CarChase #2

 格差を是正することの難しさを知りたいなら、香港へと脚を伸ばすといい。

 霧島は先ほど出てきたペニンシュラホテルの東側の歩道を歩きながら、手にした紙袋に詰まった安っぽい菓子を見てそう思った。視線をあげればそこには、ヨーロッパの街並みを模したようなガラス張りと石造りの建造物が乱立し、人間の欲を駆り立てるようだった。

 それはまさに移ろいの激しい生きた街と言えた。 

 しかし、ペニンシュラのような歴史ある絢爛なホテルから数キロも離れれば、そこには九龍の貧困層が住む巨大でボロボロなアパートメントがそこかしこに見られた。目をこらさずとも見られる巨大で美しいビルディングの足下には人間の手ではどうすることもできない程の激しい貧富の差が広がっている。

 かつては自分も、物心がつく頃にはこんな光景を見て育った。

「何の因果なのかね」

 霧島は手にした食べかけの饅頭を口に放り込んでそう呟いた。


 ちょうど霧島が向かうホテルの裏手には、灰色のアウディと、青のランドローバーが縦列に停められていた。ランドローバーのなかでは露五とジャンが昼食のサンドイッチを食べながら談笑しているのが見えた。車の中からふたりが軽く会釈するのに、霧島はちょっとだけ手をあげて答えた。

「おう、おかえり」

 アウディの助手席では執事の玄武が昼食のおにぎりを頬張っていた。

「うぃ」

 霧島は軽く返事をしながら億劫そうに愛車へと乗り込んだ。

「シルヴィアさんは大丈夫だったか?」

「まぁ、なんとかって感じだな。あいつも大変だ」

 霧島はそう言って、今までオフにしていた通信機のボリュームを上げた。

《そうそう…そんなこともあったわね》

《えぇ、博士もあの頃は随分と奇天烈で‥》

《まぁ、貴女もそれは一緒じゃない?》

 シルヴィアの着けた通信機の向こうからは、ふたりの女性の楽しそうな会話の声が延々と聞こえていた。

「まだ話してんのか。長ぇな。もう5分は立ち話してるぞ」

「女性はお喋りが好きだからな。仕方ないさ」

「やれやれ…」

 霧島はそう言ってため息をひとつ吐いた。

《そういえば貴女、今はどこで働いているの?》

《ヴィアレットです》

 博士の問いにシルヴィアがそう答えると、まるで急に温度が下がったと感じるような緊張感に包まれた。

《…今ならまだ何とでもなります。一緒に来て下さい》

 そろそろだなと霧島はハンドルを握ったが、しばらくの沈黙が続いた。どうやら様子がおかしい。

《それはできない相談ね》

 博士が拒絶の意思を示すと、突如耳をつんざくバァンという破裂音が通信機から鳴り響いた。

「…!!?」

 通信機を付けた霧島は突然の爆発音と強いノイズに思わず耳を押さえた。

「くっ‥一体何だ!」

 ガリガリという大きなノイズ音を放つ通信機を耳から外した玄武がそう叫んだ。


《霧島さん!玄武さん!今のは》

 車に搭載されたスマートスピーカーから、露五の声が聴こえた。バックミラーを見ると、同じく通信機に耳をやられて狼狽える姿が映っていた。

「なんかトラブルみたいだな。ホテルに急ぐぞ!」

 霧島はそう叫ぶと、停車していたアウディのアクセルを思い切り踏んだ。少し遅れて、後方のランドローバーも追いかけてきていた。一方通行の多い複雑な香港の街だが、幸い向こうの通りを旋回すればすぐの所に停められていた。

「おいおい…勘弁しろよ」

 しかし、霧島はシルヴィアたちのいるペニンシュラホテルの入り口の方向を見て、苦虫を噛んだような顔を見せた。暴動と言うほどではないが、大勢の人々が狼狽えた様子で押し合いながら道路へとあふれていた。

『おい!早く行けって』

『私の子どもはどこ!』

『警察は来ないのか!』

 英語や中国語の入り交じった怒号や困惑する声と、それに怒る車のクラクションが窓越しにも響くようだった。

「おそらくさっきの爆発音だろうな。これじゃ追いつくどころじゃ…」

 玄武もまた苦い顔でそう答えた。

《…聴こえ…す…》

 しばらく音信不通になっていた通信機から、途切れ途切れに声が聴こえた。

《聴こえますか?今サリスバリー通りを抜けてチャタム通りを北へ向かっています!》

「聴こえます!何があったんですか!」

 まだ機械の調子が悪いのか、玄武が通信機に向かって叫ぶが応答はなかった。

「どうやら向こうの声が聴こえるだけみたいですね」

《すみません…博士を連れ出すことはできませんでした。発信器だけは付けることができたのですが》

 霧島がハンドルのボタンを操作すると、フロントガラスに半透明のナビゲーションが投影された。左下の小さな地図には香港の道路と、その上を移動する赤い印が描かれ、運転席側には左を示す記号が点滅していた。

《今のところ、10m程度距離を空けて博士の乗った車を追っています》

「とりあえず、発信器を追うぞ。ジャンさんもそれでいいな」

《はい、了解です》

 アウディとランドローバーは先来た道へとUターンすると、ネイザン通りを北上し始めた。多くの観光客が行き交う道だが、幸いまだ車の通りは少ない時間だった。

「おそらくこの道だと博士はマーガレット妃殿下通りに乗るはずだ。ショートカットで飛ばせば追いつける」

 霧島の言うとおり、発信器は香港理工大学の傍を国道へ向かって進んでいた。しかし、直前まではスピードが出ていたが、しばらくゆっくりと進んでいる。

「たぶん渋滞ですね。確かにこのまま居てくれたら追いつけるかも。そういえば、シルヴィアさんはどこから車を調達したんだ?」

 地図を見ながら玄武がそう呟くと、間髪入れずにシルヴィアが答えた。

《ちなみに車は私に声をかけてきた男から借りました。マクラーレン・スパイダーです。素敵な車ですね》

《本当は聞こえてません?これ》

 音声を共有できる全員が露五の言葉と一致した思いだった。


 シルヴィアは通信機のオープンチャットを閉じると、再びハンドルを握った。

 知っている情報は全て伝えたが、返事は聞こえない。微かにノイズに紛れて話し声が聞こえないこともなかったが、何しろ今の自分は耳を痛めてしまっている。オープンカーになっているにも関わらず、他の車の走っている音も不愉快に思うほど聞こえずらくなっていた。

 玄武の推察の通り、リサ博士とシルヴィアの車は小さな渋滞に巻き込まれてしまっていた。車をこするほど無理矢理通れば進めないこともないかもしれないが、ひょっとすると向こうはまだ気付いていないかも知れないことを考えると、あまり無茶はできかねる状況だった。いっそ走った方が早いのではないかと思ってしまうほど、忸怩たる思いにいらいらとしてしまう。

「博士‥・貴女がこんなことをしでかすなんて…」

 シルヴィアは目の下にできた隈がさらに深くなりそうな程に、眉根をひそませてしまう。

「取り返しのつかないことになるのは、もうこりごりですよ」

 シルヴィアと博士の車は再びスピードを上げ、交差点からマーガレット妃殿下通りへと入っていった。


「見えた。あれがチャタム通りだな」

 シルヴィアの連絡を受けてから5分ほど車を走らせると、ようやくふたりの通った道路へと追いつくことができた。

「かなり北上してしまっているな。これはどこに向かっているんだ?」

 玄武は食い入るように眺める地図には、すでに1キロほど国道を進んだ博士の車が表示されていた。

「シルヴィアがちゃんと追えてるといいんだがな。仕方ねぇ。少し飛ばしていくしかねぇな」

 そう言って霧島がやや強めにアクセルを踏み込み交差点から国道へと入ろうとした瞬間、一台の黒の大型ワゴンが道を塞ぐようにして割り込んできた。

「まずい!」

 とっさに霧島はサイドブレーキを引きつつハンドルを左に思いきり切ると、アウディは車体を斜めにして滑るように間一髪そのワゴン車をすり抜けていった。

「くっ…おい霧島。運転は安全に…」

 突然の無茶な運転に目が回りそうになった玄武は、頭を押さえながら抗議するが、霧島はさらにアクセルを強く踏み込んで言った。

「言ってる場合じゃねぇ。たぶん奴らだ」

 そう言ってバックミラーへとちらと目をやると、霧島がすり抜けて行った道をランドローバーが着いてきていた。どうやら先のワゴン車は違う道へと入っていったらしい。

「くそ…やっぱりシルヴィアには気付いてるのか?」

 霧島がそう苦々しげに言うと、さらに複数台のワゴン車が列をなして後ろへと迫ってきているのが見えた。車がこちらへと肉薄すると、何名かが身を乗り出して銃をこちらへと向けているのが確認できた。

 霧島はさらにアクセルを吹かせるために足に力を入れるが、突如ドォンというくぐもった破裂音が聞こえた。見れば、背後のランドローバーが相手の車数台を通せんぼする形になり、窓からは露五が身を乗り出し拳銃をワゴン車に向けて発射していた。

《おふたりとも!ここは我々に任せて先に行って下さい!》

 ジャンの声がスマートスピーカーから聞こえた。

「すまねぇ!先に行く!」

 ジャンの言葉に霧島が答えると、アウディクーペはさらに快音を鳴らして国道を進んでいった。


 霧島の車が高速で走っているのを見届けると、しばらくの間ジャンは左右に車体を器用にふりながら、ワゴン車が追い抜いていくのを阻止していた。しかし、相手は拳銃とUZIを使って激しい攻撃を浴びせてきており、時折流れ弾が他の一般人の車に当たってクラッシュさせており、あまり派手な動きができずにいた。

 防弾仕様の窓ガラスと車体のおかげで無事に済んでいるが、明らかに攻撃能力は向こうの方が高く、さすがのジャンの運転でも何度か追い越されてしまいそうになっていた。

 後方の席に回った露五は愛銃での反撃を試みているが、さすがに多勢に無勢では歯が立たない様子だった。

「く…キリが無いですね」

 露五が珍しく舌打ちをしながら言った。

 何丁かの銃火器は使用不能にしたが、未だに攻撃が止む気配はなかった。

「さすがにあの数は私の手にはどうにも…。露五さんはお持ちの銃の弾はどれほどですか?」

「もっと穏便に済むと思って銃はこれだけです」

 露五の手元では愛銃のデザートイーグルが硝煙を吐き出していた。すでに予備のマガジンも使い、残っているのはあと3発となっていた。

「今回こちらが可能なのは武器の無効化のみですからね。なんて厳しい」

 ジャンは冷静にハンドルを操っていたが、その言葉には焦りの色が浮かんでいた。

 日本や欧州とは違って、香港では日本のヴィアレット家はあまり派手な動きは許されていない。そもそも、今回の件は当初中国分家の抱えた問題でしかなかった。リサ博士は中国分家のシステムを盗み出していたのだが、他の家に比べてメンツにこだわる傾向の強い中国分家はリサ博士の身の保証はしてくれない。ひょっとすると、今追いかけてきているワゴン車は中国分家の抱える部隊かもしれないのだ。だから、迂闊に危害を加えることは絶対に避けなくてはならなかった。

 ガチンっという排出ガスによってスライドが開く音が聞こえた。

「…ジャンさん。弾が切れました」

 露五が苦々しげに言った言葉に、ジャンもまた苦々しげにホゾを噛んだ。


《やぁ、ふたりとも。手を貸そうか》

 突如、聞き馴染みのある声がスピーカーから聞こえた。

 ふたりは同時に背後を確認すると、紫色に塗られたMVアグスタがワゴン車に併走しているのが見えた。バイクに乗った人物は追ってくるワゴン車に次々に何か爆弾の様な物を貼り付けると、一気にスピードを上げてジャンたちのランドローバーへと向かってきた。背後ではワゴン車が次々とスピードを失い、何台かは制御を失ってクラッシュし、残りは道の真ん中で停止していた。

 しばらく国道を走らせ、後ろから追ってくる者が居ないことを確認して露五が言った。

「ジャンさん…追ってくる者はいません」

 はぁと露五は長いため息を吐いた。

「助かりましたグスタフさん」

 ジャンもまたほっとため息を吐きながら併走するバイクに向かって礼を言った。

 併走するMVアグスタに乗ったグスタフは気さくに片手を挙げて答えた。

《遅れてすまないね。香港の街は不慣れで困る》

 ランドローバーとMVアグスタは併走しながら先に走っていった車を追いかけていった。


ヴィアレット家豆知識

中国分家=宇宙開発を主に生業としている。他の一族同様絆は強いが、非常にメンツにこだわる家であるため裏切りや侮辱は許さない。今回の件では非常に頭を悩ませている。

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