ヴィアレット家メイド 杠=マリアンヌ=ブランシャール

 10月も初旬を過ぎた。

 つい一週間程前まではじめじめとまとわりつくような湿気と未だ蝉が鳴く暑さがあいまって、不愉快な日々が続いていたのだが、今度は急激に底冷えする寒さへと変貌し人々を困らせていた。すでに青々と色づいていた草木にも、ところどころに枯れ色が目立つようにはなっていたが、急転直下の寒暖差の変化に落ち着いて秋の風情を楽しむなどと言う余裕は許されていないようだった。

「ん~、もう少し漉した方がいいですの?」

 窓の外に見える寒空の淡い光を背に受けながら、中邸のキッチンでひとりの少女が焼いたばかりのカボチャのケーキを味見しながら、可愛らしく首を傾げていた。

 ふわふわと広がる柔らかい金色の髪に青いリボンのついたボネ(帽子)をかぶり、少し眠たげに垂れた眼に収まるサファイアのように蒼い瞳には、キッチンに並べられた彩り豊かな菓子の材料が反射している。

「はぁ・・、そろそろ舌がおバカになってきましたの。やっぱり瑠璃ちゃんにもお手伝いして貰ったほうが良かったですの」

 マリーは指先で額を押さえると小さくため息を吐き、ちらりとキッチンのテーブルにずらりと並んだ試作品の数々へと視線を移した。ひとつひとつは小さいが、すでに何個も味見をしていると、舌も鼻もその甘さに慣れてしまって違いが分からなくなりつつあった。

「でも皆さんも楽しみにしているし、頑張らないとですの」

 マリーは両手拳を胸の前に突き出すと、うんと一息自らを鼓舞した。10月の末に迎えるハロウィンパーティに想いを巡らせ、焦りと楽しみの入り交じった感情にむずむずとした気持ちに突き動かされるまま、再び材料の入ったボウルをかき混ぜ始めた。


 ゆずりは=マリアンヌ=ブランシャールは、ヴィアレット家の食事に関する一切を取り仕切るブランシャール家の娘として生を受けた。

 父はヴィアレット家傘下の高級レストランの支配人を務め、母は本家のメイドに従事しており、マリーも一花や華火と同様にヴィアレット家に幼少の頃から出入りして育った。

 歴史を繙いていくと、ブランシャールは古くからヴィアレット家に仕えた一族ではあるが、元々のルーツはごく普通な市井の人だった。学術的な功績を多く残すアルベルティ家やイリインスキー家、護衛と魔術の研究で貢献した北椿家とは違い、ごく平凡な、主人の生活の周りを世話する奉公人に過ぎず、それ程までに重用される立場と言うほどではなかった。

 ある時期まではそれでも問題はなかった。だが、ヴィアレット家はその資産規模や地位を確実なものとして行く過程で、仕える人間にもそれなりに相応しい教養や立ち振る舞いを求めるようになっていった。その要求されるレベルの高さに自信を失い、思い詰めた末に市井の人へとなりたいと願い出て出奔する者も数え切れず、また、時代によっては主人を守るために命をおとす者や、子孫が途絶えたことで家名が無くなった者たちも数多くいた。

 そのなかで、ブランシャール家は自分たちが生き残る術を模索しなくてはならなかった。可能な限り危険とは無縁で、できうる限り重用される能力を求めるうち、彼らは料理へと活路を見いだすようになった。

 ブランシャール家の小ぶりな屋敷の書館には、数百年以上もの間に伝えられてきた数千にも及ぶレシピと、主人の細かい味の好みが詳細に記録されたノートが詰め込まれている。それらは全て門外不出に代々受け継いできた、まさに秘伝とも言えるものだった。

 彼らは子育てのなかで特に料理の腕や味覚に優れた者を選び出すと、ヴィアレット家の料理長に相応しい教育を施すようになった。マリーもまた、そのひとりとして一流の料理人たちから日々厳しい教育を受けて過ごしたのであるが、実のところ彼女の料理に対する情熱はさほどではなく、彼女の関心は友人たちとともに楽しむ空想の世界にあったと言って良かった。愛情深い両親は娘のその気質を理解しつつも、やはり家訓に従わねばならない宿命に心を鬼にせざるをえなかった。

 しかし、ついにマリアンヌはとうとうその重責に耐えられなくなる日が来てしまった。人一倍感受性の強い彼女は、キッチンに立つことに強い嫌悪感を感じるようになり、金属性のシンクや床のタイル、積み重ねられた食器類を見るだけでも吐き気をもよおすようになった。その時の両親の心痛は、マリアンヌにとっても痛ましいもので、その想いがより一層彼女を追い詰めていた。


 ある時、彼女は幼少期からともに過ごしてきた友人たちにお茶会へと招かれたことがあった。見るからに気持ちが沈んでいた少女を楽しませようという計らいからだった。ヴィアレット家の広大な庭に咲き誇る芳しい薔薇を眺めながら、美味しいお菓子でも食べれば、少しは気が晴れるかもしれない。年端もいかない少女たちのささやかな気遣いだった。

 お茶会が始まってしばらくして、マリアンヌはふと何かに導かれるまま、ふらふらと広い庭園のなかへと潜り込んでいった。案の定少女は背の高い草花の壁に囲まれ、帰り道が分からなくなってしまった。だが、不思議と少女は恐怖感などはなく、むしろ絵本のお伽はなしの世界に入り込んだようにすら感じていた。

 延々と少女は歩いた。

 疲れ知らずの少女はずんずんと庭園を歩き回り、遂に紫の花が咲き誇る小さな空き地へと出た。そこには薄紫色のドレスを着た女性がひとり、ベンチに腰掛けて佇んでいた。

「あら、貴女」

 女性はマリアンヌの存在に気がつくと、手招きして隣へと座らせた。少女は夢うつつの気持ちで素直に従っていた。

「貴女、パティシエールには興味はないの?」

 紫色の瞳をした女性は唐突にそう尋ねた。特にマリアンヌは女性に何も話してはいなかった。

「フランスではお医者様と同じくらい尊敬される職業なのよ」

 女性は滔々と、お菓子の職業に関する知識を分かりやすい言葉で話してくれた。

「・・マリーはブランシャールの家の人で・・。お料理をしなくちゃいけなくて・・」

 マリーは虫の羽音ほどの消え入るほどに小さな声で途切れ途切れに呟いた。

「あら、だったら貴女が初めてのパティシエールね」

 その女性はにっこりと笑いながらそう答えた。吸い込まれそうな程に深い紫色の瞳をマリーはじっと見つめた。いつまでもいつまでも見つめていた。そのうち、自分の心が不思議と温かく、次第に炎がメラメラと育っていくように熱くなっていくのを感じた。

「まぁ、大変。この子、顔が真っ赤だわ」

 少女はその日、知恵熱を出して医務室に運ばれる事態となってしまった。

「マリーは紫のお嬢様のパティシエールになるんですの」

 屋敷で催されたお茶会から帰った日の夜。マリーはそう両親に告げた。

 庭園で熱を出したことにくわえ主人に手を煩わせたことに肝を潰したが、愛娘の眼に宿った輝く何かに圧倒されていた。

 次の日から、マリアンヌはあれほど嫌悪したキッチンへと立つようになった。

 彼女の師となる料理人たちもその復活に安堵したのだが、彼女は一切彼らの教える料理には目もくれず、ひたすら自分の憧れた製菓へと血道をあげるようになった。


 百日紅のように白い細腕で、必死に甘いクリームの入ったボウルをかき混ぜ終わると、ヘラを使って橙色のスポンジケーキへと綺麗に塗りたくっていく。

 キッチンは少女の夢見るような甘い香りが漂っている。

 マリーは完成した小さなケーキにフォークを通した。

「うん♫完璧完璧ですの」

 少女は改心の出来に鼻唄を歌いながら、愛用のノートに詳細なレシピを書き込んでいった。それはヴィアレット家の紋章の描かれた使い古されたものだった。



ヴィアレット家豆知識

マリー=兄弟姉妹は全部で7人おり、彼女は3番目の娘。ブランシャール家では初の製菓専門の「パティシエール」

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