エメラルドとターコイズ

 私は春が好きです。

 みんなは4月がいいって言うけど、私は5月の方が好きです。

 街路に植わった桜の淡い桃色を眺めるのもとても美しいのですけど、私は太陽を身体にいっぱいに浴びてすくすくと育った青い葉をたくさんつけた木を見るのが好きです。

 私はエメラルドが好きです。

「貴女の瞳はエメラルドのように綺麗ね」

 私が初めてご主人様のお部屋へ伺ったとき、紫のお嬢様はこう仰ってくださいました。

 その時から、この両の瞳に宿るエメラルド色の瞳は私の自慢になりました。

 これはお嬢様に教わったのですが、中世ヨーロッパの科学者はエメラルドを「5月の露」と呼んだのだそうです。

 なんて素敵な言葉なのでしょう。

 青々とした葉っぱにぽつんとひとつ乗った朝露は本当に宝石のように美しいと思います。ぽかぽかと麗らかな陽気に温められた、時々吹く優しい風はまるでシルクで身体を包んでくれるようです。

 エメラルドに込められた言葉は幸運、幸福、未来を見通す力。

 私は予知なんてできないけど、幸せなのはこのおかげかもしれません。


 5月も半ばを過ぎた頃、時季外れの重たい雨がようやく収まり、涼やかな春の陽気が戻ってきました。

 すでに青々と咲いた庭園の草花も太陽を求めてすくすくと育っていて、そばを飛び交う虫や鳥が軽やかに踊っているのが見られました。

「良い天気…」

 私は少しだけ足を止めて、目を閉じて、みずみずしい草木と土の香りを胸いっぱいに吸い込みました。少し湿った土の上に茂る芝生がなんとも気持ちよさそうに見え、思わずそこに寝転がりたい衝動にかられてしまいます。

 「さて、行こうかな」と私は独りごちながら、両手に持ったバスケットに気をつけながら、身体をうんと伸ばしました。

 ふと見れば、バスケットの上を小さな羽虫が懸命によじ登っているのに気がつきました。

「ごめんね。これは貴方にはあげられないの」

 私はそう囁きながら、指でその子をつついたらすぐに飛んでいってしまいました。 


 お屋敷の半分ほどもある大きな植物園。

 私のひいおじいさまの代よりももっと前から、世界各国から集められた様々な植物が育っていました。どの子もとても大切に育てられて、いつも穏やかに過ごしているのが分かります。

 ただ植物園はいつも少し湿度が高くされているので、夏の間はむっと熱いのが困ったところです。

 お屋敷よりは短い通路を、美しい木々に挨拶をしながら進むと、ひとつのエリアに導かれました。

 そこは季節外れの梅の木が紅い花を咲かせていました。甘くツンとした梅の香りに満ち満ちていて、もしかすると桃源郷とはこのような場所なのかなと思います。

 一番大きな梅の木の前には二人がけのベンチがあります。

 そこは私たちのいつも決まった約束の場所で、すでに待ち人がぽやっとした様子で佇んでいました。

「おまたせ奏ちゃん」

 私がそう声をかけると、柊奏華…私のルームメイトで親友がとろんと眠たげな目で振り向きました。

「…待ってた…ひぃちゃん」

 奏ちゃんはほんの少しだけ目尻を下げて、私が座れるようにベンチの右へと寄っていきました。

「ごめんね。今日は久しぶりに良い天気だったから寄り道しちゃった」

 私はバスケットのなかから紅い漆塗りのお盆と、あんころ餅と草餅がふたつずつ入ったお皿と、一緒に使う湯飲みを取り出しておやつの用意をしながら言いました。 

「今日はね、あんころ餅と草餅だよ」

「…ありがとうひぃちゃん」

 奏ちゃんは私の準備をする様子を興味深そうに見つめながらそう答えました。


 私と奏ちゃんの関係は物心付いたときから続いていて、このお屋敷にあがってから同じ部屋に住むようになったのも当然の流れでした。

 しかし、私はメイドとしてお屋敷にずっといますが、奏ちゃんは科学者として大学や研究室を忙しく駆け回り、同じ時間を過ごすのが少なくなってしまったのでした。

 そのため、いつ頃からか、こうしてお互いの時間が合う時を見つけてはおやつを一緒に食べたり、小さい時のようにお話をするようになったのです。

「奏ちゃん、あ~ん」

 私は奏ちゃんに持ってもらったお皿から、あんころ餅を黒文字で取り上げて、彼女の口元へと差し出しました。

「あ~ん」

 小さな口を頑張って開く奏ちゃんに、一口より少し大きめなお餅を食べさせているとき、雛にご飯をあげる親鳥のような気持ちになります。

 花が開くようにというほどには破顔一笑を見せない奏ちゃんですが、この時はいつも少し眠たげな目に嬉しそうな色を浮かべているのです。

 好きな和菓子を口いっぱいに頬張って一生懸命に口を動かしている姿を見ていると、私はいつも胸が締め付けられるような気持ちになります。苦しいとか不愉快な気持ちではなくて、なんというか可愛らしくて仕方がないのです。

『小さな子が頑張っていたり、好きな物に夢中になっている姿を見るととても幸せになる』と九さんはいつも仰っていて、たぶんこれが母性なのかなと思ってしまいます。

 しばらくもぐもぐと動かす口が小さくなるのを確認して、私は音符の絵が描かれた湯飲みを渡しました。猫舌の奏ちゃんも飲めるちょっとぬるめのお茶です。

「…おいしい」

 ゆっくりと湯飲みを傾けながら、満足げに答えた奏ちゃんの瞳はいつの間にかきらきらとした光が宿っていました。

「奏ちゃん」

「…?」

 奏ちゃんは子どものように少しだけ首を傾けて私の顔をまじまじと見つめていました。

「奏ちゃんの瞳は…」

 私はちょっとだけもじもじと愛用の花火の湯飲みを手で弄びながら言いました。

「ターコイズブルーで綺麗だね」

 奏ちゃんはしばらく天井付近を見つめて、何も答えずにいましたが、すぐに私の方を見つめ返して答えました。

「…ターコイズ…水酸化銅アルミニウム燐酸塩…別名トルコ石」

 滔々と奏ちゃんはターコイズの宝石に関する知識を答えました。

「…第1世紀(紀元前3000年)にはすでに宝飾品として使われていた記録がある…人類とともに歴史を歩んできた石…」

「…ボクも好きな石…うれしい」

 奏ちゃんはにこっと小さく笑顔を見せて、子どものように笑いました。

 再び私の心にはぎゅっと締め付けるような気持ちが去来したのでした。

「うん…」

 私は残りのお餅をまた持ち上げて、奏ちゃんへと差し出しました。

「あ~ん」

「…あ~ん」

 やっぱりエメラルドは幸せの宝石なのですね。

 


ヴィアレット家豆知識

5月の誕生石はエメラルド。

12月の誕生石はトルコ石。

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