ヴィアレット家執事 青雪
6月に入り、しとしとと冷たい雨が降る季節が訪れていた。纏わり付くような湿度には毎年うんざりとさせられる気持ちであるが、窓から眺める庭園には紫陽花の青紫が美しく咲き誇っており、休憩中にほっと一息つく間に雨音を聞きながら、花々を眺めることでようやく慰められる気持ちだった。
「う~ん、難しい~」
静かな雨音が聞こえる昼頃、ラウンジでは瑠璃が金色の髪に生えた犬耳をしきりにくるくると動かしながら、うんうんと悔しそうに唸りチェッカー盤を穴が空きそうな程に凝視していた。
「これは…ふむ」
その右隣には、棗が将棋盤を前に同じように考え込んでいた。眉根には懊悩の深い皺ができ、整った柳眉は険しく歪んでしまっていた。そのさらに右隣にはシルヴィアがチェス盤を、その隣にはマリアンヌがクアルト盤を前に同じように頭を抱え、4人のメイドが揃って卓上に盤を構えて円を描いていた。
「ふふ、時間はあります。じっくりと考えてみて下さい」
その中心にはジーンズにサマーセーターを着た青雪が回転椅子に優雅に腰掛けて、余裕のある笑みを浮かべていた。
「さすがねぇ」
5人の様子を見ていた屋敷の主の少女がひそひそと隣に座る兄へと話しかけた。
「4人打ちなんて初めて見るよ」
「私なら頭が混乱しそうだわ。瑠璃なんてチェッカーは負け知らずなのよ」
「棗も将棋で負けているところはみたことなかったね」
双子がひそひそ声でささやく向こうのテーブルでも、メイドや執事たちが同じように声をひそめて話し合っていた。
別段何か大会が開かれているわけでもない昼食後の娯楽にすぎないにも関わらず、ラウンジには5人の対決をじっくりと眺める観客で満たされていた。
5分経ち、10分経ち、青雪の奇手に翻弄された4人は長考へと入ってしまっていた。
ヴィアレット家の昼食休憩は長い。
手持ち無沙汰になった青雪はふと窓の外に目をやった。
梅雨の灰色の空からしとしとと降りしきる雨が庭園の草木を濡らしていた。
***
英国特有のどんよりと重たい空から小雨が降るなか、〇〇は英国の郊外にある一軒の邸宅の前へと立っていた。古めかしい門扉にはどこにも呼び鈴らしきものはなく、しばらく立ち往生しているとひとりの女性が扉を開けて姿を現わした。
「〇〇さまでございますね。ようこそおいで下さいました」
すでに自分が訪れることも先刻承知なのか、女性はなんの気迷う様子もなく
〇〇を家のなかへと招き入れた。
「こちらへどうぞ」
〇〇は一応の警戒感を抱えながらも、女性のあとについて家のなかを進んでいった。古い造りではあるが、飾られた調度品は実に見事で一目で高い価値を有する品々であることが分かった。
女性の案内に黙って付いていると、ひとつの部屋の前へとたどり着いた。
「なかへお入り下さい。私は外に出ておりますので」
女性はそれだけ告げると〇〇を残し、さっさと去って行った。
〇〇はその後ろ姿を目で追いながらも、扉の奥へと歩を進めた。
部屋のなかは随分と薄暗かった。年代物のランプシェードが四隅に配置され、その橙色の灯りだけが部屋を照らしていた。
広さ20畳はあろう部屋の中はすっきりと整理されているが、天蓋付きのベッドがスペースを広くとっておりその上に老人がひとり横たわっていた。ベッド横には点滴台が置かれ、痛み止めの点滴液が無機質な管が老人へと繋がっていた。
「…ようこそ」
眠っていたと思われた老人が突然話しかけた。
その声はひどく嗄れており、病に冒された者の苦しげな喘鳴がひどく耳触りに部屋に響いていた。
「どうやらここがゴールのようで間違いないみたいだな」
〇〇は決して共感性の欠如した人間ではない。目の前の老人の命が尽きつつあり、その姿に哀愁を感じずにはいられないのではあるが、イニシアティブを得るためにあえて会話を避けた。
「あなたが俺にあの問題を送ってきたのか」
〇〇は先日突如送られてきた様々な暗号を頼りにここまでやってきた自分を省みて、随分と呆気ない幕引きに複雑な感情を抱いていた。
「良い部屋だ」
〇〇は部屋にある美しい調度品や造りを見て言った。
それは古き良きヴィクトリア朝の部屋を模しており、病人が住むにはあまりにも巧みに彩られていた。強いていうなら、老人が扱うにしては随分と高性能なコンピュータが部屋の隅に鎮座していることが違和感を感じさせる。
「…よく…あの…問題を解い…た…」
「わた…しは、あお…ゆき」
老人は途切れ途切れに言葉を紡ごうとした。
「おい…そんな無理して喋ることは…」
〇〇は顔をしかめて老人のそばへ近づこうと数歩足を進めた。
『やぁ、〇〇』
〇〇はその声に仰天しとっさに背後を振り返った。
そこには一台のモニターが設置されており、そのなかにはひとりの青年が気安い笑顔を浮かべていた。
『失礼。そこの私はすでに寿命を迎えつつある弱った老人だ。話すことも見ることもままならないのでね。私がかわりに説明をさせてもらおう』
驚く〇〇を尻目に、モニターの青年は続けた。
『初めまして。私たちは青雪という。私とそこに横たわる私を含めてね』
〇〇は一瞬だけ老人の方を振り返った。老人は目を開け〇〇をぼんやりと見つめていた。
『青雪の仕事は世界最大の財閥であるヴィアレット家の資産管理だ』
『元はヴィアレットの資産管理をしていたスイスの銀行家に由来する。正体は完全に伏せられ、当時はヴィアレットの御当主と執事長以外は一切存在を知らされることはなかった。まぁ、今は屋敷の中だけで過ごすこと以外は随分と優しくなったがね』
『彼…いや彼らは、青い夜空の雪の降る時だけ顔を見せるということから『ラ・ネージュ・ブル』『La Neige Bleue』と呼ばれた。今は日本語に倣って青雪と名乗っている』
『青雪は次の青雪を探す。権力に屈さず、頭脳明晰で、賄賂や色事も効き目はなく、仕事に忠実で…』
「待て待て」
モニターの青年がお構いなしに滔々と話のを〇〇が手で制した。
「そんな大層な役目をなぜ俺に話す。第一、俺の全てを知っているとでもいうのかい」
青年は含みのある笑みを浮かべて答えた。
『もちろんさ。私は君の全てを知っている。君の犯罪歴を公にすれば懲役刑は免れないだろうね』
『〇〇。君は数ヶ月前、世界中の仮想通貨取引所をハッキングし、何億ドルともいえる仮想通貨を盗み出した』
『私の気になったのは、君が1ポンドたりとも、懐に入れることなく全てをその日のうちに返却をしたことだ。しかも盗んだのはほんのマイクロ秒の瞬間だけ。関係者はその痕跡には気付いてはいても、結局は市場のノイズと片付けられてしまった』
『先にも言ったが、青雪は次の青雪を探す。君は私たちの仕事を引き継いでもらいたい』
〇〇は憮然として答えなかった。
『〇〇くん。君は私からの暗号を受け取り、ここまでやってきた。途中で訪れる困難にも毅然と対処し、決して諦めなかった。私は全て見ていたよ』
青年がそう言うと、モニターには〇〇が辿った数日間の映像が羅列されていた。
『私たちは確信した。君は犯罪に興味があるわけでも、現実世界における繁栄を望むわけでもない。いわば冒険がしたいのだ。自らの英知を用い、自らを厳しく律してね。それはこの数百年間、私たちが受け継いだ気質そのものだよ』
モニターの青年は視線を下に降ろした。そこには掌を読み取るタブレットが置かれていた。
『もし、この仕事を引き受ける気ならば私の前にある端末に手をかざしたまえ』
『そこには君のパーソナルデータの全てが登録される。そうなれば最後、戻ることは許されないし、途中で止めることもできない』
青年の淡々と語る様子に〇〇は依然戸惑いの表情を見せていた。
「私は…老いた…」
ふたりの会話に口を挟まなかった老人がこう呟いた。
『そこに横たわる年老いた私は、かつてはフィールズ賞も期待されたほどの数学者だったんだ。境遇上受賞は諦めなければならなかったが、この仕事を選んだことに後悔はないよ』
モニターに映し出された青年は嘆息を漏らした。
『しかし、今や私は簡単な四則計算にすら手間取るしまつだ。なんとも老いとは恐ろしい…』
「えらび…たまえ。〇〇くん…」
青雪は途切れ途切れに言葉を紡ぎ、ひとつの単語を口にする度に激しく咳き込んだ。そのただならぬ様子に〇〇はたじろぎ、思わず身を起こして背中でもさすってやりたいと思わせるほどだった。
「いい…それよりも聞かせて…くれたまえ。君は…どうするのか」
老人は〇〇を手で制した。弱々しく持ち上げられた腕は細く、枯れ木よりも脆そうに思えた。しかし、〇〇を見つめる緑色の瞳は燃える太陽のような力強さが宿っていた。
『〇〇くん。君がどの選択をしても私たちは責めたりはしない。そこの扉を開き、外のメイドに告げればどこへでも君の望むところに届けよう。この先の人生、君に口出しをすることもない。できればこの場所は口外しないで頂きたいがね』
モニターの前で黙って聴いていた〇〇は、ひとつだけ大きくため息を吐いた。そして何か考え事をしながらぼんやりと窓辺へと寄っていった。
しばしの間、沈黙が流れた。
「俺はただゲームを楽しみたいだけだ。少なくともそう思ってここまで来た」
〇〇は窓から見える曇り空を眺めてぽつぽつと口を開いた。
「俺の人生はこの英国の空みたいなものだ。深い霧と雲がいつも俺の周りにまとわりつく」
『人生に飽きていたのかい』
「そんな大仰なほどじゃないさ。ただ、そうだな…」
〇〇はやや自嘲気味な笑顔を見せた。
「俺は燃えて、炭になって、灰になって、そして風に乗ってどこまでも流されて、素粒子になってこの自然に還っていく。そんな一瞬を送りたいのさ」
『随分と…刹那的だな』
「そうかもしれないな」
〇〇は再び青年の映るモニターの前へと歩み寄った。
「本気になりたいのさ。夢中になりたい。汲めども尽きない泉に魅了され、心を満たされたい」
「それが俺の望むものさ」
ピロンという軽快なデジタル音が鳴った。それと同時に、端末には〇〇の詳細な個人データが上から下までずらりと列挙され、それらがひとつひとつ塗りつぶされていく。
『Félicitations(仏語:おめでとう) 』
『君が新しいLa Neige Bleue―青雪だ』
モニターの青年はその言葉だけを残してふっと画面から姿を消してしまった。
最初に部屋を訪れたときのような静寂が再びやってきた。
〇〇は…いや青雪は老人の横たわるベッドのそばの椅子に腰掛けると、改めてじっくりとその顔を眺めた。緑色の瞳は光無く褪せていたが、口元にはうっすらと穏やかな笑みが残っていた。
「Bon voyage(仏語:良い旅を)」
青雪はしとしとと雨の降りしきる窓の外へと視線を戻した。
***
「これでどうだー!」
「…王手です」
「チェック!」
「…ですの!」
ラウンジに4人の少女たちの威勢の良い声が響いた。それぞれ考え抜いた一手を差し、その長考を見ていた観客からも歓声ともつかない声が漏れた。
ぼうっと夢想していた青雪は、はっと現実へと引き戻された。
「ふむ」
青雪は回転椅子に腰掛けたまま、ゆっくりと一周すると、それぞれを一瞥し、
「それでは、私の手はこちらです」
2周目では盤面をそれぞれ駒を動かしていった。またも観客から声があがった。
再び少女たちからは苦悶の表情と声が漏れでると、しばらくの時間をおいて
「…参りました(わ)(ですの)」
4人はほぼ同時に投了の宣言をした。
休憩の時間を残り10分残して、5人の白熱した勝負は幕を引いた。
パチパチという拍手がラウンジに響いた。
「さすがね青雪」
「本当に4人いるみたいだったよ」
双子からも賞賛の声が届き、勝負をしていた少女たちからも惜しみない拍手が送られた。
「はい。お嬢様、お坊ちゃま。私は…」
青雪は一瞬窓の外を眺めた。
「いえ、私たちは青雪ですから」
青雪はそう誇らしげにそう答えた。
ヴィアレット家豆知識
青雪=ヴィアレット家の資産管理人。
時代とともに高い金融センスが求められるようになったため、ここ150年は数学者が採用されることが多い。
数世代前には女性もおり、年齢、出身には左右されない。任期は寿命を迎えるまで。
ヴィアレット家の管理する教会には、代々青雪だけの菩提が設置されている。
〇〇=名前、年齢のデータは秘匿されている。
青雪は死後、名前と似顔絵とともに墓地へと埋葬される。
前任者の名前はグレゴリー。
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