小夜の調べ
明治中期に描かれた浮世絵に「月百姿」という百の枚数からなる大作がある。
作者は月岡芳年といい、開国によって海外文化がなだれ込み、浮世絵が衰退しつつある時代のなか浮世絵師として成功した稀代の人物であるが、そのなかに「朱雀門の月 博雅三位」という、月の出る晩に二人の貴人が向かい合って笛を奏でている作品がある。ひとりは背を向けており、彼は平安の時代に管絃の名手として知られた源博雅という貴族で、彼と向かい合う人物はなんと鬼であるという。
逸話の書かれた「十訓抄」のなかでは、ふたりは満月の夜のなか会話をすることも無く、ただ笛を奏でその素晴らしい音色に心を通わせたという。
現代と違って機械的な騒音もなく、ただ自然の音だけが聴こえるような時代であったろうから、想像すると何ともうっとりとしてしまうような光景である。
さて、中=ヴィアレット家のラウンジは、朝は一日の活力に、昼間は忙しい仕事の合間にといつも賑やかな姿を見せているが、夜には照明も柔らかい橙色へと変えられ、静かでゆったりとした雰囲気の空間へと変貌する。そこでは遊びたい盛りの少年少女の姿は消え、ゆっくりとした時間を過ごしたいと思う大人たちが思い思いにソファや脚の長いバーチェアでお酒や談話を楽しんでいた。
「いらっしゃいませ、お嬢様。このような時間に珍しいですね」
ラウンジバーを担当するメイドの瑪瑙が、屋敷の主人である人形の少女が座るソファのそばへひざまずいて言った。少女は寝間着代わりに簡素なナイトガウンを羽織っており、裾から覗く膝や肘の球体関節は象牙のように艶やかで、触れればあっという間に折れてしまいそうな程に細く脆く見えた。
「今日は月が綺麗だもの。寝るのが惜しいのよ」
少女はそう言って、カーテンを開け放った窓へと視線を向けた。空には大きく銀色の月が煌々と輝いており、これから眠ろうとしようとする者達を邪魔しようとするかのようだった。
「左様でございましたか。それでは少し眠気を覚ますような飲み物でもいかがでしょうか」
瑪瑙はゆなと同じようにして月を眺めながらそう言った。
「えぇ、お願い」
主人は月をどこか虚ろで気怠げな様子で眺めながら呟き、瑪瑙は静かに礼をして立ち去った。瑪瑙が去ると、ゆなはラウンジに鳴るBGMに耳を傾けた。すると、ラウンジに入ってきたときには気付かなかったが、それはピアノや管楽器とは似つかない、不思議な音色を奏でていた。
ゆなはソファに頬杖をつきながら、ふと音色の行方へと目を向けた。少女の位置から少し離れた入り口とは逆の隅に、ひとつの人影が見えた。そこにはメイドのキッカと、彼女を背後から抱きながら仲良く手を空中へとひらひらと踊らせる『アプリオリ』の姿があった。胡弓のとろけるように甘い仙楽にも似た音色が、ふたりが手を動かすたびに、ラウンジへと伝わっていく。
「テルミンね。随分と珍しい物を・・」
ゆながそう独りごちると、ソファ傍のサイドテーブルに静かにカップが置かれた。珈琲の香ばしい匂いに仄かに甘い香りが混ざっている。
「お嬢様、カフェ・ロワイアルをお持ちしました」
瑪瑙はそう言うと、ゆなと視線を並べるように再び膝をついて答えた。
「最近、おふたりはこの時間によく来られて演奏されておりますね」
「あら、そうなの。ふたりにあんな趣味があるなんて知らなかったわ。いえ、『アプリオリ』は好きそうね」
『アプリオリ』は確か以前スチームパンクが好きと言っていた。ヴィクトリア調の独特なデザインの機械仕掛けを操る人間の姿はどこか、人間の機械化にも通ずるものがあり、人体を装置の一部にすることで音を奏でるテルミンは、やはり魅力的に映ることだろうとゆなは思った。
「Over The Rainbow。オズの魔法使いね」
アルベルティ家のふたりが奏でるテルミンは、映画のなかでジュディ・ガーランドが高らかに歌った曲を優しげに奏でていた。ふと瑪瑙は立ち上がると言った。
「お嬢様、少し失礼致します」
瑪瑙は恭しい態度で礼をすると、いそいそと後ろに結んだ髪を解きながら、ラウンジに設えられた部屋へと消えていった。しばらくして、瑪瑙は弟の琥珀を連れて戻ってきた。服装はそのままだが、瑪瑙は手にバイオリンを持ち、何か親しげにアルベルティのふたりに話しかけていた。
ほんの少しの間、ラウンジに静寂が訪れた。
そして、ほんの一呼吸置いてから、ピアノの前に座った琥珀が足下をタンタンと打ち、鍵盤を叩き始めた。再び、テルミンの甘い音色が続き、その後に瑪瑙の美しいバイオリンの調べが追いかけていた。
ジョンテイラ-の「BetweenMoons」の不思議な転調がラウンジに流れていた。
その音色は雲間から覗く月の満ち欠けにも似ていた。
「良い夜ね・・」
ゆなはその曲を聴きながら、再び満月を見つめた。
手にしたカップには水月の輝きが青白く輝いていた。
ヴィアレット家豆知識
桜井姉弟→音楽の他に、マジックなども得意。特に会場の人々を巻き込む大がかりな手品は好評。
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