Car Chase#1

 11月に入ると、秋らしい涼やかな日は過ぎ去り冬の装いが見えるようになっていた。しかし記憶の上では秋の過ごしやすい快適な日々は全く存在せず、夏から冬へと極端な切り替えがあったような気すらする、何とも寒暖差の激しい日々が続くものだと辟易とする気持ちだった。

 それは日本だけでなく海洋を隔てた香港でも同じだった。一年を通して温暖な気候を維持する彼の地でも、11月は特に過ごしやすい月なはずだが、昼は思ったよりも肌寒く、浮かれた観光客は服選びを失敗したと身体を抱きながら思うのだった。

 雄大ながらもどこか妖しげな雰囲気を漂わせるヴィクトリア湾を望むホテルペニンシュラ香港。有名なスパイ映画の舞台ともなったこのホテルは英国風の造りとなっており、入口の獅子の彫像などはファンでなくともくすりと笑ってしまうかも知れないほど愛嬌のある顔をしている。

 一階のロビーでは、久しぶりの旅行に心躍らせる観光客たちが東洋と西洋の織りなすエキゾチックな雰囲気を思う存分に堪能する姿が見られた。しかし、ロビー奥の窓際の席。そこだけはなぜか別空間のように落ち着いたというか、張り詰めた糸を見つめる緊張感のようなものが覆っていた。

『おい、あれ見ろよ』

『あぁ、すげぇ美人だな』

 パーカーにデニムというラフな格好に身を包んだ観光客の青年ふたりが遠巻きながらにひとりの女性を見てひそひそと話していた。

 床に届きそうな程に長い銀色の髪、スラブ系の透き通るような白い肌、そしてぞっと背筋が寒くなりそうな程に整った美しい横顔が嫌でも目をひいた。手には難しげな洋書があり、それを見つめる瞳は知的かつ冷徹でありながら、長いまつげは若い女性のあどけなさも残していた。それに今日は随分と寒いのに、脚には長くスリットの入った中華風の服を着ており、その大胆な格好には男女問わず嫌が応にも目を奪われた。世界中のセレブが訪れるペニンシュラと言えど、彼女ほどの美女はそういるものではなく、外を歩く観光客も窓越しにちらちらと見ていたほどだった。女性は特に意には介していなかったが、やはりその刺さるような視線に『もっと奥の席を取るべきだった』と些か後悔していた。

『やぁ、ひとりかい』

 突然、誰かが英語で話しかけた。だが、シルヴィアは一瞬だけその切れ長の目で一瞥すると、すぐに手元の活字へと目線を戻した。

『生憎ひとりではないわ』

『そうかい?誰かと待ち合わせかな。退屈なら、少しだけ僕とドライブでもどう?」   

 おそらくそれなりのセレブなのだろう。ブランド物に身を包んだ青年が優しげな様子で話しかけていた。よく見れば顔はうっすらと化粧が施され、軽薄そうな遊び人という雰囲気が伝わってくるようだった。続いて二言三言男は話しかけたが、一向シルヴィアは意に介しなかった。

『興味無いわ』

『いいじゃんか。ちょっとだけ』

 しびれを切らした男は強引にシルヴィアの手を掴むと、ぐいぐいと引っ張った。

『ちょっと…』

 さすがに周りの人々もそのやりとりに看過できない気持ちではあったが、関わり合いを避けあえて口出しはしない様子だった。だが、また別の男がひとり、ふたりの間に割って入った。

『うちの妹をナンパかい?物好きだね』

 その男はいっぱいに詰め込まれた紙袋を抱え、白髪が妙に目立っていた。

『悪いが他を当たってくんな。あまり大事にもしたくないし』

『あ?何だよお前』

 当然、青年はその急な闖入者に不愉快げに眉をひそめたが、白髪の男はなおも距離を詰めてきた。

『まぁまぁ、それより良いピアスだな…メンズ物か?くれよ』

 白髪の男はそう言って、青年の左耳に着けられたピアスを自然な手つきで摘まんでしまった。青年は喧嘩慣れしている様子はなさそうだったが、このまま抵抗をすれば引きちぎられてしまうだろうことは明白だった。

『わ、分かったよ』

 脅しではないと言うことを悟った青年はそう言ってシルヴィアの手を離すとそのままいそいそと立ち去ってしまった。

「遅刻ですよ。30分待ったわ」

 シルヴィアはまるで何事もなかったようにそう言って再び席に着くと、再び洋書を手に取って読み始めた。

「悪いな。下町の雰囲気がどうも懐かしくてつい長居しちまった」

 霧島は相変わらずの飄々とした態度を崩さずに、シルヴィアの真向かいの席に腰を降ろした。手に抱えた紙袋をテーブルに載せると、なかには香港の繁華街で売られている安物のお菓子が詰め込まれていたのが見えた。

『あと、いつ私が貴方と兄妹になったのでしょう』

『なんだ、そんなの気にするタイプなのか?』

 シルヴィアの人を射貫くような鋭い視線を、霧島は特に関心無く受け止め、袋をガサガサと漁って菓子を食べ始めた。

「あんな男ひとり、私ならわけないのですが」

 そう言って彼女はため息をひとつついたが、今度は霧島の方が目を伏せて睨み付けた。

「冗談じゃねぇよ。その脚に隠したもん、どうするつもりだったんだ」

 シルヴィアはわざとらしく目をそらすとにやりと口角をあげた。スリットから覗く美しい脚にはベルトに固定されたダガーナイフが光っていた。

「別にどうもしませんよ。逃げるつもりだっただけです」

 霧島はため息をひとつ吐くと、しばらくむしゃむしゃとお菓子を食べながら考え事をしているようだった。

「…まぁ、いい。それより博士は?」

「もうそろそろですよ…来ました‥」

「なら、俺は裏から車を回してくるかね」

 そう言って霧島は、半分ほどの量に減った紙袋を鷲づかみにしてテーブルから立ち去ってしまった。シルヴィアもついで席を立つと、階段をゆっくりと降りてくる眼鏡をかけた妙齢の女性の姿を追った。

 標的となる女性はシルヴィアの大学時代に付き合いのあった学者のひとりだった。随分と長く連絡は取っていないが、当時から非常に優秀な物理学者としていくらか親交を持ったことがあり、有名なメーカーへの就職も決まったのは知っていた。しかし、先日ヴィアレット家のロボット工学の一部を、軍事兵器へと転用しようとしているという報告を受けた。直接的には関与しているわけではなさそうだが、悪用しようとしている組織との繋がりを彼女が一番強く握っていることは確かだった。

 あくまで情報を聞くために尋問をする程度を考えているため、できうる限り手荒な真似はしたくないと考えていた。

『リサ・スティング博士ですね』

 シルヴィアは彼女の進路を塞ぐようにして目の前に立った。当然、突然話しかけられたリサは怪訝な顔をして立ち尽くしていた。

『お久しぶりです。大学の時以来ですね』

 そう言ったシルヴィアに、リサはしばらく首を傾げていたがぱっと花が咲くように笑顔へと変わった。

『アレンスカヤ!貴女アレンスカヤね!随分久しぶりね。大きくなったわ』

 10歳近い年の差があるシルヴィアを、リサは当時と変わらぬ態度で抱き寄せた。

『貴女も。昔はお世話になりました』

『貴女がそんな殊勝なことを言うとはね。私も貴女も年をとったという事かしら』

 リサはふふふと手で口元を隠しながら朗らかに笑った。これが偶然の出会いで旧交を暖めている姿ならとシルヴィアは苦い気持ちになった。

『今はどこで働いているの?』

 リサは旧友に何気なく質問を投げかけた。

『ヴィアレットです』

 リサはシルヴィアのその答えを聞いた瞬間、さっと顔が青ざめさせていった。

『分かりますね。どうして私が来たか…今ならまだ何とでもなります。一緒に来て下さい』

 シルヴィアはそう言って、リサの手を取ろうとしたが、

『それはできない相談ね』

 そう言って彼女はかけていた眼鏡をゆっくりと外すと、突然それを地面へと叩きつけた。癇癪を起こしたわけではない。

 床に眼鏡が叩きつけられた瞬間、バァンという激しい音がフロア中に轟き、目が眩むほどの強い閃光が走った。

 驚いたシルヴィアはとっさに目を覆うことができたが、キィィンという耳鳴りとめまいが彼女を襲った。幸いにも通信機が耳栓の役割を兼ねてくれて、かろうじてめまいはすぐに回復したが、それでも聴覚が3割程度に麻痺してしまっていた。歪む視界越しに見えたリサの姿を追ってシルヴィアはよろよろとホテルの外へと出て行った。

『博士!』

 シルヴィアはそう叫んだが、リサは振り向くことなく道路にあらかじめ停められた車の後部座席へと乗り込んでいった。

《聞こえますか?》

 シルヴィアは通信機に向かって話しかけたが、返事が聞き取れなかった。見たところ、周囲にはまだ霧島の車は見当たらない。リサの乗った車はすでに走り去っていた。

「くっ…待っていたらとても間に合わない…」

 せめてこちらから追跡しなくてはとシルヴィアはきょろきょろと首を振っていると、あるものが目にとまった。

「あの人は…」

 シルヴィアの視線の先には先程話しかけてきた優男が、車に乗り込もうとする姿があった。


『いやぁ、それで美人局にひっかかりそうになってね。散々な目に遭ったよ。でも今日は、君のような素敵な女性と出会えて幸運だよ』

 シルヴィアに話しかけた青年はホテルをほうほうの体で出た後に、すぐに観光に来ていた少女に声をかけていた。今度は自分の車を側に置き、ことさらに好青年を演出しながらのナンパだった。

『酷い女もいたものね。かわいそうに』

 はっきり言って青年の演技はお粗末なものだったが、年端もいかない少女はすっかりと参ってしまっている様子だった。

 よしよし。今日も上手くいったな。やはりこうでなくちゃね。

 そうさ、金もあるし顔も良い俺が袖にされるなんてことはないんだ。あの女も男もわかっちゃいないなどと考えながら、青年はほくそ笑んでいた。

 さぁ、それでは行こうかと少女に言った時、青年はつかつかとこちらに歩いてくる女性の姿が目に留まった。

 先ほどナンパし損なった女だった。どうやらこの車を見て、大きな魚を逃したことを後悔したらしい。青年は運転席からへらへらと言った。

『おい何だよ?今になって惜しくなったのか?』

 女はしばらくの間悠然と車を見つめたかと思うと、突然青年の首根っこを掴んだ。

『お、おい!何すんだよ!』

 突然のことに、青年は手を掴んだが、シルヴィアの見た目に反した力強さになすすべもなく車外へと引きずり出されてしまった。助手席の少女は素早く車から降りて、青年の後ろへと回った。

『この車、貰うわよ』

『は?』

 我が物顔で自分の愛車に乗り込んだ女を、青年は尻餅をついた状態で呆気にとられた顔で見ていた。すると、女が一枚の名刺を投げてよこした。盾と歯車の紋章が描かれた黒色の名刺だった。

『悪いけど急いでるの。車のことはそこに連絡してちょうだい。癇癪をおこして捨ててしまわないようにね。あぁ、それと貴女‥』

 青年はなおも言いたげに口をパクパクとさせていたが、シルヴィアは一向意に介さず、同じく呆然と立ち尽くす少女に向かって言った。

『この男はやめておいた方がいいと思うわ』

『は、はい‥』

 少女は困惑した様子ながらも、顔を赤くして立ち尽くしていた。

「スパイダーね・・これなら追いつけそう」

 シルヴィアはそう言ってにやりと笑うと、アクセルを目一杯に踏んだ。

 黄色のマクラーレン・スパイダーは爆音のエンジン音を鳴らしながら、眺めの良いSalisbury Roadを風のように滑走していった。



ヴィアレット家豆知識

シルヴィアの英語はアメリカ訛り、霧島の英語はフランス訛り。


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