植物園の華
ヴィアレット家の住人たちが暮らす屋敷の敷地は、一日ではとても回りきれないほどに広大な庭園には囲まれていた。
人工的に植樹された木々や通路が作る幾何学模様を基調としつつ、大きな広葉樹が乱立した自然美を感じさせる空間が広がっており、英仏の伝統的な庭園の姿が見事なまでに調和していた。
また、なかにはやや小ぶりな日本庭園も造られており、そこには庭をじっくりと回遊できるように小さな橋までもかけられていた。さらさらと流れる小川には春には桜が、秋には紅葉が橋を作り、人工物では表現できない自然の妙なる美を見せてくれるのだった。
春から初夏と、晩夏から秋にかけては、仕事の合間の憩いの時間や休日の昼下がりに、木々の木漏れ日の下で昼食やお茶を楽しむ執事やメイドたちの姿が見うけられていた。時には刺すような強すぎる日差しも青々とした枝葉が受け止め、優しく唄う鳥や空を優雅に踊る虫たちの姿が、匂い立つように咲き誇る花たちが、まるで天国にいるかのような気分にさせてくれるのだった。
だが、それも寒さと比例して、白けた空に見える星の数ほどに人は少なくなっていく。
もちろん、冬には雪も積もり、寒い時期に咲く草花を楽しむことはできるのであるが、寒空のもとにテーブルを出し紅茶を楽しむというのはさすがに酔狂が過ぎるので、この時期ともなるとほとんどがラウンジから窓越しにのぞく侘しくも風情のある庭木を眺めるに留まっていた。
しかし、その自然のサイクルを乱し、極寒のなかにも花を楽しみたい者が訪れる場所がある。
『ここはいつ来ても美しい所ですね…』
1月も終盤に差し掛かると、例年にはない極寒が押し寄せ、ヴィアレットの屋敷は足の踏み場もないほどに雪に覆われていた。
外出しようにも、道路は凍り、交通機関はほとんどが足を止めてしまうほどで、当然自分も主人も仕事をしようにも何もできず、持て余した閑暇に焦れてきたとき、ジャンはこの館へと足を伸ばしていた。
もちろん気の置けない同僚たちと暖かいラウンジで賑やかに過ごすのも捨てがたいが、生来静寂をも好むこの青年は、気が向けば時折ふらりとひとりで草木をじっと眺めつつ散歩をすることを趣味としていた。
Gardens of Vialette―ヴィアレットの植物園は、ヴィアレット家が貿易商として名を馳せた時代に、とあるプラントハンターを筆頭に集められた世界中の珍奇な植物コレクションを素に作られた。
広さは屋敷の半分ほどにもなるほど巨大で、そこには見たこともないような美しくも妖しい草花や木々が植わっており、見る者を惹きつけずにはいられない不思議な魅力をたたえていた。
ジャンの散歩をするルートは決まっていた。季節外れの亜熱帯の植物を見上げ、名前もピンとこない珍奇な花を通り過ぎて、館の奥にある休憩用のテーブルベンチへと目指した。
そこには明るい髪色をしたひとりの少女がぼうっとベンチに腰掛けて、テーブルのそばにある桃の木をじっと眺めていた。
少女はふと視線を上にあげ、それからゆっくりとジャンの方を振り向くと、しばらくじっと凝視していた。
「…こんにちは」
奏華は小さく鳴くような声で挨拶をすると、ほんの少し目を伏せる程度に頭を下げた。
「お疲れさまです奏華さん。座っても?」
ジャンはにこやかに挨拶を返し、ゆっくりと彼女の真向かいのベンチを指さした。
奏華は何も答えずに、手でベンチを示すだけだった。
「ありがとうございます。そういえば最近お見かけしませんでしたね…」
「…キューガーデン(英国王立植物園)に行っていました。向こうのドクターたちとのカンファレンスがありましたので…」
奏華は抑揚なく、呟くほどの小さな声でそう答えると、再び目線を植物園の木々に移した。ジャンは「なるほど」とだけ返事をすると、それ以上話しかけることはしなかった。
「…そうですねー。だから、最近は林檎を食べるようにしてるんですよ」
「それだけで足りますか?私は朝は沢山食べないと力が出なくて」
「うーん、朝が弱いのでどうも入らなくて…」
しばらくすると背の高いシダの葉状の枝をかき分けて、大柄な男とサイドテールの少女が両手に色々な種類の木の実や枝葉を載せたバスケットを抱えてやってきた。
「ジャンさんだ!お疲れさまです!」
「ジャンさんお疲れさまです」
「露五さん、華火さん、お疲れさまでございます」
散歩道をいつも美しく綺麗に保ってくれている庭園の管理者ふたりとの邂逅を、ジャンは和やかに迎えた。
「こちらに来るのは久しぶりですね」
「えぇ、随分と足が遠のいてしまいました。通訳の仕事がどうも…」
露五がそう尋ねると、ジャンは少しだけ気まずそうに答えた。
「奏華。これでいいの?」
華火はベンチに座る奏華の前に膝をつくと、抱えていたバスケットを差し出した。
「うん…ありがとう」
奏華はのんびりとした動作でバスケットに満載になった木の実を一粒ずつ持ち上げてはじっと食い入るように眺めていた。
その小動物のような雰囲気に執事とメイドは不思議と癒やされる気持ちだった。
「あと華火…」
「うん?」
子どもが手遊びするのを眺めるように華火は小首を傾げた。
「…林檎を食べるのは正解だよ。林檎にはアスコルビン酸(ビタミンC)、鉄、カルシウムが多く含まれる…。プロシアニジン(ポリフェノール)は活性酸素を除去して、美白効果もある。カロリーも150kcal程度。食べにくいなら焼いて蜂蜜をかけるといいよ…」
「おー!焼き林檎は美味しいから好き!」
「アップルパイとかも良さそうですね。マリーさんに頼んでみましょうか」
「マリアンヌのパイはめちゃくちゃに美味しいですよ。コンポートも良さそうです」
華火と露五はわくわくと随分乗り気な様子で言った。
「…あと、ペクチン(食物繊維)も多くて胃腸のバランスもよくなるから…。華火がいつも気にしてるべんp…むぐ」
続きを聴くのに、露五とジャンが戸惑う前に、華火は奏華の口に両手を当てて塞いでしまった。華火の顔はみるみる真っ赤になっていき、まるで熟した桃のようだった。
「そ、そうだ!ジャンさん、お昼は食べられましたか!?私たち、これからご飯なのでご一緒にどうですか?」
しどろもどろとなった華火は、顔にさらに真っ赤にしながらジャンに言った。
「え、えぇ。そうですね。お昼時ですし、よろしければご一緒させて頂きます」
ジャンの返事に露五も静かに頷いた。
奏華は今もって口を塞がれたままだったが、再び園内の木々へと興味が移り、季節外れの草花をぼんやりと暢気に眺めていた。
ヴィアレット豆知識
柊 奏華
遺伝子工学を専門とする化学者。
普段ヴィアレットの植物園を管理しており、屋敷内ではあまり見かけることはない。
理屈っぽい性格で、ぼんやりとしていることが多い。
私生活はずぼらだが、学問にひたむきに向き合っている。
植物園を種子を保存するシードバンクに育てることが夢。
華火とルームメイト。
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