第4話

「あ~あ、そんなつもりじゃなかったんだけどなぁ……う~ん。まぁいいか」


慎二は右手に握られた2万円をひらひら揺らしながら呟いた。

兼森氏が、お礼だと言って慎二の手に握らせたのだ。

お金目当てでしたことではなかったので慎二は拒んで見せた。

だが兼森氏は引き下がらず、そのまま受け取ることになってしまった。


コンビニで買った弁当をぶらさげ、部屋に戻る途中で慎二はじっと考えた。

古ぼけた、鈍い光を放つ鍵。

どちらかといえば、ガラクタ市なんかで隅の方にちょこんと置いてあってもおかしくないような代物だ。

なのに、何か不思議な力を持つ鍵なのだと思わざるを得ない出来事が2度も起きている。


『この鍵は、何でも開けられます』


これは、本当に本物なのかもしれない。

だがやっぱり夢だったんではないかという疑いはまだある。

アパートの階段を2階まで上り、自分の部屋の前まで戻ってきた慎二は、扉の前で立ち止まり、真剣な顔で鍵を差し込んだ。

もちろん、このドアの鍵ではない。あの不思議な鍵を差し込んだのだ。


ガチャリ。


ドアノブを握って回すと、見慣れた部屋の中が目に映った。

やはり鍵は開いたのだ。

これはもう、疑う余地もない。

何というか、少し恐ろしいような気もする。

いつもの自分の鍵ではなく、不思議な鍵で開けたドアの向こうに広がっている部屋は、本当に自分の部屋で間違いないだろうか。

どこか違う空間に繋がっているのではないだろうか、とそんな気持ちにもなってきたので、慎二はしばらくその場に立ちすくんでいた。


5分ぐらい経っただろうか。もしくは10分以上経っていたのかもしれない。

お腹の空き具合もピークに達してきたので、そろそろ覚悟を決めなければならない。

最後の確認のために辺りをきょろきょろし始めた。

横断歩道を渡るときに、右を見て、左を見て、また右を見る、というイメージに近い。

さて、いざ部屋の中に踏み込むぞ、というその時、ふと道の方を見ると、武田かおりの姿が見えた。

先ほどどこかに出かけていた彼女も戻って来たに違いない。

道路の向こうからこちら側へ横断歩道を渡ろうとしているのだろう。

慎二は1階へ下りる階段の柵に近寄り、不思議な鍵を取り出して言った。


「ガチャリ、なんちゃって」

鍵を彼女の姿に重ね、胸辺りの位置で右側に回した。

何でも開けられる鍵ならば、彼女の閉じた心も開けられるんではないか。

そう思って冗談でやってみたのだ。


「まぁ、さすがにそんなことまで出来ないよな」


独り言を言っていると、急に強い風が慎二のいる場所に向かって吹いてきた。

うわっという声を上げて彼はよろめき、バランスを崩して階段から転がり落ちた。

何が起きたのか分からないまま身体中を強く打ち付け、気が付いた時には青い空を見ながら地面に仰向けにひっくり返っていることに気が付いた。

右側から「大丈夫ですか」という声が聞こえている。

慎二は声のする方へ顔を向けた。

武田かおりだ。


肩に掛かる茶色い髪を揺らしながら、地面にしゃがみ込んだ彼女がこちらを見下ろしている。

叫びながら階段から落ちた彼に気が付いて、走り寄って来たらしい。

慎二の右肩を揺らししていたが、彼が気が付いたことに少し安心したのか笑顔を見せた。


「あっ、気が付きましたか?良かった!」

「……あれ、かおり……?」


ぼんやりした頭で慎二は言葉を発した。

かおりは突然名前を呼ばれたことに驚いたのか、びっくりした表情をしている。


「どうして私の名前を知ってるんですか?」


慎二はその言葉にしばらく黙っていた。

そして、あぁそうかと表情を緩めた。

そのあと頭をさすりながらゆっくりと体を起こした。

どこか打ったのかもしれない。足も痛かった。


「俺、慎二だよ、牧野慎二。小学校が同じだったんだけど覚えてないかなぁ?」

「えっ?……あ、ああ!あの慎二くん?えっ、嘘!本当?」


両手で口を覆いながらかおりは驚いていた。

この春に彼女に久しぶりに会った。

だがすれ違うだけの日々に、子供の頃の仲違いが続いていて気まずさのためお互い話せないのだと思っていた。

だが、それは自分だけが抱いていた思い込みで、彼女の方からすれば、すっかり大人になった慎二に気が付かなかっただけだったのだ。


「懐かしいね、元気だった?」

「うん、そっちこそ元気そうで何より……イテテ」

「あっ、大丈夫?病院に行かなくて平気?」


平気平気と強がっていると、さっきまで手に持っていたコンビニ弁当が手元にないことに気が付いた。

あちこち見渡すと、少し離れたところに白いビニール袋が落ちているのが目に入った。

中身は袋から飛び出し、ふたも外れて見るも無残な姿で散らばっている。


思わず「あーっ!!」と叫んでしまった慎二を見てすべてを察したかおりは、一緒にランチを食べようと提案してきた。

そこでこの近くにあるカフェに入り、少し緊張した面持ちで向かい合わせに座った。


小学校を卒業してから15年以上経つ。

仲違いしてしまったまま卒業式を迎え、そのままだったため、何だかこうやって今同じ場所で話しているのが嘘みたいだ。


「今、どうしてるの?」

「俺?普通に会社員だよ。毎日残業ばっかでさぁ、もう大変。かおりは?」

「うん、あたしは銀行勤めなの。この春に転勤になってこの街に来たの。

 まさか慎二くんにまた会えるなんてビックリだよ」


テーブルに運ばれてきたパスタを口に運びながらも募る話にネタが尽きず、担任の先生は今どうしてるとか、同級生の誰々は結婚して子供が何人いるんだって、などと途切れることなく次から次へと続く。

こうやって会話している時間は最近にないほど心地よく、空気がゆったりしているように思えた。


「あのね、あたし慎二くんにずっと謝らなきゃって思ってたの」


突然、かおりは手に持っていたフォークを置き、俯いて話し始めた。

謝る、とはどういうことなのだろう。

慎二は神妙な面持ちで彼女を見た。


「あたしたち、昔すごく仲良かったじゃない?それを同じクラスの男子に冷かされて、あたしが慎二くんのこと避けちゃって……」

「あ……」


慎二は、遠い記憶を手繰り寄せてみた。

そうだった、それでかおりとは仲違いをしてしまったのだ。


「そうだった、かな?」

「えっ、慎二くん覚えてないの?あたしハッキリ覚えてるよ!

慎二くんが絵描きになりたいって言ってたのをみんながなれるわけないって否定して。

あたし、慎二くんは絵が上手いから絶対なれるよ!って力いっぱい言ったのよね。

そしたら他の男子が騒ぎ出して」


かおりの言う通りだ。

ふと、その場面が脳裏に蘇る。

結局は今も絵描きにはなっていないので、その男子たちの言っていたことが正しかったことになる。


「どうして絵を描くのやめちゃったの?もったいないよ」


かおりは残念そうな表情で、パスタをフォークにくるくる巻き付けた。

そして、自分は慎二の絵のファンだったから、あのまま諦めないで欲しかったと続けた。


「まぁ、どうせ小学生の描いた絵だしさぁ、そんな大したもんじゃないよ」

「何それ!小学校の時にコンクールに応募して賞をもらったこともあったでしょ?」


入賞したことまで覚えているかおりの言葉に、彼女は本当に自分の絵を好きでいてくれたんだということを実感し、胸がぎゅっとなった。


確か、県主催のコンクールで、入賞した絵は県民会館に展示されたのだ。

シンプルではあったが、額縁に入れられて自分の名前とともに堂々と飾られていたのを見ると、誇らしい気持ちでいっぱいになったのを覚えている。

賞をもらったのはどんな絵だったんだっけ。

慎二はぼんやりと思いを馳せた。


「一面のお花畑が、ドアの向こうに見えてる絵だったよね」

「え……?」

「ええっ?まさかそれまで忘れちゃったの?どうしてよ!

一緒にあたしのおじいちゃんの家に遊びに行った時に描いたのに……」


そうだった。思い出した。

都心からは程遠いところにあるかおりの祖父の家の庭には、大きなバラの花畑が広がっているという話を慎二は幾度となく聞かされていた。

その年も、丹精込めたたくさんの花が咲き乱れているということで、慎二はかおりの両親に連れていってもらうことになった。

数時間車に揺られたのちに到着し、かおりの祖父が裏口の扉を開けた瞬間に見えた美しい景色は、幼かった慎二の心を強く強く掴んで離さなかった。

一面に咲き乱れる赤や黄色、そして青いバラの花が、凛とした姿で優雅に微笑んでいたのだ。


持っていったスケッチブックに、我を忘れるぐらいに真剣に向き合ったのは、あの時以外に無かったかもしれない。

鉛筆で下描きをして、丁寧にペンでなぞった。

わくわくしながら色を塗っていく間、時間の流れも止まっていたように思えた。


慎二の脳裏には次から次へと、まるで泉が湧くかのごとく記憶が蘇ってきた。

素晴らしい景色を描いた絵が入賞したのは良いが、かおりの祖父の家に一緒に行ったことが分かるとクラスメートに冷やかされ、そのことが元でかおりはつらい目に遭い、そして自分のことを避けるようになった。

賞はもらえたが、結果的には誰かを不幸な目に遭わせてしまったことや、自分もつらく寂しい気持ちになったこと。

もう絵なんて描かない方が良いのだ、と思ったことで、大好きだった気持ちごと、今まで描いた絵をすべて破り捨てたのだった。

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