第3話

天気の良い日は、外を歩いていると少し汗ばむ。

夏が日に日に近づいていくのが分かるほどだ。

紫陽花の花がのんびりと咲いている家の庭を横目に、慎二はてくてく歩いた。


知らない間に季節だけが移り変わっていく。

土手では、風景を写生している大学生ぐらいの若い男性がいた。

自分も昔は絵を描いていたこともあったなぁと思い返しながら、慎二は微笑ましい気持ちで通り過ぎた。


大人になってからは、あまり景色を見ながら歩いたりすることもなくなったなぁ、などと考えながら歩いていると、曲がり角から一人の女性がこちらへやってきてすれ違った。

少し茶色掛かったボブヘアー。

見覚えのある顔、武田かおりに違いない。


小学生の頃、慎二は彼女と同じクラスでとても仲が良かった。

だがよく覚えてはいないが、卒業式の頃には彼女とは仲違いをしてしまっており、そのまま中学も別々になってしまい、それっきりだった。

実家から離れた場所で仕事に就いてそんなこともすっかり忘れていたのだが、今年の春になって突然の再会を果たした。

とはいえ、目が合っても言葉を交わすこともなくただすれ違うだけ。

慎二は何度か話しかけてみようかとも考えたのだが、きっかけがつかめず今に至っている。


(何だかモヤモヤするよなぁ。別にいいんだけどさ)


そう思っていたその時。

どこからかドンドンと戸を叩くような鈍い音と女性の声が聞こえてきた。


「ユウくん!ダメ!!ユウくん、ここを開けてちょうだい?ねぇユウくんてば!」


慎二がきょろきょろしていると、すぐ傍にある家の2階のベランダに若い女性がいるのが見えた。

ベランダの外からガラスの戸を叩き、中に向かって叫んでいるようだった。


「ユウくん、早くここを開けてちょうだい!だめっ!!ユウくん!!あっ、キャーッ!誰か、誰かー!」


あまりにもその女性が取り乱し始めたので、慎二は思わずベランダの下に駆け寄り、女性に話しかけた。


「どうしたんですか?」

「息子がベランダの鍵を中から閉めてしまって、入れなくなってしまったんです!

 熱いお鍋が置いてあるんですけど、そこに手を伸ばそうとしてて……キャーッ!」

女性はますます力を込めてドンドンガラス戸を叩いた。

中では小さな息子が今にも火傷しそうな危機にさらされているに違いない。

どうするべきかと考えながら慎二は、無意識にズボンの右ポケットに手をやった。

すると、さっき放り込んだ鍵に手が当たった。


「もしかして……!」


ハッと何か閃いたように、慎二はとっさにその家の玄関に走り寄り、鍵穴に持っていた鍵を突っ込んだ。

鍵はするりと鍵穴に滑り込み、ドアは軽やかに開いた。


考えている時間は無い。

慎二は勢いよく部屋に飛び込んだかと思うと階段を駆け上った。

先ほどのベランダのある部屋の方向へ走ると、2歳ぐらいの小さな男の子のがテーブルの上に置かれた鍋に手を伸ばし、そこに引かれたテーブルクロスの端をじわじわと引っ張っているところだった。


「危ないっ!」


慎二は男の子にタックルをするように飛び付いて、そのまま彼を腕に抱いたまま勢いよく床を転がった。

鍋は、落ちるか落ちないかの境目でテーブルの上に鎮座し、ずれた蓋の隙間からは白い湯気がふわりと立ち上っていた。

もし、慎二が駆け込んでこなければ、男の子は頭から火傷を負っていたかもしれない。


階段を駆け上ったからだけではない、妙な緊張感に手が震え、心臓は激しく打ち響き、額から汗が流れた。

ハッと我に返った慎二は、男の子を抱いたままベランダに駆け寄り、青ざめている母を中に入れてやった。

彼女は泣き叫んで息子を強く抱きしめ、そして慎二に何度も礼を言った。


『ありがとうございます。でもどうして中に入れたんですか?』

『さぁ、なんか、偶然にも玄関が開いてたみたいで』


手にした鍵をまじまじと見つめながら、慎二は先ほどの出来事を思い返した。

自分でもよく分からないが、確かにこの鍵を使ってドアを開けたのだ。

するっと鍵穴に刺さった感触も覚えている。


だが、どう考えても不思議だ。

あの家の鍵でもない限り、開けることは不可能だろう。

ということは、あのドアはやっぱり最初から鍵は掛かっていなかったのだ。

最初から開いていたドアなのだから、開いて当然なのだ、きっとそうだ。

慎二はそう自分に言い聞かせ、また鍵を元のポケットに放り込んだ。

そんなことより昼飯の方が大切だ。

走ったために余計にお腹が空いてしまった。

早くコンビニを目指すのだ。


すると、大きな車が道端に停まっているのが目に入った。

白く輝く外国車。

近所に住む噂の大金持ち・兼森氏のものだ。


小学生の男の子が車の横でわんわん泣いている。

兼森氏は、一代で財を成し、全国に会社を展開する大企業の会長である。

現在の60代になるまで様々な苦労もあり、厳しい世の中を駆け抜けてきたのだが、

孫の前では一人の優しいおじいちゃんなのだということが普段の生活からも見て取れた。

そんな兼森氏が必死に孫をなだめている。

一体何があったのだろうと遠巻きに慎二が見ていると、どうやら車内に車のキーを入れたままドアを閉じてしまったらしい。


「うわぁ~ん!水族館に連れて行ってくれるって言ったのに!」

「すまん、これから業者を呼んで、それから行こう!な、な?」

「うわあぁぁぁん!そんなことしてたら時間が無くなっちゃうじゃないかー!」


スペアキーも無いのか、車はすぐに開けられない様子だ。

せっかく楽しみにしていた水族館に行けないと大泣きする孫の横で、兼森氏は大変に困った顔で携帯電話を取り出し話し始めた。

しかし、どうやら業者も込み合っているのかすぐには来てくれないらしい。

「何とかならんのかね!」という大声も空しく響くだけ。

男の子はますます大きな声で泣きじゃくり、何だか可哀そうに思えてきた。

慎二はふと、ズボンのポケットに右手を伸ばした。


「あの~……?」


眉間にしわを寄せたまま、兼森氏は慎二の方を向いた。

一体何の用だねと言わんばかりの表情をこちらに向けられたまま、慎二は話し始めた。


「あの、僕が何とか出来るかもしれません」


その言葉に兼森氏はきょとんとした表情を見せた。

男の子も一瞬泣くのを止めて、慎二の顔をじっと見た。

2人からの視線を独り占めにして慎二は少し怯んだが、ポケットからさっと鍵を取り出し、車のドアに近づいた。


ガチャリ……。


鈍い音を立て、ゆっくりと鍵が回った。

ごくりと唾を飲み込む音を感じ、慎二は鍵穴からそっと鍵を抜いた。

レバーに手を掛け緊張しながら引っ張ると、ずっしりとした感触とともにドアが開いた。

慎二は、安堵のため息をついたあと、兼森氏と男の子の方に顔を向けた。

2人とも驚きの表情を浮かべながら、次の瞬間には喜びの声を上げて慎二に話しかけた。


「ああ、君!何とお礼を言ったら良いか。どうもありがとう!」


しっかりと両手を握りしめられ、ぶんぶん上下に振り回されたかと思うと、兼森氏は車の方へ体を向け直した。

男の子は大喜びで駆け出し、車の助手席に飛び乗った。

これで水族館に行けるのだ。

涙にまみれた顔が、今は太陽のように輝いていた。


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