歌声のそよぐ沖の誓い
アナタはタキツに頼まれて、彼女を甲板へと連れてきた。
タキツは今、マーメイドカーに乗っている。その作りを簡単に言えば、乳母車だ。
人魚は水中以外で移動するには這い蹲るか、魔力を使って宙に浮かんだり自分で水の道を作り出したりするかである。
魔力が保てられない人魚を速やかに運ぶために使われるのが、このマーメイドカーだ。勿論、この道具は乗った時の見た目から、多くの人魚が嫌っている。
けれど、タキツはマーメイドカーで運ばれる事に嫌悪感がないようだった。
彼女はクッションの上に寛いで、風と波に運ばれてくる歌声に耳を澄ませている。
遠くからそよぐこの歌声は、レースの勝利者であるルルのものである。
先程、無事にゴール、またはセレモニーポイントと呼ばれる目的地まで皇帝玳瑁を持って到達したルルは、そのまま儀式の準備に入った。
アラウンド・オシェアンのシリーズに連なるレースは全て、マーメイドレースの元型のアカシックレースに分類される。これは古来より伝わるもので、人魚だけが発動出来る大規模魔法の儀式なのだ。
儀式に必要なライセンスを取得し、儀式に相応しい場所に運ぶ事で、海珠はその人魚に歌のレコードを注ぎ込む。その歌は詠唱だ。人魚は星から伝わる詠唱を謳い、魔法を発動させる。
このハイチェイスでは、ライセンスが皇帝玳瑁であり、発動する魔法は海流の安定である。毎年、太静洋の何処かに現れる皇帝玳瑁を生贄にしてこの儀式を行うことが、多くの
このレースが実施されなければ、メガフロートは数年の内に津波や嵐に呑まれて転覆するだろう。
その重要な歌を、今、ルルが響かせている。
「船内放送で、ルルの歌も流されているはずだけど」
今、アナタとタキツ以外に誰も甲板にいない理由を、アナタは彼女に伝えた。
人魚のウィニングライヴは、レースそのものと同じくらいに誰もが楽しみにしている。
人魚の歌は、それはもう美しく、そして星から伝わる歌はこの場のこの瞬間に立ち会わなければ聴く事が出来ない。
「私はここがいい。ナヴィゲーターがちゃんと聞きたいなら、置いていっていいです」
タキツからは素気無い返事しか与えられなかった。
アナタは軽く肩を竦める。
「生で聴きたいなら、海に入ってもっと近くまでいってもいいんじゃないかな」
アナタの提案は、タキツの耳に届いたのか届いていないのか、沈黙が続いて、アナタは少し気まずさを覚える。
やがて、タキツは首を緩慢に振り、水面のように青みがかった銀色の髪をふわりと浮かせた。
「いい。生きることを尽くしていない私に、このレースの歌をちゃんと聴く資格はないと思うから」
タキツの言葉は潮風に流されて、泡のように消えた。
その儚い諦観を掬い、アナタは言葉を返す。
「本当にそうかい? 君は今日、レースを目の当たりにした。逃げもせず、目を逸らしもしなかった。それは紛うことなく、今を生きる君の強さだよ、タキツ」
アナタの本心を、タキツは肩を竦めて受け流す。
梨の礫かもしれないが、アナタはさらに言葉を接いだ。
「正直、ちょっぴり安心したんだ。ああ、きっと僕らは上手くいく、ってね」
アナタの左下から溜め息が漏れた。
視線を向ければ、タキツの白けた顔を捉える。
「アナタ、その独り善がりなモノローグを語る癖、気持ち悪いって言われる前に直した方がいいですよ」
どうやら、はぐらかされた、ようだ。
いや、もしかしたら、タキツの本音なのかもしれないけれど。
「これがただのレースであったなら、まだ意味は通ったでしょうにね。ナンセンスよ。そう、ナンセンスだわ、知らないって恐ろしいことですね」
タキツにとって、アラウンド・オシェアンは何か特別な意味を持つのだろうか。
そうだとしても、アナタはタキツの事をまだ知らない。
その齟齬が遊ぶ空隙は、少しずつ埋めるしかないだろう。
「君は、今、何がしたい? どうなりたい?」
タキツが生きる事を尽くしていないなら、それを埋めていこう。
一つずつ達成して、やりたい事を尽くしてもらおう。
けれど、それでもまず返ってくるのは、面倒そうな溜め息だった。
「ナンセンス 。私に訊く事ではないですよ」
「やっぱり、意識のすり合わせは大切だからね。君のナヴィゲーターとして、聞いておきたいのさ」
にべもないタキツに、今度はアナタが肩を竦めた。
取り付く島もないなら、船を漕ぎ着けるだけだ。
「ありませんよ、私に希望だなんて。だから、ナヴィゲーターが連れていきたい先を教えてくれないと困ります」
タキツの赤い目がアナタを射貫く。
アナタはアーチェリーの的になったつもりで、その瞳を受け止めた。
「アナタが指し示したものに至れるように、出来る限りの努力はしましょう。それ不満なら、可愛げのない人魚は海に捨ててしまえばいいと思います」
期待通りの言葉ではないけれど。
期待している先は、同じ方向を見ていた。
自信はゆくゆく胸に抱いてもらおうか、とアナタは口の端を持ち上げた。
「勿論、タキツの理想の未来は幾らでも思い描いているとも。タキツから言ったんだ、きちんと全て実現してもらおうじゃないか、ぼくのマーメイドさん」
アナタの熱の籠った眼差しと台詞に、タキツの口から一際大きな溜め息が沸いた。
「ほんっと、ナンセンス。付き合ってあげる此方の気持ちを少しは理解してほしいものね」
タキツはどうやら、諦めの代わりに後悔を、まずは抱いたようだった。
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