親友登場

 その日の朝、アナタは蹴水けみずを上げながら、事務所を通り過ぎた。

 タキツは今日も遠泳を続けている。心配は積もるばかりだけど、アナタはタキツのためにしなければならないことが他にもある。

 例えば、レース出場への手続き。

 例えば、トレーニングメニューの作成。

 例えば、生活を整えること。

 アナタは事務所の裏に回ると、同じ区画にある家屋の門に備えらえたベルを鳴らした。

『はい、どちら?』

「マキナ、ぼくだ」

『ああ、今行く』

 少し待てば、家主によって玄関が開けられた。

 バンダナで雑に伸ばした髪をまとめ生地の厚いサロペットにいくつも工具を突き差したまま出て来て、彼女は眩しそうに太陽の光に目を細める。彼女こそ、アナタに試作品のマギアを提供してくれる大学以来の友人だ。

「おはよう。まぁ、上がりなよ」

「おはよう。じゃ、お言葉に甘えて」

 彼女の家も、事務所程でないが床が浸水している。足首は余裕で沈む深さだ。

 その水から階段を上って逃げて、アナタは水平階から一階上の部屋に案内される。いつも通されるリビングなので、アナタは定位置の椅子に腰掛けた。

 マキナはリビングと繋がっているキッチンでお茶の用意をしてくれている。

「無事にパートナーになる人魚が決まったようじゃないか。オシェアニア・リーフェ学園の理事長から、お前の事務所を召し上げるという話が来た時は、流石に驚いたぞ」

「あはは……いろいろ忙しくて、事後報告になってすまない」

 何を隠そう、この家もアナタの事務所の建物も、マキナの持ち物である。事務所の経営権利の移譲に当たっては、土地の権利者にも当然承認を受ける必要があった。

「別に、驚いただけだ。それでどんな物好きな人魚がお前の夢物語に付き合ってくれるようになったのさ」

 マキナは湯気の立つマグカップをテーブルに置いて、自分も席に着いた。

 コーヒーの香りがアナタの鼻まで立ち上る。

「タキツ、という人魚でね、知っているかな。まぁ、百年、登龍門を突破していないまま、学園に残り続けている子なんだけど」

「はぁ!? なんだそれ、マーメイドレースが始まって以来の最長記録なんじゃないのか? いくらあの滝がとんでもないからって、それを数年で登り切ってしまうからこその人魚だろう!?」

 タキツの常識外れな落ち零れ加減は、彼女を見知らぬマキナも叫ばせた。

 アナタは簡単にタキツのことマキナに語って聞かせる。

 見る見る内に、マキナの顔が苦虫を噛み潰したように潰れていった。

「うわ……めんどくさ……お前もいろいろ信じられないとこあるけど、相手の方はめんどくさいとか、どうなんだよ……なんか言うことは聞くけど、やる気は明らかにないじゃん」

「面倒だとか言うなよ、タキツを預かってほしいってお願いしにくくなるじゃないか」

「……なんて?」

 アナタがマキナを訊ねた本題を口にすると、虚を突かれた彼女は口をあんぐりと開けた。

 アナタは一つ頷き、この依頼に至った理由を語る。

「さっき言った通り、タキツは近い内に学園の寮から出て行かなきゃいけない可能性が高い。なら、その前にどこかに住まわせたいと思ってるんだけど、女の子が一人暮らしできる物件を探すのに時間がかかる。だから、一先ず信用に足る人のところに住まわせて、ゆっくりと探した方が事故がなくなるだろう。それに、お互いに気に入ったらそのまま暮らし続けても言い訳だし」

 アナタの言い分に、マキナは右手で頭を抱えた。

 けれど、真っ向から反論を出さないでいる。

「それでまずこっちに話を付けに来たと。順番は間違っちゃいないんだよなぁ」

 アナタはマグカップの取っ手に指をかけて、コーヒーを口に運んだ。

 マキナも多少は納得をしているので、手応えは悪くない。

「だめかな?」

 だからアナタは無理に迫らずに、一言の確認だけを放った。

 マキナは髪を掻き、嫌そうにコーヒーを呷る。

「取りあえず、会ってみてからだ。それでこっちかあちらさんが嫌だと言ったら、なしだ。いいな」

「おーけー、おーけー。助かるよ。いつも無理を言ってすまないね」

「無理言ってる自覚あったんか、お前」

 人魚の助けになる人間になりたいだの、そのための事務所に当てはないかだの、サポートする人魚を家に置いてほしいだの、躊躇いなく厄介事を頼み込んでくるアナタに、マキナは辟易としている。

 しかし、マキナの方も新作のエアピースを試せだの、マギア開発のために目ぼしい人魚の情報を寄越せだのと日頃から言っているので、お互い様だ。

 だからこそ、こうして頼り頼られつつ、良好な友人関係を築けているのだとも言える。

「仕方ないだろ、人魚向けの家持ってる知り合いとか、マキナくらいしかいなかったんだからさ」

「そりゃ、わからんでもないが」

 人魚が暮らす家、正確には人間と人魚が同居する家は造りからして人間だけが利用する建築とは違う。

 人魚が日常生活を送るためには、彼女達が泳げるだけの水位が必要であり、当然ながら人間の方は家屋には水なんてない方が暮らしやすい。

 水平階と一口に言っても、人間が利用する建築ではメガフロートの床から五十センチメートル以上の段差を上げて水の侵入を防いでおり、人魚が利用する建築では逆に床を下げて彼女達が泳げる余裕を持たせている。

 マキナは人魚とも交友が広い。人魚の体や魔法は、マギアの開発の参考になるので、人魚と親しい関係を築いている。

 だからこそ、マキナの家は人魚が生活するのに不自由がないのを、アナタは親友としてよく知っていた。

「じゃあ、今度はタキツを連れてくるから、よろしく頼むよ」

「わかった。水平階にフロートソファを用意しておくか」

 なにはともあれ、家主にはこうして承諾を得られたので、アナタはタキツを家無し子にしなくてよくなったと、ほっと胸を撫で下ろした。

 話が一段落着いたと見たマキナは、サロペットのポケットの一つから小さな端末を取り出してテーブルに置いた。そのマギアから半透明のARキーボードが空中に投影される。

「で、今度はこっちの要件だけど。リンケージは試したな? どんな感じだ?」

「感度はすごくいいよ。タキツ……人魚が泳いでる感覚が直接体験できるから、ちょっと酔うけど、これは慣れかな」

 アナタが与えられた試作品の感想を述べると、マキナの指が空中に浮かんだARキーボードの上を滑る。

 マキナの網膜にはディスプレイが直接映されて、自分で打ち込んだメモ書きが見えているはずだ。

「相手の状況を知るだけでは片手間だろう。自分の手元はどうなんだ」

「うーん。それが問題なんだよね。サークレットの方から送られる情報で脳は手一杯で、自分の方の視界は見れてないよね」

「それじゃ、お前が楽しんでるだけになるだろうに」

 アナタとマキナが二人で想定したリンケージの運用は、ナヴィゲーターが人魚から本人の情報を受け取りつつ、レース全体の流れや手元に用意した他の人魚などの資料を同時並行で確認し、現場感覚と全体観を掛け合わせた展開を提示することにある。

 それなのに、アナタがタキツから送られる情報ばかりに気を取られて、自身の周囲を確認出来ないのなら、全体観が損なわれる。タキツが見えない状況を素早く伝えるのが何よりの肝要なのだ。

「そこはぼくの課題! あー、もっとタキツの視界と繋げて、どっちの視界も把握できるようにならないと!」

「ぶっちゃけ、覗き見してるようなもんなんだから、嫌われないように気をつけろよ、お前」

「……え?」

 マキナがなんの気なしに、アナタに一瞥もくれずに注意を促した。

 しかし流すように差し込まれたその発言を、アナタは聞き逃すことが出来なかった。

「覗き見って、なにそれ?」

「なにそれって、お前、そこらへんの自覚なかったんか? え、自覚ないってことは無意識になんかやらかしてね? 特に意味がないからお前の視覚や聴覚を向こうに飛ばしてないけど、それ逆に言えば一方的に盗聴と盗撮されんのと同じだぞ。本人の了承を得てるだけで。まさか、本人の了承得てないとか言わないよな? こっちを犯罪に巻き込むなよ?」

「了承はちゃんともらってるって! タキツも納得してる! あ、でも、なんかイヤそうだったのって、もしかして……」

「あーーーー」

 全てを悟ったマキナが、未声みこえにしかならない音を喉から垂れ流した。

「あうと」

 そして未声の最後にぼそりと、罪の宣告を付け加えた。

「うそだろ」

 アナタは心外だとマキナの顔を見るが、彼女は冗談が一切ないマジな顔だった。

 そしてマキナにゆっくりと首を振られ、アナタは膝から崩れ落ちたのだった。

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