不足した項
アナタは処理の終わった書類を机で叩いて、バラつきを整えてからファイルに入れた。それをそのまま座っている席の背後に備え付けたストッカーに仕舞う。
これで今日予定していた仕事は全て片付いた。まだ午後の二時を回ったところで、時間に余裕が出来た。
アナタはタキツの様子を見ようかとも思ったが、昨日マキナに言われたことが頭を過ぎり、ゴーグルに伸ばした手が止まる。
「今日の夜には一度テイルフィンに帰ってくるはずだしな。違う仕事を……進める、か」
代わりに、以前に理事長から受け取った資料を机に出した。それは学園が記録したタキツの情報である。
日々のトレーニングメニューは勿論のこと、身体測定の結果、食事の内容、レース出場記録まである。
アナタは最新のレース適性測定の結果を見て、溜め息が出そうになった。
タキツは泳ぐ速さも腕力も肺活量も魔力も、一般の人間と同程度の数値だった。
普通なら人魚になって五年の間には、人間の数倍の実力を持つのが普通であるし、老化のない人魚は年齢によって身体能力が低下することもない。むしろ、トレーニングや良質な食事によって成長し続けるのが当たり前だ。
百年生きた人魚では、けして有り得ない能力の低さだ。
他のページも見れば、タキツは一日の内で三十分しか運動をしない日も度々見受けられた。
レースについては、四十七年前から出場記録が途絶えている。
それに加えて、人魚の誰もが身に付けている技術も忘れ去っている現状では、確かに本人の言う通り、レースで勝つのも絶望的だ。
それでも、とアナタは思考を巡らせる。
今まで怠けていたトレーニングを着実に続けていき、食事で栄養を摂取することで体造りをしっかりと行えば、タキツの能力は必ず上昇する。
勝利への道筋は見えていると、アナタは俯きそうになる心を無理にでも持ち上げた。
タキツの方が諦観しているから、アナタは強気でいないといけない。落ち込めば、二人して全てを零れ落としていくだけだ。
「どういうことだ、これ?」
気を持ち直して次の紙をめくったアナタは、そこに書かれた情報に声を漏らした。
そこに書かれていたのは、タキツの食事記録だ。毎日、彼女が食べた献立が一ヶ月分列記されている。
毎日、一日も欠かさずに食事を摂った記録が、だ。
人魚は排泄器官を持たない。それは、摂取した食事の全てを栄養として吸収するということだ。その栄養は人間や他の動物、一部の植物と同じく、活動のエネルギーとなるか身体を組成する原料となる。
例えば、人魚の中には食事を多く取り、体を大きくする者がいる。最大の人魚は全長が三キロメートルにも及び、その他には一キロメートルクラスの人魚が数人知られている。ただし、そこまで巨大になれる人魚は、鯨や鮫などの大型生物の因子を持った個体である。
例えば、大きな大会に年間を通して参加し、そのためのハードなトレーニングに従事する人魚は、三日に一度のペースで食事を摂り、エネルギーを補充する。海域一つを横断するような運動を日常的に行っているから、それだけのエネルギーが必要だ。
そこまでの運動をして、三日に一度以上の食事を体が拒否するくらいに、人魚は燃費のいい生物だ。
タキツは小さくて、細い。運動もさっきの資料で見る限り、ほぼしてないに等しい。
その彼女が毎日食事を摂っていた。
明らかに、摂取した食事と体型や生活態度が噛み合っていない。
アナタは急いで資料を飛ばして、タキツの身長や体重が記載されたページを探し当てる。
オシェアニア・リーフェ学園では、月に一度の身体測定で人魚の身長や体重、その他の測定をしていた。
体重を示すグラフが、思った通りの形をしていて、アナタは逆に背筋が寒くなった。
その折れ線グラフは、がたつきながらも横這いに一定の小さな範囲に納まっている。
やはり、食事量の情報だけが、タキツの資料の中でおかしなことになっている。
かといって、学園の正式な記録であるから、この資料が間違っている可能性はゼロに近い。
アナタは他の資料にもざっと目を通すが、それ以上に目ぼしい情報は見つからない。
それから小一時間頭を悩ませ、しかし脳を疲れさせるだけでなんの答えも見つけられずにいて、そしてアナタは一人で考えるのに限界を感じて電話を手に取った。
電話を掛けた相手は、思い詰めたアナタの声を聞いて、ものの数分でやって来てくれた。事務所の裏に住んでいてくれて、こんなにも助かったと思ったことはない。
「おーい、どした。さっきの死にそうな声はなんだよ」
この建物の持ち主であるマキナは、チャイムのノックも無しに、上がり込んで足で水音を鳴らしてきた。
けれど、その呑気で気の置けない態度が、今は頼もしい。
「ちょっと、聞いてほしいことがあるんだけど」
アナタは、タキツの資料をマキナに見せながら、浮かび上がった疑問を伝えた。
マキナも人魚の生活に詳しいから、タキツの食事の異常性にすぐ眉を顰めた。
「こんだけ食ってる人魚がデブじゃないし、運動もしてない、むしろ泳いでなさすぎて、今やってる遠泳で片道二日がかり? これが天下のオシェアニア・リーフェの印が入ってなかったら、もっと考証ちゃんとやれよ三流小説家と言いたくなる設定資料だな」
「うん、例えが分かりにくい」
「お前に伝わればいいだろ、二人しかいないんだから」
マキナはどかりとアナタの前に座り、腕から愛用の小型デバイスを取り出して机に置いた。
「つまりは、計算式の項が足りてなくて計算が合わないってことだろ?」
「コウ?」
文系のアナタは、聞き慣れない用語に対して、表面の音だけをなぞって聞き返すのが精一杯だった。
アナタの情けない反応を予測していたマキナは、デバイスにARボードを投影させて、そこに一つの方程式を映していた。
『ax+by+cz=n』という、呪文にも見える文字の配列をアナタは眺める。
「この式のnをタキツ嬢の体重と定義する。そして方程式が正しくない場合、それは係数が間違っているか、項が過不足しているか、どちらかだ」
「はぁ?」
自信溢れるマキナの講釈に付いていけず、アナタは生返事を返す。
そしたら、マキナの指で額を叩かれた。鈍い痛みがアナタを苛む。
「係数とは、つまり、運動の量や食事の量のことだ。しかし、学園が出したデータが間違っているとは、こっちもお前も思っちゃいない。それで項の過不足だ。項とはつまり、項目だよ、バカ生徒くん」
「項目?」
マキナが言いたいのは、タキツの体重を考える上で必要な情報の種類が足りていないということか。
しかし、食事量や運動量、身体能力から考える筋肉の質や量の他に、一体何が体重に影響するというのか。
「この資料に書かれていなくて、体重をマイナスにする項が存在しないから、方程式が解けないんだ。ミステリーで言うなら、隠された真実があるんだろうさ。それを探すのは当然、こっちの科学者じゃなくて、お前の仕事だろう、出来損ない探偵よ」
「探偵に就職した覚えはない」
茶化してアナタを蹴り立てるマキナに、アナタも軽口で返す。
しかし、タキツが隠していることを調べるのがアナタの仕事だというのは、その通りだ。そしてそれは、タキツがここまで身体能力を落としていることにも関係しているのだろう。
アナタは、マキナの出力した間違った方程式を睨み付けた。
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