温泉旅館作り#1

 3月も半ばを過ぎると、厳しい冬の寒さも落ち着き、春の陽気に心躍るような日々が訪れていた。時折、時間がまき戻ったかと錯覚しそうなほどの寒さが舞い戻ってくる日もあるが、山々や街路に植えられた草花はすでに色鮮やかに花弁をつけるようになっており、まだ桜が満開に咲くにはほど遠いが、今か今かと人々を心待ちにさせるようだった。

 さて、そんな色がつき始める頃、ヴィアレット家の屋敷からそう遠くはない山に、ひとつの温泉旅館が新しく建設されていた。旅館は麓から少し登った中腹あたりに人目を避けるかのように建っており、見た目は純和風な屋敷作りで、どんと構えた大きな門扉をくぐると、塀に囲まれた中庭は松や楓が植えられていた。昼には青々とした緑葉が輝き、夜には屋敷内から漏れ出るぼんぼりの灯りが照らしていた。内装はモダンな西洋家具が置かれ、ゆったりと温泉や食事を楽しめるよう簡素ながらも贅をこらしたものとなっており、長く滞在すれば飽きて早々に帰りたくなるようなせっかちな人でも、ここならばひと月はいても飽きないと思わず漏らすであろうほどだった。

 元々は古くからヴィアレット家が材木業を営んでいた時代に入手した土地で、近年ではあまり人が立ち入ることも少なくなって荒れ果てていたのだが、最近になって良質の温泉が湧き出ることが判明し、あれよあれよという間に全国でも有数な豪華な温泉旅館として生まれ変わったのだった。

 景色は幸いなことに実に風光明媚で、都会の喧噪の届くことはまずなかった。スイスの美しいアルプスや、カナディアンロッキーのような、青く輝く山間の美を堪能できる場所だった。

「・・もう我慢なりません!いい加減にしてください!」

 夕刻も過ぎ、宿泊客に食事を出すために、旅館の従業員たちが上へ下へと忙しくしているなか、一人の男性の声が旅館の長廊下で響いた。男の立つそばの壁には、食事で使う銀製ナイフが間一髪で逸れて突き刺さっていた。

「それはこちらの台詞です。いつもいつも油断しないようにと忠告しているのに」

 そう言って、シルヴィアは片手に客室から下げた盆を持ちながら、もう片方でナイフを弄んでいた。廊下の天井から下がったぼんぼりの橙色の灯りが、色白の銀髪の美女の手で踊る金属の刃物に妖しく反射している。

「だからといって、毎回毎回刃物なんか投げないで下さい!というか、最近明らかに私を狙ってますよね」

 露五がいつにない剣幕で怒りながら、ちらと壁に刺さったナイフへと目を向けた。淡い緑色の漆喰の壁には、ナイフがざっくりと刺さっているが、そのなかに黄色いスズメバチの羽が見えていた。

「そんなことはありませんわ。まぁ、一昨日の13時頃、お嬢様と仲良くお庭を散歩していたり、その2日前の16時半頃にお坊ちゃまにマスケット銃の講釈をされていて、恨めしい・・恨めしい・・と思ったのはまた別の話です」

「明らかに私怨じゃないですか!大体その前もいちいちナイフを投げてきて・・。さすがに私も看過できません」

 そういって、露五はシルヴィアから目は離さずに壁から片手でナイフを引き抜くと、逆手に近接戦闘の構えをとった。シルヴィアはそれを見て、濃い隈のある目を細めて睨み付けた。

「あらあら、お客様の前でそのような振る舞い・・私も看過できませんわ」

 シルヴィアはそう言って、盆に乗っていたフォークや箸を指に挟んで露五と対峙した。二人の間に火花が散るような剣呑とした空気が流れていた。

「ストップストップ!!!!」

 突然、緊迫した空気を破るような声がふたりの間に割って入った。客室や、階段の廊下の端からはヴィアレット家のメイドと執事たちが顔を覗かせ、心配そうに見つめていた。

「まったく、これで何回目だ・・」

 玄武が頭を抱えながら、露五とシルヴィアの間に立つと、さすがにふたりの間の空気も徐々に弛緩していった。露五はやや気まずそうに俯くが、シルヴィアは特に表情を変えなかった。強いて言えば、どこかふてくされたように天井へと目を向けている。

「これで通算4回目ですね。さすがに壁も埋めるだけではごまかし切れなくなってきました」

 ジャンはそう言って穴の空いた壁を撫でた。よく見れば、旅館のあちこちの壁には空いた穴を補修した跡がうっすらと残っており、ふたりの息のあわなさを物語っていた。

「どうする?オープンは3日後だ。壁はまぁ、なんとかなるとして・・。従業員がこれじゃあ、開店してすぐに閑古鳥が鳴く羽目になるな」

 宿泊客の役で、客室にいた霧島が腕を組んで部屋の前に立っていた。見れば、宿泊客と従業員は全てヴィアレット家のメイドと執事たちであり、オープンを数日後に控え、予行練習を行っていたのだった。

「あぁ・・、しかも、来られるのはヴィアレット家にとって大事な取引先の方々ばかりだ。下手すれば国際問題になってもおかしくない。ただでさえ、大変な時期なのに・・」

 珍しく、玄武はため息を吐きながらどうしたものかと思案していた。

「さすがに、これは厳しいのでは・・。今からでも執事長にご相談されてはいかがですか」

 ジャンは努めて淡々とした様子で玄武に話しかけたが、その顔には焦りが浮かんでいた。

「ううむ・・、ふたりとも接客・裏方ともに完璧だが、顔を合わせるたびにこれでは・・」

 水と油とはよく言ったものだが、シルヴィアと露五はとにかく歯車が噛み合わない。お互いに険悪な仲ではないが、どうも取り合わせが悪いといえた。それは、玄武や他の執事・メイドたちもよく把握していることだった。

「これは厳しいぞ・・」

 玄武はそう言って、眉根に皺を寄せるのだった。


ヴィアレット家豆知識

温泉旅館:ヴィアレット家所有の山麓から温泉が発見されたため、旅館として運営されることとなった。オープンを3日後に控えリハーサルを行っているが、露五とシルヴィアが顔を合わせるたびに喧嘩(ほぼシルヴィアから仕掛ける)するので、前途多難となっている。



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