Car Chase#3

 マーガレット妃殿下通りを抜けてしばらく進んだ所にあるライオンロックトンネルを、ダークシルバーに塗られたポルシェが進んでいた。世界中のセレブが集う香港の街ではそこまで悪目立ちする車体でもないのだが、それでもやはり高級車が近づけば気後れするのはどこの国でも一緒で、二車線しかない狭い道でもポルシェが少し近づくと道を譲っていく。その隣を我が物顔に過ぎていく姿を先に譲った車は苦々しげに見ていた。


『Okay. Jeg tager pigen.(女は連れて行く)』

 助手席の男が先ほどから言葉少なげにスマートホンで通話をしていた。

 中国語ならせめて聞き取れたが、どうやら北欧あたりの言葉らしく、ところどころ単語を拾うので精一杯だった。

『やれやれ、どうやら博士。貴女が持ち出したデータの件はヴィアレットには筒抜けだったようだ』

 助手席の男はやっと英語で話し始めた。

『こちらを攻めるのはお門違いよ。先も言ったけど、全くばれずに持ち出すなんてこと自体、無理な話。できるだけ早く逃げ切るくらいしか手段はないわ』

 リサは努めて毅然とした態度で答えた。身体がブルブルと震えるのを我慢し、逃げたい気持ちと、約束を守ってくれるのかと問い詰めたい気持ちでいっぱいだった。

『まぁ、そうかもしれんな。だが、こちらもボスの命令は聞かねばならんのでね。貴女は約束の所まで連れて行く。ところで、先ほどから付いてきている女性は、博士の知り合いかなんかかね?』

 助手席の男がバックミラーを指さして言ったのを、リサは驚いた様子で振り向いた。

『シルヴィア!』

 青いマクラーレンに乗ったシルヴィアが、一定の距離を保ちながら後ろを付いてきていた。リサは車に乗ってからずっと俯き、さらには他のことに気をとられていたために全く気がついていなかった。

『おい』

 助手席の男がそう言うと、リサの左隣の男は座席の下に手をつっこみ物々しい軽機関銃Uziを引っ張り出した。

『ちょ…ちょっと!やり過ぎよ!人を撃ったりなんて聞いてないわ!』

 シルヴィアと対峙していたときでさえ、狼狽えることなく冷静だったリサは初めて動揺した声をあげた。

 だが、男たちは特に意に介することなく淡々と答えた。

『今更怖じ気づいたのか博士?』

『ま、まさか、そういうわけではないわ…でも』

『かまわん、やれ』

 男の合図と共に、パララララという短機関銃の銃声がトンネルを抜けると同時に響き渡った。


「くっ…」

 シルヴィアは前方から撃ってくる銃弾を、ハンドルを左右に振ることによって間一髪で避けたが、いくつかの銃弾は後ろを走る一般車にあたってしまっていたらしく、サイドミラーにはスリップして脇道へと停車した車が見えた。

「なんて無茶なことを…」

 正直、この時ほど銃の扱いに長けた同僚に銃弾から逃れる方法をたたき込まれていて良かったと思ったことはなかったが、オープンカーではなく、もう少し頑丈そうな車を選ぶべきだったと後悔していた。

 先ほどは向こうもあまり正確には狙いを付けられていなかったが、撃ち尽くしたマガジンを入れ替え、今度はしっかりとこちらに狙いを定めている。

 もうここまでかと腹を括った直後、突然、黒い車が猛スピードでポルシェとマクラーレンの間に滑り込むようにして割り込んできた。当然ながら、ほとんどの弾はその車に当たったが、特にひるむ様子はなく進んでいく。

「霧島さん!玄武さん!」

 シルヴィアはその見慣れた車体を見て、アクセルから足を離してしまいそうなほど気が緩むのを感じた。

《おーう。間に合ったな》

 通信機からは霧島の飄々とした声が微かに聴こえていた。


「おい玄武。ちょっとハンドル頼むわ」

 ポルシェの後ろに数mの距離をあけつつ、霧島はそう言ってハンドルから手を離すと、窓から身を乗り出してしまった。

「な…おい!ちょ…」

 玄武は慌てて横から手を伸ばすと、横に逸れかけた車体をまっすぐに修正した。

 フロントガラス越しから見える霧島の両手には大型リボルバーのコルトパイソンが握られていた。しばらく、霧島はじっくりと前を走る車に向けて狙いを付けると立て続けに2回引き金を引いた。バァンと言う射撃音の後にリボルバーが廻転し、再び音が鳴り響いた。

 しかし、ぶ厚い鉄板に穴を空ける.357マグナム弾は銃口からまっすぐにポルシェへと向かって行くが、あえなくそれらは特殊加工のタイヤに弾かれてしまった。

「ちっ…参ったな。ありゃ防弾仕様だ」

「無茶なことを…」

 再びハンドルを握った霧島に、玄武はため息交じりに言った。

 だが、霧島の銃撃にひるんだのかUziを構えた男は再び車内へと戻っていった。

「しかしまずいぞ。このままだといつまでたっても埒があかない」

 実際、状況は一向に進展を見せない。

 ただでさえ、めぼしい武器もなく、人質は向こうに捕らわれている。これ以上の騒ぎも起こせない。

 玄武にとってもこれほどに忸怩たる思いをするのは初めてだったが、それは霧島にとっても同じだった。

 いらいらとしそうな自分を抑えながら、しばらくの間、じっと地図を見ていた霧島ははっとある場所に目をとめた。

「おい玄武。ちょっと相談があるんだがな」

 霧島のにやけた顔に玄武は心底嫌そうな顔をして見せた。


『やれやれ、もう追いついてきたのか』

 助手席の男はあれが先ほど連絡があったアウディだと思うと同時に、向こうがこちらを制する武器を持っていないのだろうことを推察していた。

 このまま硬直状態で博士を引き渡す場所まで連れて行けばこちらの勝ちだ。

 男はぼんやりと千日手となったチェス盤を思い浮かべていた。

『兄貴。何やら後ろのマクラーレンで動きが』

 運転手の男がそういうのを助手席からサイドミラーで確認すると、アウディの助手席に乗っていた男が突如、マクラーレンへと飛び移ったのが見えた。運転席の女性は何やら驚いた様子だったが、アウディを超えてスピードをあげ突進してきた。

『ん?あの男が武器をもっているのか?おい。あの男を撃って…』

 助手席の男が合図をしたのもつかの間、マクラーレンは突如ぐわんと右に逸れ、猛スピードで隣を追い抜いていった。

『なんだ?』

 しばらく、ポルシェから数百mほど離れたかと思うと、マクラーレンから男性がひとり車から飛び降りた。

 男は鞘に収められた剣の様な物を左手に持ち、柄に手を添え、ややうつむき気味に中腰の姿勢で車道に陣取っていた。

『ははは!なんだあいつ!車を切ろうというのか?』

 助手席の男は笑いながらフロントガラスの向こうを見ていた。

 万策尽きてまさかこんな面白い冗談を見せるとは、と男は思った。

 一瞬、ポルシェの運転手が狼狽える様子を見せたが、助手席の『構わん!進め!』という声にスピードをあげていき、次第にその距離は肉薄していった。


「ふぅぅぅ」

 玄武は異様にゆっくりと流れる時のなかで、大きく息を吐いた。

 腰に下げた黒色の懐中時計は時を刻みながら、埋め込まれた宝石が妖しく輝いていた。そして玄武は、普段自分のなかで眠らされている強靱な膂力と鋭敏な感覚が次第に目覚めていくのを感じていた。

 しばらくして、ポルシェがついに自分の間合いに入った。

 玄武は呼吸を止めると、ポルシェの右側を斜めに抜けるようにして大きく一歩を踏み込むと同時に、強靱に鍛えられた鉄鞘のなかを刃を滑らせて抜刀した。

 まるでチーズでも切断するかのようにあっさりと、玄武の持つ刃がポルシェの車体に食い込み、そのまま抵抗もなく刃が滑っていく。

 玄武とポルシェが完全にすれ違った時、特殊カーボン素材によって守られたタイヤとフレームは真っ二つに切り裂かれていた。


 しばらくの間、ポルシェは道なりに進んでいたが、突如がくんと左に向かって大きく車体が傾き始めた。左前後のタイヤを失った車体は、ギャリギャリという耳障りな音とともに、火花をあげながら大きく左の道へと逸れていったが、運転手の腕も良かったのか、幸いなことに車体は独楽の様にぐるぐると何度か回転しガードレールにぶつかって停車していた。

 玄武は車を振り返ることなく、抜いた刀を鞘に収めた。

 キンと静かに鍔が鳴った。


「やれやれ、無茶はどっちなんだか…」

 霧島はガードレールにぶつかる車を見届けながらとろとろと愛車を停車させ、ついで先ほどまで隣に座っていた相方を苦笑いで見つめた。アウディに表示されたマップには、バスの停留所のために設けられたスペースにすっぽりと入った発信器が点滅していた。

《霧島さん!やっと追いつきました》

 良いタイミングは重なるもので、アウディに搭載された通信機からジャンの声が聞こえた。


 ガードレールにぶつかったポルシェはエンジンルームから煙を吹き上げ、焦げたタイヤと排気ガスの匂いがあたりに充満していた。

 突如バンと激しい音を立て、ドアが一斉に開いた。

 爆発をしたわけではなく、乗っていた男たちとリサが頭を押さえながらゆっくりと降りてきていた。

『ぐ…』

 前後不覚になった男たちはふらふらとガードレールや車に手をつきつつも、全員の手にはしっかりと拳銃と軽機関銃が握られていた。

 ジャンと露五、グスタフと合流した霧島と玄武は、それらを警戒しつつも男たちと十数mをあけて対峙していた。

「形勢逆転だ。大人しくした方が身のためだぜ」

「霧島さん、下がって下さい」

 露五はそう言って、霧島や玄武の前へと立った。手には弾を補給したデザートイーグルが握られていた。

『くそ!』

 悪態を吐きながら男たちは拳銃を霧島たちに向かって発砲したが、なぜか何度撃ってもその弾は届いては居なかった。

「ここからは銃は効きませんよ」

 執事たちの隣に並ぶジャンが羽扇を優雅に仰ぎながらそう言った。よく見れば弾丸は空中に縫い付けられるようにして止まっており、空気の盾によって守られていた。

 狼狽える男たちを見てリサは車道の反対側へとこっそりと移動しようとしていた。なぜか車の通りも少なくなっており、特に追突される危険性はないように見えた。

『おい!』

 男は逃げるリサに気付いて彼女に発砲しようとするが、間一髪でシルヴィアが腕を取り押さえ、銃弾はあらぬ方向へと飛んでいった。だが、さすがに筋力差があり、シルヴィアはあえなく突き飛ばされ尻餅をついてしまった。

『邪魔するな!』

 Uziを持った男がシルヴィアに銃を向けたが、直後激しい衝撃を受け前方へと弾かれてしまった。突然のことに全員が驚き、身を固くした。銃を取り落とした男はうめきながらその場に倒れ伏してしまった。

 男の後方に続く道からはぞろぞろと数名のアサルトライフルを構えた兵士が近づいてきていた。

『手をあげて膝をつけ!』

 兵士たちがそう叫んだ。

 さすがに男たちもそのような武器を前にしては抵抗を見せずに、両手をあげてゆっくりと膝をついた。それを兵士たちは素早く捕縛していく。

 リサを含め、5人をあっという間に捕縛すると、兵士たちの後方から中華服の青年が兵士たちに命じた。

『その男たちは連れて行け』

 兵士たちは黙って、男たちを連れて黒色のバンに乗せていくが、リサだけは兵士が押さえ、もう一人が身体検査を行っている。

『スティング博士。お久しぶりですね』

 中華服を身に纏った青年がリサの前に立って言った。

 なぜか仰々しく羽扇を携えており、ともすれば映画の撮影が始まるかのような出で立ちだった。

『ありました』

 リサを拘束していたひとりが、USBメモリを青年へと手渡した。

『ご苦労』

 青年はそう言ってメモリを受け取ると懐へと収め、妙に芝居がかった様子でシルヴィアたちへと向き直った。

「お騒がせしました。皆様とは…あぁ、確か去年の春のお茶会以来でしたか」

 怒濤の急展開にしばらく唖然としつつも身構えていたMarchiaの面々は警戒しつつも、青年をじっくりと見た。

 言われてみれば、青年の顔には見覚えがあった。

 例年、世界中のヴィアレット家の一族が集まる行事は何度かある。数日間に渡っての催しのために執事・メイドの交流もあり、話す機会がなくとも記憶に残りやすい人物というのはいる。

 記憶を遡れば、青年はその時も羽扇に中華服という出で立ちで目に付きやすい格好だった。

「中国分家の執事が何のようかしら」

 シルヴィアはなおも手にナイフを持ちながら言った。

 だが、青年はそのナイフを気にしているのかいないのか答えた。

「正直、私は大変困惑しております。博士は公孫家(中国分家の当主)の研究所より大事なデータを勝手に持ち出したうえ、それを他社へと渡そうとした。これは重大な罪ですよ。まさか日本の方々が博士を捕らえに来られるとは考えも尽きません。いやはや…」

「博士をどうするつもり」

「それはもちろん…まぁ、それなりの処分は受けて頂くことになるでしょうね」

 青年はあえてリサの処分の如何を明言はしなかったが、その処遇の結末は目に見えていた。でなければ、わざわざ危険を冒してまで香港まで来たりはしない。

「申し訳ないけど、博士は私の友人なの。罪は罪として裁くとして、せめて命だけは救って欲しいわ」

 はっきり言って、このシルヴィアの申し出は筋違いもいいところだった。

 先も青年が言ったとおり、リサ博士はヴィアレット家から重大なデータを盗んだ。

 そもそも国内の法律に基づいても許されない罪であり、最高刑が科されても文句は言えない身である。

 それを友人だからせめて恩情をかけて欲しいという。

「ふぅむ、なるほど。なんと篤い友情。いや、義とも言えるのでしょうね」

 意外にも青年の反応は悪くない感触だった。

「ですが、私情でお仕えする一族の障害となる者を庇うというのは、それは忠に反することなのでは?」

 至極当然の言葉を青年はシルヴィアへと投げかけた。それは決して嘲りの感情などは感じられない本心のように思えた。

「そう…そうね、そうね」

 シルヴィアはその言葉を噛みしめつつも、青年へと毅然と答えた。

「だけど、私たちのお仕えする主は、軽々しく人の命を奪うことを良しとされないわ。それが大事な友人ならなおさら、放ってはおかないとおっしゃるはずよ」

 大事な友人という言葉に、俯いていたリサは顔を上げた。そこには確かに学生時代にともに語り合った友人の姿があった。

「困りました…ね」

 男はそう呟くと、手にした羽の扇で口元を隠しつつ少しだけ目線をそらした。本当に困っているといわんばかりの態度にMarchiaの面々は意外に感じる。

 突如、青年は胸に手を当てた。どうやらスマートホンの通知に気付いたようだった。「失礼」と言って青年は通話に出た。

『どうしました?…ふむ、そうですか。分かりました。良いタイミングだったようですね。ありがとうございました』

 中華服の青年はスマートホンを懐にしまうと、リサの方を向き直してにこやかに言った。

『スティング博士。貴女の取引の相手ですが、たった今私どもの部隊が殲滅したそうです。それと少女をひとり保護したとのことでしたが…』

『リリィ!』

 青年が言い終わる前に、リサが反応した。

『あぁ、神様‥』

 リサ博士はそれまで張り詰めていた緊張感が解けたのか、思わず地面にへたり込み、嗚咽をあげながら涙をこぼしていた。

「どういうこと」

 シルヴィアはリサの様子に怪訝そうな顔をして言った。目の下の隈がさらに深まっていく。

「先ほどお話しした通りですよ。我々の悩みの種は今をもって無くなりました。強いて言えば、スティング博士をいかにするかですが…ふむ」

 中華服の青年はしばらく逡巡する姿を見えたが、その仕草にもわざとらしさが見て取れていた。

「…まぁ、元を絶ってしまえば、後は宜しいでしょう。博士はそちらにお任せすることと致します。時間稼ぎもして下さったことですしね」

「ちっ、なるほどな。そういうことだったか。Cazzo(畜生が)」

 青年の様子を見て合点がいった霧島は心底面白くないといわんばかりに悪態をつくと、露五を手で制して拳銃を降ろさせた。

「ご不快に思われたなら申し訳ございません。ですが、私どもも手段は選んでいられなかったのです。せめてものお詫びとして、博士の娘さんも後でそちらにお送りしましょう。今後の博士の身の安全も保障致しますよ」

 中華服の青年はそう言って「それではと」恭しく礼をすると、すでに待機させておいたセダンへと乗り込もうとして、ふと振り向いた。

「あぁ、それとジャンさんでしたか?」

 中華服の青年に突然名指しで呼ばれたジャンは、珍しく怪訝そうな顔で反応した。

「前々から思っていましたが、貴方…私とキャラが被っていますね。羽扇は私のトレードマークなのですよ?」

 それだけ言い残すと、さっさと中華服の青年はセダンへと乗り込んでしまい、風のように去って行ってしまった。

 ジャンを含めた全員きょとんとした表情でその場に取り残されてしまっていた。

「はぁ、なんなんだか」

 玄武がそうため息を吐いて肩を落とした。

「分からん。まぁ、とりあえず今回の件はこれで片付いたな」

 霧島も肩を落としてそう言い、ちらとリサの方へと目をやった。

『ごめんなさいシルヴィア』

 リサはシルヴィアに抱かれながら、何度も詫びの言葉を述べた。

『いえ、友人を助けるのは当然ですから』

 そこには打算も何もない純粋な友情の姿があった。

「はぁ、やれやれ。まぁ、フライトの時間には間に合って良かった」

「みんなお疲れさまだったね」

「グスタフさんも」

 露五もグスタフ、ジャンもまたお互いの健闘を労い合っていた。



【エピローグ】


 ペニンシュラ香港での爆発騒ぎが起こった日の夜。

 九龍の街を見下ろす高級コンドミニアムで、ひとりの青年が湯上がりのバスローブに着替えながら毒づいていた。

「散々な目にあった!くそ!」

 ナンパには失敗し、車を盗られ、プライドまで傷つけられた。

 帰るための足をわざわざ呼ぶ羽目になり、車を買ってくれた父親にこっぴどく叱られたのも腹立たしいことだった。

 高級なシャンパンも空け、風呂にでも入れば少しは気が収まるだろうと思ったが、むしろアルコールの影響でどんどん怒りが募っていく。

「あぁ!くそ!あの女のせいだ。ホテルであいつの居場所を問い詰めてやる」

 青年の父親は香港でもそれなりに権力を持つ人間だった。

 父親の名前を出してカネさえ渡せば、名前や映像くらいは手に入るだろうと考え、あとはいかようにもしてやろうと夢想していた。

 だが、風呂場からリビングへと戻ったとき、その空想はどこかへとふっとんでしまった。

「良い部屋だな…だが景色だけはお世辞にも良いとはいえねぇ。日本での屋敷の生活に慣れすぎたかね」

 男がひとりソファにどっかりと腰を降ろして座っていた。窓の方を向いて座っているため顔は確認できないが、白い髪がやけに目立っていた。

「なんだてめぇ!」

 青年は心底驚いて思わずそう叫んだ。普段ならさすがにこんなことはしないのだが、イライラが募った挙げ句に我慢ができなくなってしまった。

「いやなに…昨日はうちのモンが迷惑かけちまったからな。その弁償に…な」

 そう言って白髪の男は、ソファに置いてあった紙袋を鷲づかみにして立ち上がって振り向いた。

「てめぇ昼間の…弁償だと…いやそもそも、どうやって入って…」

 青年は情報量の多さにパンクしてしまい、何から問い詰めるべきか整理できずぶつぶつと呟いていた。

「とりあえず、これを」

 霧島はそう言って紙袋を青年に向けて投げてよこした。

 なかには下町で売っている安物のお菓子が入っていた。

「…ッ!ざけんな!」

 青年は感情に任せて霧島に紙袋を投げ返したが、あえなくキャッチされてしまう。

「まぁまぁ、もちろんこれだけじゃないさ。上を見てみな」

 霧島はそう言って天井を指さした。

「あ?上?うぉ…!」

 突如、青年の顔に目がけて煉瓦のような塊が落ちてきた。

 見れば象牙色の天井には真っ暗な穴ができており、そこから無限とも思える量の紙幣が土砂降りに降ってきていた。みるみるうちに青年の身体は降ってきた札束に埋もれてしまい、青年は驚きのあまり床に倒れ伏してしまった。

「迷惑料も兼ねてある。ドル紙幣で50万。あんたの愛車もガレージに入れといたよ。悪いが、これでチャラにしてもらうぜ」

「ぐ‥くそ…なんなんだ…」

 青年は突如振ってきた札束の雨に脳しんとうを起こしたのか、やや虚ろな目で霧島を見上げていた。

「それと昨日から今日までのことは全て他言無用だ。喋っちまったが最後、俺より始末が悪いやつがこの部屋に来る。そしたら次にいるのはこんな快適な場所じゃないぜ」

 白髪の男の淡々としつつも冷徹な声に青年は戦慄を覚え、薄れゆく視界のなかで数度瞬きをするといつの間にか霧島の姿は消えてしまっていた。

 そして青年はそのままぐるんと白目をむいて気を失ってしまった。


「霧島さん。遅いですよ」

 入り口付近に停められたアウディの後列シートに乗ったシルヴィアが窓から顔を覗かせていた。

「悪い。久しぶりのタバコが旨くて仕方なくてな」

 霧島がそう言って愛車に乗り込むと、

《香港のタバコは高いって言ったろう?》

 グスタフが通信機越しにそう言った。

《まぁまぁ、それではこのまま空港へと向かいましょう》

 ジャンの言葉と共に、ジープとアウディは香港のけばけばしいネオンの街へと消えていった。


ヴィアレット家豆知識

中国服の執事=中国分家に仕える青年。

物腰は柔らか。職務に忠実で、冷徹に事を進める性格。

形から入るタイプで、羽扇とチャイナ服はお洒落アイテム。

能力などは不明。


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