ってみると、仕事に対して俄然やる気が増してきたのですよ。先祖に恥ずかしくない仕事を全うしたいと思います。まぁ、それに…カントのこともありますからね」
「アプリオリ」はそう言って、フロアの奥に位置するテーブルを見つめた。そこにはカジノディーラーとして一生懸命に働く少女の姿があった。
「オーストラリアでの件か…」
「アプリオリ」は冷静な様子を崩さなかったが、ほんの少しだけ眉根をひそませた。ラテン系の整った顔に走る憂いはどこか知性を感じさせるものだった。
「あれは致し方なかったよ。本人はヴィアレット家の役に立てて嬉しいって言っていたがな…」
霧島はなおも淡々と軽口を述べた。
「そうですね。カントはヴィアレット家のメイド。主のお役に立つことが存在意義なのです。ですが、カントには、暖かくて優しい、世界の全てを照らすような、日の光のもとで過ごしてほしいのですよ」
「アプリオリ」はそう言って、懐中時計を見つめた。時を刻む文字盤の中央には、鈍く光を反射する紫色の宝石がはめ込まれていた。
「…分かるよ」
霧島は小さくそう呟くだけだった。
「それでは始めましょう」
「アプリオリ」はグッと力を込めて懐中時計の竜頭を深く押し込んだ。
突然、「アプリオリ」は眼前が白く弾けるような感覚を覚えると同時に、それまで雑音にでしかなかった人々の声がラジオを複数流しているように並列になるのを感じた。急速に眼前の視界が極度に彩度を増し、人々の発するドーパミンとノルアドレナリンが空気に乗って鼻腔と舌を刺激し、時折全身をつつくような感覚に襲われた。脳が受信する情報量の多さに身体がぐらっと傾くのを感じる。
「おい、大丈夫か」
「アプリオリ」ははっとして声の方へと振り向いた。
「え、えぇ、平気です」
「アプリオリ」はそう呟くと、霧島をじっと見つめた。
先ほどは気付かなかったが、霧島のジレの内側にナイフが三本隠されていた。視線はこちらに向いていても、意識はあちこちに張り巡らせられ、例え誰かが後ろから殴ろうとしてもおそらく彼は気付くだろう。視線を胴体に向ければ、細身にそぐわない引き絞られた筋肉と、無数に走る傷跡が丸見えだった。
なるほど。これがヴィアレット家の執事、霧島鏡也かと理解し、「アプリオリ」は口の端がにやっと持ち上がるのを感じた。
「どうやら、それが聞いていた能力らしいな。悪いが、俺の弱点よりも、悪い奴らを見つけて欲しいんだが…」
霧島は「アプリオリ」の様子を見て苦笑いをひとつ見せると、すぐに視線をフロアへと移した。霧島からはわずかな警戒心と未知の物を見た時に感じる好奇心が感じ取れた。
「…どうやら、ここ一帯でイカサマをしている人はいないようです」
「アプリオリ」はぐるっと辺りを見渡して視界に映る物を「分析」したが、客にもコンシェルジュにも特に異物を持ち込んでいる形跡は見当たらなかった。
「そうか。なら、いったんぐるっと回ってみるかね…」
霧島の言葉と同時に、「アプリオリ」は一旦能力を解除したが、霧島がある方向を見て違和感を感じたことに気付いた。
「あそこ、何かもめてるな」
そう言って、霧島が指さした先のテーブルではゲームについていた客が立ち上がって、ひとつの方向を心配そうに見つめていた。他のテーブル席はあまり意に介しているようには見えなかったが、何かトラブルが起きているのは確かだった。
「…!あそこはカントのいるところです」
「アプリオリ」がそう言うと、ふたりは顔を見合わせて足早にテーブルへと急いだ。
ふたりがテーブルの場所に近づくと、大男ふたりに拘束されて扉まで連行されているひとりの酔客とすれ違った。まるで魂でも抜かれたような生気のない顔をしていたが、屈強なガードマンたちに両脇を抱えられているからというわけでもなさそうだった。
「カント、どうしたんだ」
「アプリオリ」がテーブルのそばで控えるカントに尋ねた。
「Si、マイスター。先ほどのお客様がカントの腰部に同意なく触れましたので、右腕をひねり、警告を行いました」
「警告?」
「アプリオリ」は首を傾げ怪訝な顔をすると、カントは朗読でもするように滔々と答えた。
「Si。『私の高貴な身体に気安く触れてるんじゃねぇぞ。この××××野郎。てめぇの××××を×××に×××にしてやろうか』と警告を行いました」
口調こそ普段のカントらしい優しいものだったが、その口から発せられる言葉はとても温室で培養された薔薇には釣り合いのとれるものではなかった。
「カ、カント…。ど、ど、どこでそんな汚い言葉を覚えて…」
わなわなとカントの両肩に手を置いて、珍しく狼狽する「アプリオリ」は愕然とした表情で言った。
「Si、マイスター。霧島様が、カントがセクシャルハラスメントを受けたと判断した場合、手をひねりあげ、このように言うようにと仰られたので」
少女は無邪気に、むしろ仕事を全うした達成感すら感じさせながら答えると、「アプリオリ」はゆっくりと後ろを振り返った。
そこには頭の上で両手を組みながらわざとらしく口笛を吹く同僚の姿があった。
「あ~、いや、カジノって酒も出すだろ?気が大きくなってディーラーを口説く酔っ払いも出るだろうから、事前にって思ったんだが…」
霧島がだらだらと汗を流しながら弁明をするのを聞きながら「アプリオリ」はカントに含み聞かせるように言った。
「カント…もうさっきの警告文は使っちゃダメだ」
「Si。マイスター。仰せのままに」
カントの楚々と頭を下げると、「アプリオリ」は大きく肩を落とした。
【後日談】
「ようやくカントから例の言葉を削除することができました」
「アプリオリ」は疲労困憊といった様子でテーブルに突っ伏していた。
「悪かったって。まさかそこまでショックを受けるとは思わなかったぜ。ほら、これでも食いなって」
霧島は片眉をあげてやや気まずそうにそう答えると、「アプリオリ」のそばに焼きたてのスコーンと紅茶のセットを置いた。
「…頂きます」
「アプリオリ」は顔を上げずに皿のスコーンを取ると、もそもそと食べ始めた。
「でもセクハラはムカついたろ?」
霧島の言葉にピタッと「アプリオリ」は手を止めて答えた。
「…電気ショックを与えるくらいはいいかもしれません」
【アプリオリの能力】
→五感を脳の容量最大まで強化できる
→3分間、最大半径7m以内にいる全ての情報を収集、解析することができる。
→脳への負担が大きく、使用後はしばらく四則計算に手間取るほどの疲労感に襲われる。認識する対象が多いほど負担も大きい。
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