ウェイクィーン

 太静洋の沖合を、滑るように皇帝玳瑁コウテイタイマイが泳ぎ抜けていく姿が天井に設置された巨大スクリーンに映し出されている。

 アナタの足の下は、船底であり、透明なアクリルで海を一望出来た。

 何人かの人魚が、アナタの乗る船を擦り抜けて、皇帝玳瑁を待ち伏せするための位置取りに動く。

 アナタがタキツを連れて乗船したのは、とあるレースを中継する観客船だ。

 タキツはアナタと違ってスクリーンを見上げず、船底の向こうに満ちる海を睨んでいた。

 そしてタキツの視線の先から、皇帝玳瑁が迫り、一瞬で過ぎ去った。

 皇帝玳瑁の速さに引きずられた海水が歪み流れて、船を揺らし、乗客から少なくない悲鳴が上がった。

 アナタもタキツに習って、皇帝玳瑁がやってきた方角へと視線を降ろした。

 アナタの動体視力でも、辛うじて金と銀の光が一筋、泳ぎ去るのが見えた。

「速い! 速いぞ、ルル・アトゥイ! 人間の目には光が過ぎ去ったようにしか見えない! コウテイタイマイにぴったりと併走して後ろに付いている! 幾度となくグランドスラムをコンプリートしながら、去年より満を持してアラウンド・オシェアンのシリーズレースに出泳し、初参加で次々とグランプリを奪っていた最優のウェイクィーンは、このハイチェイスでもライセンスを奪っていくのか!」

「例年であれば、ハイチェイスはアルカナライセンスである皇帝玳瑁をトップの人魚が追い回して疲労させ、人魚さえも超えるスピードを出せなくなったところから文字通りのチェイスを始めますが、ルルの遊泳速度は開始十五分で既に皇帝玳瑁に匹敵しています。他の人魚は、スピード勝負ではとても敵いませんから、どこかで策を弄する必要があります。いつレースが動くのか、そこが見所かもしれません」

 船内に実況と解説の声が、音響を通して空気を波打たせる。

 アナタは人魚達でも最高峰の選手が競い合うグランプリシリーズであるアラウンド・オシェアン、その一つであるこのハイチェイスのチケットを事前に二枚予約していた。

 解説も実況も、人気があるとは言え人間であり、船の設備も一流には程遠く、停泊位置もレースのゴールから外れている最低価格の乗船チケットではあるけれど、グランプリであるから二枚も取ればその値段は高額の一言では済ませられない。

 けれど、アナタは共にレースに挑む人魚と、このレースを見て、二人で目指す最高の泳ぎを実感しておきたかった。

 そしてタキツには、このレースを目の当たりにすることが、他の人魚にも増して重要だと確信している。

 タキツの忙しなく巡る瞳は、現在の人魚でもトップと謳われるルル・アトゥイの泳ぎを追いかけているに違いない。

 アナタはタキツと違って、遠く、そして速い皇帝玳瑁とルルのチェイスを負う動体視力を持ち合わせていないので、レースを追いかけるカメラの映像を貼り付けるスクリーンに視線を戻した。

 ルル・アトゥイが長い金髪を踊らせ、月銀に煌めく尾鰭で水を打ち据える姿が大きく映し出されている。最近の自動追跡カメラは、マギアの中でも進歩が著しく、人魚でも最速を誇るルルに相対速度を縮め、どうにかフレームアウトさせずに録画出来ていた。

 ルルは人魚の倍は速いと言われる皇帝玳瑁に対して、徐々に距離を詰めつつあった。

 尾鰭のストロークは、直線で六秒に一回とスローペースで体力に対する負荷は抑えられているだろう。

 ルルの後方、六メートルを離して追い縋る黒髪の人魚が、一秒に三回というハイペースでキックしているのを見れば、彼女がどれだけ悠然と泳いでいるか分かる。

「セレシア、ルルのウェイクに乗っているが、これはアガっているか!」

「普段ならラストスパートに出すような速度ですね。それをルルは余裕で超えているのが、やはり怖いです。しかし、セレシアもうまくウェイクに乗っているので、ひょっとするとひょっとしますよ」

 ウェイク、曳き波とは、水を進む物体が作り出すV字状の波だ。これは水を掻き分ける時に生まれるため、レースでは先頭の人魚がウェイクを発生することになる。

 そのため、常にトップを譲らない人魚の称号として、曳き波と女王を組み合わせたウェイクィーンというものがあり、現在その賞讃はルルが独占している。

 しかし、ウェイクに乗って後続は加速することが出来る。女王の施しを得て、反乱を起こして抜き去るという場面は、古来よりマーメイドレースで繰り返され、一つの目玉にもなっていた。

 今、ルルの後ろに付いたセレシアという人魚も、自身の限界に近いトップスピードを出してルルのウェイクに乗った。

 セレシアは、波に合わせたキックで推進力を得て一気に加速するのが得意な人魚であると知られている。

 セレシアの尾鰭が、ルルのウェイクを蹴り、二つの波形はぴったりと一致してロケットにも似た加速をセレシアに与えた。

 その一蹴りで、ルルが抜かれ、セレシアは皇帝玳瑁に手を掛ける、そんな一瞬先を多くの観客が予想し、息を飲んだ。

 けれど。

 女王は確かに、人々を統治し、生きる場を与える者である。

 しかし恵みを与えた相手に玉座をむざむざ明け渡す者が、女王と呼ばれ続ける筈がない。

 ルルが身を捩り、バレルロールして尾鰭を強く蹴った。

 ルルが曳いていた水流が捻じれ、狂い、自らを殴打する。

 水中に生まれた水塊の波は、ぶつかり、弾け飛び、拡散する。

 その荒み狂う流れに呑まれて、セレシアは切り揉みして吹き飛んだ。

 髪が乱れ、右腕が関節と逆に折れ曲がり、尾鰭が真ん中から千切れ血が噴き出している。

 ウェイクィーンとは、曳き波を与えながらも、後ろに控える従者には決して前を譲らないからこそ、女王と称賛されるのだ。

「セレシア、これは厳しい! 彼女の再生力ではこのレース中に折れた腕と尾鰭を治癒して復帰するのは絶望的か!」

「今のルルの一撃、尾鰭で海を叩くだけでなく、魔力も乗せて衝撃を大きく、さらに強く高めていました。並の人魚なら腕が体から離れていたことでしょう」

 ちなみに、不老不死であり再生能力に優れた人魚は、相手への攻撃も躊躇いがない。細胞の一片まで微塵に砕かれても、時間をかければ体は元に戻るのをお互いに知っているので、一時的に、つまりはレース中は行動不能になるくらいの怪我をさせても平然としている。

 セレシアの体を叩きのめしたルルが、皇帝玳瑁を追い抜かした。

 そして皇帝玳瑁の鼻先で身を翻して急ブレーキを掛け、速度の全てを乗せて波を作り出し、それは大槌の如く振るわれた。

 皇帝玳瑁の首が水圧を叩き付けられて、拉げる。

 ルルは一撃で絶命させた皇帝玳瑁の甲羅を掴み、ゴールに向かって泳ぎ出した。

 ハイチェイスは、皇帝玳瑁の捕獲までで、例年なら二時間から三時間は経過するレースだが、ルルは三十分足らずで仕留めた。

 余りに圧倒的だ。当然、この後にゴールへと向かうルルを止められた人魚も、皇帝玳瑁を奪い取れた人魚も、一人としていなかった。

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