2023

眠り姫

 新年が明けて1週間も経つと、年末年始特有の浮ついた空気も段々と平常通りへと戻っているようでした。

 私はいえば、何やら虫の居所が悪かったのかどうも気分が優れず、新年の挨拶や初詣を済ませてしまってからは、ほぼ自室で寝ているか、絵画部屋に本と紅茶を持ちこんで、暖炉の炎と美しい絵画を見つめるだけの無為な一日を過ごすということに終始していました。

 普段私はテレビも見なければ新聞も見ることが無いため、非常に世俗に対して疎いか遅れることがあります。世の動きを把握することは大事と知っていながらも、軽佻浮薄なマスメディアの大仰さにはどうも辟易としてしまい、つい耳を塞ぎ目も閉じてしまうのです。

 特に静寂と思索に気持ちが傾くときには、一瞬間でもそれらに触れることには堪えられず、その時ばかりは芸術と紅茶と本だけが私の全てであるため、まさしく私の世界は限られた円のなかで回っていると言って良かったと思います。

 

「まぁ、眠り姫様が起きていらっしゃいましたわ」

 陽も随分と高くなった時刻、5日ぶりぐらいにラウンジに姿を見せた私を見てここのが開口一番にこう言いました。朝食の時間には間に合いませんでしたが、身支度を済ませたあとに、モーニングティーをとるためにラウンジへと降りてきたのでした。

「おはよう九。珈琲でいいわ」

 そう言って、私は自分のいつもの席へと腰を降ろしました。

 ラウンジ奥に設えられた暖炉の前の紅いベルベットがうたれた大型のソファです。

「承知いたしました。それにしても、お姫様は随分と長いおやすみでしたこと。たまには外にもお出かけしませんと」

 九は呆れたような様子を見せながら、ゆっくりとした動作で珈琲とチョコレートを準備してくれました。

 その姿は母や姉を思わせる彼女の世話焼きな性格を感じさせるものでした。キッカが彼女をママと呼ぶのも頷けるというものです。

「寝過ぎも良くないわね、身体が変な感じ。それに、薔薇が好きだから荊姫の方がいいわね」


※グリム童話眠り姫の別名はいばら姫。


 私がそう答えると、九は静かにカップに珈琲を注ぎました。目も覚めるような香ばしい匂いが、甘く鼻孔をくすぐるようでした。

「それでは王子様はお坊ちゃまですわね」

「あら、なかなか罪なことを言うわね」

 そんなたわいないお喋りをしていると、ソファの後ろから声をかけられました。

「やっと降りてきたんだね」

 チョコレートを舐めながら振り向けば、そこにはブリークス(半ズボン)とツイードのジャケットに身を包んだ紳士が立っていました。

「ついさっきね。お昼になる前には降りてきたわ」

「あのまま寝過ごして、根っこでも生えるのじゃないかと思ったよ」

 お兄様はそう言って、私の長い髪を手の甲で撫でつけました。声色には自堕落な妹を戒めるような調子が含まれていましたが、私は一向気にしませんでした。

「お兄様はいつも元気ねぇ。珈琲をいかが?まだ昼食には早いわよ」

「やれやれ…」

 お兄様はしようが無いとばかりにため息をついて、私の隣へと腰掛けました。

 まぁ、気持ちは分かります。

 毎朝、お兄様は陽が昇ると同時に目を覚ますと、しばらく私のそばで一緒に横になっているのですが、私は何をされようと一切目を開けようとはしませんでした。

 それは例え、すでに目を覚ましていたとしてもです。

「その格好は?乗馬にはまだ早い時期じゃない」

 お兄様は九が差し出してくれた珈琲を一口含んで答えました。

「今日はゴルフの練習をね。でも、そろそろルーカスたちにも会いに行ってもいい時期かもしれないなぁ」

 そう言う私と鏡映しの顔には、何か含みのある笑顔が浮かんでいました。

「…そうね。まぁ、私もルイーズにはしばらく会っていないから、今度でかけるのもいいかもしれないわ」


※ルイーズ(白毛)はゆなの愛馬で、ルーカス(黒鹿毛)はゆずるの愛馬。


 私はそう鷹揚にそう答えると、九は「まぁ!それはよろしいことですわ。それでは早速、厩舎の方にもご連絡をしませんと」と喜色満面で言いましたが、できるだけ知らん顔して、珈琲とチョコレートを口にしました。

『お坊ちゃま、お嬢様。おはようございます』

 しばらくして、カントが私たちのそばに立ちカーテシーの姿勢で挨拶をしました。

「Ciao。カント、ご機嫌はいかが?」

『Si。Molto Beneでございます』

 カントは胸の前で両手を握ってにっこりとそう答えました。

「カントちゃん、ちょうど良いところに。私は少し電話をしてきますので、代わりを任せてもいいかしら」

『Si。承知いたしました』

 九は私の気が変わる前にと、いそいそとラウンジを出て行きました。

『お嬢様。おかわりはいかがしますか?』

「今はいいわ。ありがとう」

 私は首を振って制すると、カントは楚々とソファのそばへと寄って控えました。

「君も座って良いんだよ、カント」

 お兄様は半分ほどになったカップをサイドテーブルに置くと、隣にあった椅子を指して言いました。

『ありがとうございます。お坊ちゃま。ですが、カントはこちらでご主人様を見ていたいです』

 彼女はそう言って花のように笑って答えました。

 ガラスの向こうにめらめらと燃える暖炉の炎がぱちんと弾けました。



ヴィアレット豆知識

ルイーズはパリ音楽院で初めて女性教授となったルイーズ・ファランク、ルーカスはケンブリッジ大学のヘンリー・ルーカスから名付けられた。

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