ハニーティーの匂い

 音や光は波動として伝わる物理信号である。

 では匂いは?匂いとは粒子である。

 匂いとはその物質の揮発性の低分子が生物の鼻のなかにある嗅上皮という粘膜組織に付着することで感知されている。人間をはじめとする生物が有機物質の宝庫であることを考えれば、直接化学物質を取り込み分析するという機関を持ち合わせると言うことは重要な事なのだろう。

 匂いを覚えるというのは、脳髄から連なる記憶に薬壜を並べるようなものなのだろうか。

 筆者はそれを思うたび、謹厳で、無愛想で、知識を羅列することに喜びを感じる科学者が、神経質そうな手で髪の毛ほどのズレも許さずに、壜を棚にきっちりと並べている姿を夢想してしまうのである。


 10月も終盤へと差し掛かり、不愉快に感じた纏わり付くような湿気や熱さも、すでに冷たい西風とともに過ぎ去ってしまい、最近では朝や夜には厚い布団がなくては眠れない日が訪れていました。

 先日からはラウンジの暖炉には火が入れられ、安全の為のガラス板の向こうでめらめらと燃え盛る焚き火を見ていると時間を忘れてしまいそうになります。窓から覗く庭園はやはり秋の気配が漂い、寂しく寒そうな姿をさらして、見る者を憂鬱な気分にさせるのですが、部屋の暖かい空調と温かい食事、そして気の置けない同僚たちとの団欒が慰めてくれるのでした。

 しかし、そんな季節の移り変わりとは別に、屋敷はここ数日奇妙な空気に包まれていました。皆、仕事中も食事の時も、どこか落ち着きのない様子で、そわそわ、うきうきとしているのです。

「ハロウィン楽しみだね~」

「仮装の服まだ決まってないんだよね。まだ間に合うかなぁ」

 耳を澄ませば男女問わず、こんな話し声があちらこちらから聞こえてきました。

 10月31日はヴィアレット家のハロウィンパーティが催される日で、パーティに向けて、屋敷のあちらこちらには飾り付けが行われていました。かぼちゃをくりぬいて作られたパンプキン・ヘッドが魂を込められないまま玄関やロビーの床に置かれ、階段の手すりや窓にはオレンジや紫の駄菓子のような鮮やかな色の装飾が施されていました。

 私はといえば、10月に入ってからずっと当日に用意するお菓子を何にしようか悩み、ようやく数日前にはレシピが完成したばかりでした。

「マリィ、お疲れさま~」

 平日の昼食も終わった午後、お茶の時間のお菓子を用意していると瑠璃ちゃんがキッチンへと顔を出しました。私は「お疲れさまですの」と返事を返しました。

「なに作ってるの?」

 瑠璃ちゃんは私の隣にとことこと寄ってくると、髪を触れあわせながらキッチンに並ぶお菓子を眺めていました。

「お嬢様とお坊ちゃまのアフタヌーンティの準備ですの。あとはキャトルカールを並べるだけですの」

 ケーキスタンドにはガトーとスコーン、サンドイッチに苺とブルーベリーを並べ、

ポテトとチキンはお坊ちゃまがお好きなのでお出ししています。

「・・みゃんみゃん~♫」

 瑠璃ちゃんの猫のような鳴き声に私ははっとしました。

 「Miam Miam」はフランス語で「美味しそう」です。これを聞いたら、お菓子は隠しておかなきゃなのですが、遅かったようでした。

「ん~♡美味しい!みゃん~♫」

 気付いた時には、瑠璃ちゃんは切り分けたキャトルカールにフォークを刺して、美味しそうに頬張っていました。

「まぁ、瑠璃ちゃん」

 瑠璃ちゃんはにこにこと笑顔を見せながら、もぐもぐと小さな口を動かしながらカールを食べていました。丸みのあるもちもちと柔らかそうな頬がほころび、腰から伸びる金色の尻尾が機嫌良く揺れ動いていました。

 ここだけの話、彼女は狼の血をひくと聞いたのですが、正直に言えば私は初めて会ったときから、Loup(仏:オオカミ)よりもむしろRenald(仏:キツネ)みたいと思っていました。私の柔らかな癖毛とは対照的に、艶やかで張りのある髪質と時折光を受けて黄金色に輝く様子は、まさに狐のそれに近いもので、孤高で気高い姿よりも愛らしいという印象の方がぴったりでした。

「瑠璃ちゃんいけないですのよ。誰かに見られたら叱られるですの。特に棗さんに見つかったら・・」

「瑠璃ぃ」

 噂をすればというものですが、私と瑠璃ちゃんはその低く響く声にぎくりと身体をこわばらせました。

 ゆっくりと声の主の方を振り向くと、そこには棗さんが妙な威圧感を醸し出して立っていました。

 見ればぴくぴくと眉は動き、透き通るような色白の肌はケーキを彩るラズベリーくらいに顔を真っ赤になっていました。思わず、私は小さい頃にいたずらが見つかったときのママン(お母さん)の姿を重ねてしまいました。

「マリアンヌが遅いと思って来てみれば、あろうことかつまみ食いとは・・。良い身分ねぇ」

「え、え~っと、これはねぇ~・・」

 瑠璃ちゃんは珍しく目をきょろきょろと泳がせながら、しどろもどろと言い訳を考えているようでした。頭の上の耳もくるくると回っており、それが少し可愛らしく見えました。

「だいたい貴女はいつもいつも仕事中の子たちに話しかけて・・」

 しばらく棗さんはくどくどと瑠璃ちゃんにお説教をしていましたが、さすがにしょんぼりとしょげている瑠璃ちゃんの姿を見て可哀想になってしまいました。

「まぁまぁ、ちょうど味見もして欲しかったですし、少しくらいなら大丈夫ですの。マリー特製の蜂蜜と紅茶のキャトルカールですの。棗さんもおひとつどうぞですの」

 私がフォークで一口に切ったものを差し出すと、棗さんは少し困ったようにして、目をそらしました。

「いえ、私は別に・・」

 ちなみに棗さんは意外と押しには弱い方です。堅物で、あまり笑顔を見せない方ですが、甘いお菓子もお好きですし、あと実は瑠璃ちゃんの耳や尻尾を時々じっと見ているのも私は知っているのです。

「元々、これはマリーと棗さんの分も兼ねてますのよ。今食べてもバチは当たらないですの」

 私がなおも食い下がると、棗さんは観念したようにおずおずとカールを食べました。

「・・おいしい」

 棗さんは小さな声でそう言いました。

「うふふ、良かったですの。棗さんもラウンジに持って行くの手伝ってくださいな」

 私はそう言って、切り分けたカールを並べた大皿を棗さんに手渡しました。棗さんはまだ何か言いたげでしたが、口に物を入れたままお喋りするようなことはできない方であるとも知っています。

「ふ~ん、なーんだ。棗も食べてるじゃない」

 瑠璃ちゃんは口元をハンカチで拭きながら、にやにやした目を棗さんに向けていました。

「なっ・・これはマリーが」

「ほらほら、ご主人様がお待ちですの。瑠璃ちゃんも手伝ってねですの」

「マリィ、私の分は大きくしてね」

 すっかりいつもの調子に戻った瑠璃ちゃんは残りのデザートスタンドを手に言いました。

「瑠璃ちゃんの分はないですの。つまみ食いをするお行儀の悪い子にはおやつはありませんのよ」

「えぇ~、やだやだ~!マリィ許してよー」

「自業自得ですよ」

 再び棗さんと瑠璃ちゃんはわーわーと喧嘩を始めました。

 同じカールを食べたふたりからは、蜂蜜とブレンドティーの甘い香りがふわふわと漂っていました。


※キャトルカール( Quatre quart)

パウンドケーキと同等。

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