トレーニング開始

前提の食い違い

 アナタは、自分の小さな事務所の高い椅子に腰掛けて、机に書類を広げている。

 床に立てばへその上までが水が満ちている水平階の仕様は、人魚と人間が同じ空間で過ごす家屋や店ではありふれた形式だ。

 アナタは常温の海水に足から体温を損ないつつ、タキツが来る前にスケジュールの最終確認をしていた。

 それにしても、理事長の手腕は流石に手際が良かった。アナタとタキツがハイチェイスの大会を観戦しに行っている三日間で、本当にこの事務所を人魚プロダクションの世界的企業であるオシェアニア・リーフェの末端の子会社として手続きを済ませてくださっていた。

 これなら、少なくともオープン大会であれば書類選考で落とされる不安もなくなった。

 そんなことを考えていたら、アナタは部屋の水が落ち込んだ流れで足が押された。

 床に備えられたドアがスライドして、中からタキツが出てきた。

 タキツは水面に顔を出して、首を振って髪から飛沫を払った。

「おはようございます、ナヴィゲーターさん」

「おはよう。今日から、改めてよろしく」

 お互いに挨拶を交わせば、タキツはするりと泳いで机を挟んでアナタと向き合った。

 タキツは水面に肩まで浸かっているから、自然とアナタが見下ろす形になる。タキツの額には、きちんと昨日渡した銀の環が光っていた。

「それで、トレーニングの予定を教えてくれる? 私はなにをすればいいの?」

 アナタは、前以て準備していた電子メールをタキツの携帯に、ワンタッチで送った。

 口頭だけじゃなく、文字で残る形で共有するのは、後から確認するためにも重要だ。

「今メールを送ったけど、ぼくは今週、タキツの住む場所をどうにか準備するつもりだ。だから、タキツには一人で遠泳トレーニングをしてもらいたい。ルートは、テイルフィンから出て、ノーズ岬までの往復だ」

 このセイレネシアという浮遊海上国家メガフロートは、人魚の姿を模している。

 赤道に向かって、南西に頭があり、腰のくびれから尾鰭が北東に向かって伸びているような形だ。

 アナタたちが住んでいるテイルフィン州は尾鰭の先端に当たり、人魚が最も多く住んでいてマーメイドレースに関わる事業で発展している。

 ノーズ岬はセイレネシアの鼻に当たる岬で、海のレースに出る人魚の平均速度なら休みなしで一日がかりで往復できるか、という距離だ。

 今回はこれを二往復するのをトレーニングメニューにしている。登龍門前の人魚でも、一週間で熟せるとアナタは計算している。

 これが人間であれば途中の宿泊や食事の手配が必要だけど、人魚は飲まず食わずでも死なず、水中で眠るのも日常的に行っている。トップマーメイドを目指して訓練している人魚から見れば、酷く甘いノルマでもあった。

「ここからノーズ岬、ですか。片道で二日くらいでなんとか着きますかね」

「え?」

 タキツが口にした予測日数に、アナタは戸惑いを覚えた。

 アナタは、往復で三日としてこのトレーニングを組んでいる。

 二往復で六日と八日では、トレーニングの合間の休息に支障が出る誤差だ。

「え、えと、タキツ? 片道で二日もかかるかな?」

 繰り返すが、アナタが設定した往復で三日もトレーニングとしては緩い部類だ。本気でレースで勝つつもりで訓練するなら、往復で二日は切ってほしい。

 けれど、タキツは臆面もなく、胸を張って頷いた。

「すみませんけど、私って百年がかりの落ち零れなんですよね」

 にっこりと笑うタキツだけど、そこは自信を持って主張してほしくなかったダメさだ。

 アナタは笑えなくて頬が引きつる。

 しかし、一往復に減らすとトレーニングとして負荷が足りなさすぎる。出発したなら帰って来てもらうから結局それが遠泳になるし、今から別地点を目的地にしても安全で効果のあるルートを設定するのにまた時間を割くことになる。

 アナタは瞬時に頭を悩ませて、遠泳から帰って来た後のトレーニングを軽いものに差し替えた。

「わかった……それで、休みを挟んで来週は休息半分で祈りのトレーニングとキックトレーニングをしよう」

「わかりました」

 タキツはアナタの提案したメニューを素直に受け入れてくれた。言うことを聞いてくれるのは大変助かるのだけど、アナタの想定よりも身体能力が低いのは悩みどころだ。

 しかし、人魚は同じ速度の船舶よりも短時間で長距離を泳げるはずだ。彼女たちは、泳ぎのために波を読み、抵抗が少なく速度に乗る流れを掴むスキルを誰もが身に付けているからだ。当然、人間が泳ぐよりも体力も節約されている。

 そして、アナタはふと、とても嫌な予感がして、タキツに質問を投げかけた。

「ねぇ、タキツ、波読みとまといって、使えるかな?」

 アナタの問いかけを浴びで、タキツはきょとんとした。

 そしてゆったりと海水で冷えた下唇に右手の中指を置いて、物憂げに瞼を伏せる。

「そう言えば、もう長くまともに泳いでないから、どうやればいいのかすっかり忘れてますね。あれ、前は出来てたのに、どうやるんだっけ?」

 アナタは、当たってほしくない予感が当たって、がっくりと肩を落とした。

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