少し早いお花見

 3月も中旬になると、如月の凍てつく空気も力強く輝く太陽の熱に温められ、穏やかで暖かい空気が辺りを包み込んでくれるようになった。

 咲き誇る桜を眺めるにはまだ幾分か待たなくてはいけなかったが、代わりに灰色の侘しく見えた土の上には新緑の若葉が小さく顔を覗かせつつあった。


 太陽も少し昇った時刻、ヴィアレットの屋敷の一室の窓で、差し込む太陽に反射して何かが水面に映る光のようにキラキラと瞬いていた。

 そこは屋敷の一階にある美術室にも似た、古今東西の刀剣やアンティークの拳銃が厳重に収められた棚が並び、壁には西洋甲冑が鎮座している部屋だった。ふたつの人影が向かい合って一振りの剣をお互いに交差させていた。

 屋敷の主人であるゆずる=ヴィアレットが、メイドの一花を相手にサーベルを振るっていた。動作自体はゆっくりとだが、ふたりの間には冷たい緊張感が張り詰めており、静寂な空間のなかで鏡のように美しく磨かれた剣はぶつかり合う度に小さくキィンという鈴音を奏でていた。

「それまで!」

 突如、中央で切り結ぶふたりに向かって玄武の声が響いた。

 彼の声にふたりはサーベルを持つ手をゆっくりとおろし、お互いに立礼を返したところで、ようやく場に和やかな空気が流れ始めた。

「お坊ちゃま。お疲れさまでございました」

 サーベルを鞘に納めた一花が、深々と主人に向かって頭を下げた。剣の型稽古はそこまで激しい運動をしているわけではないが、主人の稽古相手を務めるとあってか、一花の額には汗の玉がいくつもできていた。

「ありがとう。一花はいつ見ても綺麗な太刀筋だね」

 かしづかれることになれた少年は、同じく剣を鞘に納めると赤と青のオッドアイの目を細めて答えた。

「恐縮でございます」

 一花はいつもの硬い表情こそ崩さないが、少しばかり弾むような声色を交えて言った。

「そういえば、この後はお茶の時間ですが、どうなさいますか?」

「そうだね。ゆなはまだ寝ているから、ちょっと梅の木を見に行こうかな」

「かしこまりました。それでは植物園の方に連絡をして参ります」

 そう言って、一花はてきぱきとした動作で部屋を後にしていくのを玄武はひとつため息を吐いて見ていた。

「やれやれ、坊ちゃま。あまり一花を甘やかしては…」

「僕は思ったままに言っただけだよ、玄武」

「彼女もまだ子どもですから、調子に乗ります」

「楽しく仕事が出来るなら良いと思うからね」

 そう言いつつ、ゆずるは使い終わった練習用の剣を元の棚へと戻した。


 奏華が管理者を務める植物園は、グスタフ率いる実験棟と比べると非常に静かな場所だった。人間よりも遙かに長い時を過ごす植物の時間の流れは、緩慢かつスタティックといえるためそれは必然といえた。

 事実、植物園にはBGMすらかかっておらず、重厚な窓と乳白色の壁に囲まれた空間は重々しくもどこか神秘性を感じさせるものだった。

 梅の木の前には、すでに肘掛け椅子とテーブルが設えられており、その隣にはメイドの柚月が恭しい態度で主人を迎えるべく控えていた。

「お坊ちゃま。ご機嫌麗しく」

 ゆずるは柚月の挨拶に軽く頷く程度で答えると、ゆったりとした動作で肘掛け椅子へと腰をかけた。

「本日はダージリンをご用意致しました。お茶菓子はチョコレートのムースでございます」

「ありがとう柚月」

 奏華の育てた梅の木はすでに満開に花を付けており、甘く芳しい香りに満ちていた。

「ここはいつも綺麗に咲いてるね」

 ゆずるは紅茶を一口含み、誰に問いかけるでもなくそう呟いた。するりと喉を紅く温かい液体が滑りおちると同時に、ダージリンの優しい花のような香りが鼻腔へと届いた。

「はい。とても見事に咲きました」

 柚月は主人の言葉にひとことだけ答えた。

 ゆずるは金属製の柵の中に一本だけ植えられた梅の木をじっと見つめていた。自然な環境とはとても言えない人工的な囲いのなかで、甲斐甲斐しい人の手を借りながらただ存在するこの木に、いつ頃からかどこか親近感を感じるようになっていた。

「…美しいね」

 ゆずるは再びひとつそう呟いた。


「お坊ちゃま。ご機嫌麗しく」

「…麗しく」

 しばらくぼんやりと過ごしていると、『アプリオリ』と奏華が挨拶へとやってきた。奏華も『アプリオリ』もともに白衣を着ており、どうやら実験中の合間に抜け出してきたようだった。

「お邪魔してるよ」

 ふたりの挨拶にゆずるがそう答えると、奏華はじっとゆずるの姿を見つめて少し逡巡するそぶりを見せた。

「…ここはお坊ちゃまのお屋敷のはず。敷地内のどこにでも自由に出入りする権利を有している…。そのためお邪魔ではない…です」

 普段ゆっくりと話す奏華にしては早口だった。最後の方になると風船がしぼむように小声になっていたが、ここにいる誰しもが彼女の気遣いを理解していた。

「そうだね。ありがとう奏華」

 ゆずるは目を細めてそう言うと、奏華は少し俯くだけにとどめた。

「ふたりも良かったらお茶をどうかな。今日はゆなが相手をしてくれないんだ」

「そうでしたか。ぜひご相伴にあずからせて頂きます」

 『アプリオリ』は愉快そうに笑って答えた。

「おふたりとも席へどうぞ」

 柚月の勧めに応じてふたりは席へ着くと、柚月はてきぱきと『アプリオリ』の分の紅茶を用意すると、「奏華くんは梅昆布茶だったね」と言って湯飲みと和菓子を出した。

「…ありがとう」

 奏華は少しだけ弾んだ声でそうお礼を言った。

「柚月も座っていいよ。みんなで少し早いけどお花見をしよう」

 三人は静かに主人の言葉に首肯していた。




ヴィアレット家豆知識

〇ヴィアレットの屋敷ないし敷地内には常にカントの防犯カメラが目を光らせている。そのため、ゆなもゆずるも一人で行動することは珍しくない。


〇梅の木→奏華が育てている品種改良された木。一年に何度も花を付ける美しい存在だが、交配能力が失われている。完全に人の手を借りなければ生きられないほど脆く儚い。

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