落ち零れのテイル・フィン・カット

 エアピースから、小さくうたぐんだ空気が上へ逃げていく。

 アナタは理事長に案内されて、腕を掻き、さらに下へと潜っていった。

 擦れ違う人魚が、アナタの足を見て、目を丸くする。

 手を振れば、相手は顔を赤くして立ち去ってしまった。

 少しばかりの寂しさを空気と一緒に飲み込んで、アナタはまた理事長の尾鰭を追う。

 彼女は、人間の学校で言えば中庭に当たるであろう、廊下の真ん中に開いた広場にあるベンチで一人ぽつんと座っていた。

 本を読むでもなく、眠るでもなく。

 通り過ぎる人魚達を見るでもなく。携帯電話をいじるでもなく。

 ただただそこに座っていた。

 アナタは息を飲む。

 周りは誰も彼女を気にしていない。

 遠目に見るでもなく、あからさまに避けてもいない。

 当然、近寄ろうとする人魚もいない。

 彼女が広げるゆったりとした服の裾や袖がたゆとう範囲を境に、そこが世界から隔離されているように存在していないように。

 そんな光景を見て、アナタの胸が締め付けられる。

『……白波のようだ』

 そう思い吐いたアナタの声は水へとうたぐみ、浮かび去って誰にも届かない。

 けれど、その【聲】は直接タキツの意識へと響き、彼女は驚きを露にしてアナタに顔を向けた。

 タキツはアナタの体付きと床に付かない二本の足を見て、さらに目を見開いた。

 彼女にとって、自分に話しかけてくる相手は珍しいのだろうし、彼女でなくても人間が水中で話しかけてくるだなんてことは驚愕に値する。

 これが人魚同士であれば、なんの不思議もない。彼女達は水中でも言葉を伝える方法が二つある。

 一つは、声帯から魔力を響かせて水に声を伝わせる方法だ。人魚は人間と同じ外耳を使って空気中での収音を行うだけでなく、水中では耳の裏の肌の下に水の振動を捉えるもう一つの鼓膜も備えている。

 そしてもう一つは、魔力を直接相手の脳波に共鳴させる方法だ。理論上は水中どころか真空中でも、しかも対象とする相手にだけ言葉を脳で紡がせることが出来る。

 こちらで使っている特殊な魔力の共鳴を、思念波と呼んだり、聲と呼んだりしている。

 当然ながら、人魚に較べて魔力に乏しいアナタのような人間が、道具なしに使えるものではない。

『こんにちは、驚かせてしまったね。ああ、このエアピースの機能で、ぼくも聲を出せるんだ。少し、お邪魔しても?』

 アナタは咥えている特注のエアピースを指差して、目で微笑みを作るけれど、タキツは警戒を解いてくれなくて、肩を強張らせている。

 意識して周囲にも伝えた聲は、理事長にも聞こえたらしく、こちらもアナタを見て瞬きをしている。

 アナタは理事長に向けて微笑んで警戒心を解いてから、タキツへ視線を戻す。

 タキツは返事をするでもなく、広がる服の袖と裾で体を覆い隠すように肩を抱いて身を引いている。

 そのあからさまな拒絶に、アナタは自分の発言がそんなにも奇妙だっただろうかと頭を悩ませる。

『タキツ、この人はその、少し変かもしれないけれど、いい人よ。あなたに少しお話があって、いいかしら?』

 沈黙の間に理事長が割って入ってくれた。

 タキツがちらりと、理事長を見て瞳を揺らす。悩むくらいまでは状況が改善したようだ。

 悩むというのは、割とマイナスの状況な気もするけど、気にしてはいけない。

 理事長はタキツの前に尾鰭を付いた。

 しばし、二人が見詰め合う。

 時折、タキツが首を傾げたり、涙目になったり、頷いたり。

 理事長もタキツの肩に手を乗せたり、首を振ったり、目を鋭く細めたり。

 二人が聲で会話をしているのはアナタから見ても明らかだ。

 タキツのこれからとアナタの人となりを説明しているのだろう。

『……わかり、ました』

 最後に、タキツは弱々しく頷いた。

 そしてゆらりと水に浮かんで、アナタの前に袖と裾を垂らした。

 ゆたりと浮力に乗って沈みながら、タキツは頭を下げる。床に付いてはいないが、三つ指を付いているような姿になっている。

『これから私の行く末はアナタにお任せします。なんの取り柄もない私が、アナタの実績となるとは到底思えませんけれど……それでも身請けしてしてくださりますか?』

 アナタは、ふむと胸の内だけで頷いた。

 百年もの間、登龍門を突破出来ずに海のレースに出れないためか、タキツは随分と自己評価低いらしい。

 それに対して、アナタは事前に読み込んでいた人魚名鑑に記載された彼女のプロフィールとそこから推測される素質を思い浮かべる。

『まず、ぼくの実績、人魚がレースで勝利するサポートをする立場を確立するという意味では、ある意味でこれまでの伸び悩んでいた人魚がサポートを受けて劇的な成果を見せた、という方がより華々しく世間に取り扱ってもらえると思う。それにぼくはそんなふうに思い悩む人魚の力になりたいと思って、この提案をしているんだ』

 アナタは先に、実力がない人魚を助け、寄り添うことが第一の目的なんだと自分の意志を伝えた。

 そして続けて、タキツの素質について語る。

『それに、キミがぼくのサポートを信頼してアドヴァイスを実践してくれるなら、必ずトップレベルのマーメイドになれると確信している。具体的に言うのなら、来年の登龍門は突破させてみせよう』

 アナタの脳裏に、タキツの素晴らしさを思い描き自信を持って告げた。

 人魚とは永久に成長し続ける生物だ。この海珠には全長が三キロメートルを超える人魚も確認されている。

 そしてその成長は、日々のトレーニングで幾らでも伸ばせるし、方向性も決めることが出来るのが、これまでの人魚達がレースで魅せた情報から分かっている。

 タキツは確かに、取り柄や得意なスキルがないかもしれないが、それは逆にどんな人魚にでも成長出来る可能性が保たれているとも言える。

 当の本人は、アナタの発言が意味不明とばかりに眉を顰めているけれど、時間はたっぷりとあるので、結果で見せていけばいい。

 登龍門は毎年五月に行わているが、今年のレースはちょうど先週に行われていた。

 丸々一年もの期間があれば、万全の仕上がりで登龍門へと送り出せると、アナタは脳内のカレンダーに幾つかのスケジュール案を組み上げる。

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