カントとキッカ
ヴィアレットの双子が本家へと帰省して3週間近い日が経った。
8月の燃えるような太陽は、日を追う毎に溶鉱炉がさらに炎を激しくするような、そんなおぞましい暑さを感じさせるものだった。例え、空調の効いた部屋に逃げ込もうとも、その炉から発せられる熱によって膨張する空気中の水分は、重たく身体にまとわりつき、人々の体力をじわじわと奪っていくのだった。
「はぁ、今日も暑いなぁ」
主不在の
『アプリオリ』は目元にまでかかる髪をやや鬱陶しげにかきあげ、『こんな季節ぐらいは髪を切ってもいいかもしれないな』と、日に一度は思うのであるが、やはり髪はこだわり・アインデンティティとして残すべきと思い直すのだった。『お洒落は我慢です』と、『アプリオリ』は革製のジレと金刺繍の施されたシャツにスボンという自分の格好を見て、再び屋敷を歩き始めた。
『マイスター。今日もお疲れさまでございます』
日課の見回りを終えた『アプリオリ』がラウンジへと降りていくと、同じく屋敷に残ったハウスメイドのカントが、自身の創造主へと恭しく頭を垂れ、優雅にカーテシーで挨拶をするのだった。
「やぁ、カント。今日はラウンジの掃除だったかな」
『Si。マイスター。本日はラウンジと玄関のお掃除でした』
「3週間も使ってないから、あまり汚れてなかったんじゃないかな?」
『Si。お掃除は4日前にさせて頂きましたが、変化はほぼございませんでした』
見れば、使われていないテーブルには白い布がかぶせられ、埃が落ちてこないようにされており綺麗なままだった。
「・・・ベネ」
『アプリオリ』とカントがラウンジの椅子に腰かけ、談笑していると銀色の髪を持つ少女がふたりの傍まで来た。とろんと感情の起伏の少ない、恥ずかしがり屋のメイド、キッカ=アルベルティ。ベネディクト=アルベルティこと『アプリオリ』の妹である。
「キッカ。君も仕事は終わったかい」
「・・・うん」
キッカはためらいがちにそう答えた。
「広いのに大変だったね。報告書は執事長に渡せたかな」
「・・・うん」
『アプリオリ』の問いかけにキッカは必要最低限の返事と、表情だけで答えた。この屋敷に来て、随分と表情豊かで明るくなったと思っていたが、やはり身内の前ではいまだこんな風に子どもっぽい一面を覗かせる。
『マイスター。キッカも終わりましたので、そろそろ休憩になさいますか?』
カントはふたりの邪魔にならないような穏やかな声で言った。
「あぁ、そうしようか。私は紅茶をもらおうかな」
『Ricevuto。キッカは何が宜しいですか』
カントの問いかけにキッカはただ俯くばかりで、何も答えようとはしなかった。引っ込み思案の性格とはいえ、その様子はどのように見てもいつものと違っていた。
「・・・やっぱりカントは特別だから」
「え?」
キッカはぽつりとそう呟くと、突如ふたりに踵を返して脱兎の如く駆けていった。驚くふたりはその場に固まり、特に『アプリオリ』はキッカの背中に手を伸ばすだけで、椅子から立ち上がることさえできなかった。
「キッカ・・!」
『マイスター。私が・・』
『アプリオリ』が呼びかけるのを制し、カントはキッカを静かに追いかけた。屋敷内では、カントの『Knowledge and Nous Tools』によって常に情報は共有されているため、キッカがどこへ走っていくかまで問題なく知ることができた。
キッカはまだ14歳である。くわえて、ほとんど日中運動する習慣がなく、体力は非常に少ない少女だった。案の定、ラウンジを飛び出してものの2分もしないうちにへばり、屋敷の2階の踊り場で息を切らせながら座り込んでいた。
『キッカ、大丈夫ですか』
しばらくして、カントは2階の踊り場にうずくまるキッカを見つけると、その隣にともに座り込んだ。
『キッカ。貴女は私が特別だとおっしゃいました。宜しければその真意をお聞かせ下さい。
「・・・いつもカントのことばかり。キッカは妹なのに」
キッカはぽつりと呟いた。
「・・・ベネはもうキッカに興味ないんだ」
『キッカ・・』
カントはキッカの小さく繊細な身体を自分へと引き寄せると、頭を優しく撫でながら言った。
『申し訳ございません。私はこのような時、どのような言葉をおかけするのが最適か、判断ができかねます』
『ですが、ご同輩のメイドの方たちは、いつも悲しいことや寂しいことがある時、このようにされています。』
『マイスターは確かにいつも私のことを気にかけてくださっています。私はヴィアレット家の皆様のために存在しているからです。お嬢様、お坊ちゃま。執事とメイドの方々、お屋敷で働かれる方々。皆様へと優しく寄り添うのがカントの役目なのです』
『カントのことをマイスターは特別と思ってはいません。マイスターはヴィアレット家に関わる方々全てを大事に思われているのです。それはキッカも同じですよ』
カントはキッカへとそう語りかけると、ようやく引き寄せた身体を離した。
「・・・ごめんなさいカント」
キッカはなおも俯いたまま、ただそれだけをぽつりと言った。
『さぁ、マイスターの元へ戻りましょう。冷たいものでもお出しいたします。その後、一緒にお掃除を手伝っていただけますか』
キッカはいつもより僅かに表情豊かに、「Va bene(いいよ)」と答えた。
おまけ
『それでは今より、ヴィアレット家大掃除を開始致します』
カントのその言葉に『アプリオリ』はカントの赤い目を見つめた。
『マイスター、網膜認証。チェック中・・・クリア。第二認証』
その言葉にキッカは前もって聞かされた言葉を唱えた。
「・・・カントあれを使うわよ」
『キッカ、声帯認証。チェック中・・・クリア。Knockdown and Nullify all Trashモード』
いつもの穏やかで優しげなカントの表情は、きりりとした猛禽類のように鋭くなっていく。
「さぁ、仕事だ。カント」
「Si。マイスター」
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