オーストラリア旅行#4

 一説によれば、波の音には1/f揺らぎの効果があるという。

 自然界に存在するこの特殊な周波数は、生物をリラックスさせる効果を持つとされ、特に波の音は母親のお腹の中にいた時の鼓動に似ていると言われている。

 ヴィアレット家の面々がひと月を過ごしたホテルの前にはプライベートビーチがあり、静かで穏やかな波の音は、文字通り母なる海が包み込んでくれるような安らぎを感じされてくれるようだった。

 シドニーへの出発を明後日に控えたヴィアレット家は、この美しい砂浜との別れを惜しむようにここ数日間は夕食をホテルの中庭でとっていた。今日はBBQのスタイルで、オーストラリアビーフと日本から持ち込んだ食材をふんだんに使っての料理を、育ち盛りの少年少女たちは目を輝かせて舌鼓をうったのだった。



「お腹いっぱいだねー」

「ですのー。マリィもケーキもいっぱい食べて満足ですの」

 食事が終わると中庭は大人たちのバーへと変わり、瑠璃とマリアンヌは早々にビーチへ設置された卵形テントへと席を移していた。周囲を見渡すと同じようなテントがあり、共通して小さなテーブルと椅子が置かれている。

「瑠璃たちしかいないねー。みんなお酒とか飲んでるのかな」

「BBQで匂いが付いちゃったから、棗さんやシルヴィアさんたちはお風呂に行くとおっしゃってましたの。おふたりについていった子たちも多いのかもですの」

「 D'accord《ダコール》!」

 瑠璃はフランス語で「なるほどだね」と言って頷くと、そっとマリィの傍によってふんふんと鼻を鳴らした。

「マリィは甘い甘い香りだねー。今日はチョコレートに蜂蜜、グレープとナッツに、クリームたっぷりで食べたでしょ」

 瑠璃が頭の犬耳を興味深そうに動かしながらそう言うと、マリィの顔がぽぽぽと紅くなっていった。

「やだ瑠璃ちゃん、恥ずかしいですの」

「ふふ、屋敷の子たちは香水の匂いがするけど、マリィはいつもお菓子の匂いがするからすぐに分かっちゃうよー」

「えぇ、そんなに匂うものですの?恥ずかしい・・」

 マリィが羞恥に染まった顔を隠すのを、瑠璃は実に愉快そうに眺めていていると、彼女の金色に輝く犬の耳がピンと立った。瑠璃が後ろを振り向くと、黒塗りのお盆を両手に抱えた銀雪が砂を踏んでこちらへと向かってくる姿が目に入った。

「ゆきー。おそいよー」

「ごめんね瑠璃ちゃん。お待たせしました」

 雪は子どもをなだめるように謝ると、手に抱えていたお盆を静かにテーブルへと置いた。お盆はすのこ状になっており、板の上には空の小さな湯飲みが3つ、急須や壺によく似た器が並べられていた。

「まぁ、お茶ですの?風流ですのねぇ」

 マリィが物珍しそうに言うと、雪はゆったりとした手つきで茶葉や茶器を用意しながら答えた。

「これは工夫茶器っていう中国のティーセットですよ。本当は香りを楽しむのも醍醐味なのですけど、海を眺めながらのお茶も良いかと思って」

 包まれるような潮の香りの中に、微かに漂うお茶の香りがふたりの鼻孔をくすぐった。マリィは雪に聞香杯という香りを楽しむための器を手渡されると、手で包みながら香りを「聞い」た。

※香道では香りを「聞く」と表現する。


「ふむむ、ちょっと土っぽい香りかもしれないですの」

「これは普洱茶ポーレイちゃです。脂の多い食事とよく合いますよ。香港ではよく飲まれるお茶です」

 茶杯に注がれたお茶は紅茶よりもやや黒みのあるものだった。

「これ前に飲んだことあるかも。結構渋みがあった気がする・・」

 瑠璃は茶杯を手に取ると、舐めるようにして一口だけ含んだ。

「うぅ~、やっぱり瑠璃にはちょっと渋いかも・・」

 独特な渋みのある普洱茶ポーレイちゃに舌を出してもだえる瑠璃に対して、マリィはくぴくぴと何度かに分けて飲み干していく。

「マリィは好きかもしれないですの」

「ふふ、マリアンヌさんは大人ですね」

 雪は友人ふたりの反応を楽しみながら、優雅な手つきで茶杯を飲み干していった。

 冬の訪れを感じさせる少し冷たい潮風の彼方では、オーストラリアの笑った月が輝いていた。



 夜も8時を過ぎると、BBQのために煌々と照らされていた中庭は篝火と淡い蝋燭の光が灯され、星空と波の音を楽しめるシックな雰囲気のバーへと変わっていた。お酒を楽しむ大人の執事とメイド達は、各々席を作り、ひとりの時間を楽しむ者、友人知己と肩を並べる者と様々に楽しんでいた。

「いやぁ、満腹だね」

「えぇ、ホントに」

 海が眺められるソファには、青雪と『アプリオリ』が席を隣にしていた。テーブルにはそれぞれ、黄金色のスコッチと紅いカクテルのマンハッタンが、月灯りを受けて結晶のような光を散乱している。

「この時間帯はいつも部屋にこもってるから、こうして旅行に連れてきて頂けると生活リズムが取り戻せる気がしてくるよ」

 青雪の言葉に『アプリオリ』はくすっと笑って答えた。

「ふふ。私も似たようなものです。どうも研究に興が乗ってくると、寝食を忘れてしまって」

「君のところのあの子は何も言わないのかい」

「カントですか?う~ん、そうですねぇ」

 『アプリオリ』は口元に手を当てると、ふと自分たちの後ろでてきぱきと片付けをする「娘」を見つめた。

「そうですね。最近はよく注意されます」

 しばらく考えた後、『アプリオリ』は少し困ったように柳眉を下げて答えた。彫像のように目鼻立ちのすっきりとした美しい顔は景色も相まって非常に絵になる。

「おや、何か不満かい」

 青雪はグラスを少し傾けながら尋ねた。丸い球状の氷がころんとガラスのなかで転がる音がした。

「いえ、不満といいますか・・なんと言いますか」

 珍しく歯切れの悪い同僚の姿を青雪は不思議そうな顔で眺めていたが、ふと『アプリオリ』の隣に人影が立っているのに気付いた。

「マイスター。青雪様。カントをお呼びになられましたか?」

 カントは後ろから話しかけるでもなく律儀に『アプリオリ』の隣に控えていた。すぐに『アプリオリ』は顔を上げて、首を振った。

「あぁ、カント。いや、何でもないよ・・。そうだ。今日はどこに行ったのだったかな」

「Si。マイスター。カントはお嬢様とお坊ちゃまのお供として、カランビン・ワイルドライフ・サンクチュアリーに行って参りました」

「へぇ、いいじゃないか。確かコアラを抱っこできるんじゃなかったかな?」

 青雪はまるで赤子でも抱くように両手を交差させると、カントも同じように手で揺りかごを作った。

「Si。青雪様。コアラを抱っこさせて頂きました。マイクというお名前です」

「コアラを抱いたのは初めてだね。どうだったかな?」

 『アプリオリ』の問いかけにカントはしばらく虚空を眺めて考えると、ふっと口元を緩めて答えた。

「Si。マイスター、とても可愛らしい子でした」

 年相応の可愛らしい笑顔を見せたカントと、それを優しく見つめる『アプリオリ』の様子を見て青雪は小さく頷いた。

「そうだ。カントちゃん」

 はたと青雪は何か思いついたようにカントの方を向いて尋ねた。

「最近、『アプリオリ』が食事を食べないときは注意をするらしいじゃないか。どんな風にするんだい」

 『アプリオリ』は何か言いたそうに片手を挙げたが、少しのためらいが制止を遅らせた。

「マイスター?ちゃんとご飯食べないとカント怒っちゃうぞ。ぷんぷん!」

 カントはまるで声優のような高い甘え声とともに、腰に両手を当てて顔をのぞき込むようにして腰を屈めた。

 あっけにとられる青雪をよそに、

「どうやらメイドの方々がこうだと教えたようで・・」

 『アプリオリ』は顔を手で隠しながら答えたが、ウルフカットから覗く耳元は真っ赤に染まっていた。

「まぁ、確かにこれはちょっと困ったな・・」

 青雪はちょっと困ったような可笑しいような顔を覗かせて再びグラスを傾けた。


ヴィアレット家豆知識

銀雪=香港では家族みんなでお茶をするのが日課だった。


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