温泉旅館作り#2

 呉越同舟という言葉がある。

 元は中国春秋時代の軍事理論書である「孫子」のなかに説かれた故事であり、仲が悪くとも、共に困難な境遇に陥れば、手を取り合う仲になるということを例えた話であるが、すでに2500年も前から、状況によって猫の目のように変わる人の微妙な関係というものを的確に捉えていたのだと思うと、すでにこの世に新しいものはないのではないかと錯覚してしまいそうである。


 3月も終盤近く、1週間前にヴィアレット家の旅館はオープンを迎え、それまで閑散として捨て置かれていた山間僻地に、それまでになかった人の往来が見られるようになった。ちょうど桜も咲き始める頃で、旅館まで続く道路には小さく芳しい桃色の花びらをつけた木々が温かく迎え入れるようだった。基本的に、ヴィアレット家の関係者にのみ開放された旅館として設立されたために、出迎える従業員たちは見知った顔が多く、張り詰めた緊張感もなく過ごすことができていた。

 さて、ヴィアレット家の屋敷にもひけをとらない豪奢な作りの館と庭を抜けると、お客を楽しませるのとはまた違った、興味深い光景が広がっていた。そこには10に満たない数の倉がマス目上に並んでおり、見かけは平屋の酒蔵のような佇まいをしていた。倉の仰々しい門構えを通ってなかに入ると、そこには旅館で使用されるリネン、アメニティ、食料などが分類分けされて規則正しく整理されており、朝となく夜となく、旅館に勤める従業員たちが忙しく出入りしていた。だが、なかにひとつ、一日中ほとんど開閉されない倉があった。そこは他と比べても一見変哲はないが、ただ一点扉が電子ロックとなっており、ひときわ頑丈で威圧感のある風体を見せていた。銀行にある巨大な金庫にも匹敵するそれは他の倉の影に隠れるよう奥まった場所へ設置されており、従業員もほとんど目に留まらないようだった。

 そしてそんな猫の子一匹通さないような堅牢な倉のなか、ひと組の男女が途方に暮れた顔でうろうろと歩き回っていた。

「ううむ・・壁の薄いところがあるなら、体当たりで壊せないものでしょうか・・」

 露五はそう言って、壁伝いに歩きながら、ところどころを手の甲でノックをするが、どこも分厚いコンクリートを叩く音が聞こえるだけだった。 

「無理そうですね。旅館の壁や、他の倉ならともかく、ここは防火耐震対策ばっちりです。ミサイルでも壊せませんよ。玄武さんも自慢なさっていましたしね」

 シルヴィアも壁を露五と同じように数度叩くと、落ち着いた様子で答えた。

「あの時は感心したものですが、このような状態になるとなんとも・・」

 露五はそう言いながらもしばらく壁を叩いていたが、すでに何周も壁を調べたあげく、成果は得られなかったとうなだれた。

「スマホの電波も通らないですし、さすがグスタフさんの設計された金蔵ですね・・」 

 シルヴィアはそう言って、部屋のなかに居並ぶ棚を見渡した。和風な外見には不釣り合いな電子機器が所狭しと並べられており、透明なガラス戸のロッカー棚のなかには客から預かった貴重品が納められていた。金蔵と称するようにこの倉の構造はまるで核シェルターのようで、侵入者のつけいる隙は全くない完璧な金庫として機能していた。ただ、どのように完璧なセキュリティでも偶然には敵わない時もある。

「やれやれ・・それにしても、少し目を離した隙に鍵を閉められるとは」

 さすがに体力のある露五でも、気を張った状態で歩き回ったせいか疲れたらしく、手頃なスペースに腰を降ろして、ふぅと息を吐いた。

「まぁ、ここは人のあまり立ち入らない土地でしたからね。野生動物もそれなりに数は多いのでしょう」

 シルヴィアはそう答えると、露五から少し離れた場所で壁に背を預けながら腕を組んだ。玄武にもひけをとらない身長はヒールを履くことでさらに高く見えるが、そのすらりと伸びた手足と長い髪が、影のあるクールな顔立ちによく映える。

 ふたりをこのような状況に陥らせたのは、ほんの小さな侵入者によるものだった。一匹の小さな野ねずみが、倉庫に眠る食料を狙って忍び込んだのだが、それが外のセキュリティロックのボタンをあろうことか押してしまい、ふたりをこの堅牢な牢獄へと閉じ込めてしまったのだった。

「まぁ、なかに人が居れば防犯の方々も変に思うでしょうから、大人しく待ちましょう」

 シルヴィアはそう言って、頭を壁につけ、観念したようにふぅと息をひとつ吐いた。しばらく、ふたりの間に重たい沈黙が流れた。時計もなく、時折コンピューターから聞こえる小さな電子音だけが、静かで冷たい空間に響いている。

「・・ひとつ伺ってよろしいですか?」

 その沈黙を破るように、露五がシルヴィアの方を見ずに言った。

「なぜ、そうも私につっかかってくるのですか?」

 シルヴィアは特に何も答えず、ただ黙っていた。だが、内心露五はドキドキと心臓の鼓動が早まるのを感じていた。と同時に、沈黙に堪えかねて思わず聴いてしまったことを後悔し、「やっぱり今のはナシで」と言おうと口を開こうとした瞬間、

「羨ましく思うのです」

 シルヴィアは、ぽつりと一言だけ漏らした。

「羨ましい?」

 露五が怪訝な顔でそう聞き返すと、シルヴィアは黙ってその場に腰を降ろして続けた。

「霧島さんや、露五さんたちはお嬢様やお坊ちゃまといつも楽しく過ごされているのを、羨ましく思います。私もゲームや娯楽の類はやりますが、どうもあのおふたりの仲に入るのは難しくて・・」

 シルヴィアは少しだけ目を伏せて答えた。

「そうでしょうか・・」

「えぇ、私には仰ぎ見るのが眩しいくらいに思います・・」

 シルヴィアは出会ったときから、独特の雰囲気をまとった女性だったと露五は思い返していた。友人は多く、ユーモアもある。だが、人には見せない懊悩は瞳に色濃く現れている。その姿に覚えがあった。

『あぁ、時分が昔、仲間を失ったときの目だ』

 露五は、シルヴィアが何にとらわれているかは分からなかった。

「私はMarchiaの仲では新参者で、おふたりの過去のことを詳しくは知らない身です」

 露五は、シルヴィアの方は向かず、語りかけた。

「お嬢様もお坊ちゃまも、いつもヴィアレットに仕える私たちのことを一番に考えて下さっています。貴女もそうお思いではないですか?」

「・・そうですね。いつもおふたりは優しくしてくださいます」

「私は純粋に大切に想って下さるおふたりを喜ばせたい・・ただそれだけですよ」

 ふたりの間に、再び沈黙が流れた。

 すると、突如『ガタン』という音が扉の方から聞こえた。ふたりは同時に顔を上げたが、見れば倉の扉をロックした時に光るランプが消えている事に気付いた。シルヴィアと露五は顔を見合わせると、恐る恐る扉に方へと寄った。

「開いて・・ますね」

 露五が扉に手をかけると、いとも簡単に門が開いた。外はすでに暗くなりかけており、意外と長い時間閉じ込められていたことに驚くのだった。

「どうして?誰か開けてくれたのでしょうか・・」

 シルヴィアがきょろきょろと門扉の周りを見渡すと、扉の隅に点々とどんぐりが落ちていることに気付いた。

「やれやれ・・我々を閉じ込めたのが小動物なら、助けてくれたのも山の住人たちなのですね」

 露五はそれを見て疲れたように首を振って続けた。

「まぁ、とにかく良かった・・。早く戻りましょう」

 そう言って、露五が歩き始めると、シルヴィアがふいに言った。

「露五さん・・ありがとうございます」

 露五は驚いて脚を止めると、シルヴィアはその隣を過ぎていく。

「今度からは、ナイフを投げるときは一言断ってからにします」

 シルヴィアはそう答えると、スタスタと旅館の方へと戻っていった。その足取りはどこか軽やかだった。

「やれやれ・・」

 露五は再び額に手をあてて小さく首を振った。


ヴィアレット家豆知識

シルヴィア:不眠症は相変わらずだが、この日以降、ゆなやゆずると遊ぶ姿が多く見られるようになった。

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