初めての遠泳
波読みと
さっきも言ったように、自分が泳ぐのに有利な波や流れを読み、それに乗り、或いは避ける、波読み。
人魚の豊富な魔力を体表に纏わせて防御結界とする纏。
不規則な環境になる海で、激しい攻防も繰り広げられるマーメイドレースに取り組むには、最早前提となる技術がこの二つだ。
「まぁ、いくらか練習したらできるようになるでしょう。運よく人のいい人魚に教えてもらえるかもしれませんしね」
タキツは気軽に楽観視しているが、アナタは不安を拭えない。
アナタの引きつる頬を見て、タキツは肩を竦めた。
「とにかく、遠泳に行って来ますね」
「タキツ、ちゃんと帰って来れる……?」
「子供扱いしますけど、私はアナタより八十歳近く年上ですからね」
アナタの心配も、タキツは袖に振る。
トレーニングはしてもらわなければいけないが、このまま見送ると胃や頭が痛くなりそうだ。
それでアナタは頭を悩ませてやっと、昨日自分から言い出した約束を思い出す。
「タキツ、今日はずっとリンケージのマギアは繋いでおくから、もう無理だと思ったらそう言ってね」
「あー……まぁ、そうですね、元からそういう話ですもんね」
タキツは頭が痛そうな顔をしながら、銀のサークレットのこめかみ辺りを中指が叩く。
けれどアナタにとって、タイムラグ無しで見守れるというのが何より安心の材料になってくれる。
「じゃ、私はもう出て平気?」
「うん。気を付けて」
「はいはい」
タキツはするりと水の下に潜り込み、
アナタは早速、リンケージマギアのもう片方であるゴーグルを棚から取り出して装着する。
起動させれば、息が詰まった。
正しく水に潜ったように、視界が歪み、音がくぐもって耳から遠ざかり、肌に圧を感じた。
くらくらとする意識をアナタはなんとか持ち直し、ゴーグルを通じて脳が受信する情報を像に結ぶ。
水の中で、セイレネシアの
メガフロートは海中側にも建造物が突き出している。地上側と比べて、数も少なく階層も浅いそれらは、人魚達が利用している街の姿だ。
アナタの視界がぐるりと回り、底を映し出す。
海中は途中で暗黒に飲まれ、のっぺりとした闇が揺蕩っている。水で拡散した光が勢いを失って届かなくなった先の底だ。セイレネシアの海下では、深度百メートル辺りから先になる。
セイレネシアの地面が海上からの光を遮り、また雨水や河川に混じって流出する陸上由来の栄養が植物プランクトンの濃度を高めているから、外洋に比べて明るい深度が限られている。
『タキツ、こちらの聲は聞こえるかな?』
アナタはテスト代わりにタキツに聲をかけた。
『聞こえています。残念ですけど』
『問題なく通信できてよかった』
タキツが下に向かって体を押し出した。
泳ぎで揺れる体を反映して、アナタが見る景色も上下に振れる。
五十メートル程を一息に沈んで、タキツはセイレネシアの海下ビルから離れた。
都市部の近くを泳ぐのには速度制限が設けられているので、高速遊泳をする潜水船や人魚はこうして深度を稼ぐのだ。
タキツがくるりと目的地の方角へ進路を取り、泳ぎ出す。
セイレネシアの下は、魚が豊富だ。海底は深い所では千メートルを越えて離れているが、浅い所では有光域に突き出した岩が見られる。
その海底まで、セイレネシアの床から伸びる柱が時折視界に入る。その柱には游路標識が掲げられている。
そんな景色を泳ぐタキツだが、頻繁に体がふらついていた。
浮遊海上国家は、外洋の高波に襲われるのを防ぐために、ぐるりと防波堤に囲まれていて、海流は穏やかだ。
しかし、魚や船が通り過ぎて流れを遮ったり、遊泳するものの起こした波が迫ってきたりと、水中の体は絶えず四方八方から押されている。
波に強弱はあっても、その中を真っ直ぐに泳ぐのは人間にとってとても困難だ。
人魚は違う。彼女達は、波を巧み読む感覚が備わっているので、水の中で絶えず変化する路をするすると泳いでいく。
その人魚なら誰しもが当たり前に持っている技術を忘れてしまっているのが、タキツである訳だが。
波に押される度に体の向きを直し、向かい波を受けては大きく迂回して進むタキツは、体力をかなり浪費しているはずだ。
『タキツ、大丈夫か? その、あんまり進行がよくないみたいだけど』
『気が散るから、余計な口を利かないでくれます?』
タキツはアナタとの会話が邪魔になるくらいに余裕がないようだ。
目を離さないでいれば何かあった時にすぐに助けに迎えると思っていたが、こうして見ていると不安が混み上がってくるばかりだ。
その日は一日、タキツから送られる映像を見ていたが、大きな事故はなくても心労がアナタに重く圧し掛かった。
タキツが自己分析した通り、ノーズ岬まで半分の行程で日が暮れてトレーニングは打ち切りになった。
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