細々と打ち合わせ

 タキツが不本意にではあるけれど、アナタのサポートを受け入れ、この学園から出て行く判断をしたところで、理事長は二人を海上の応接室へと促した。

 学園の中では、他の生徒の目もあるので、プライベートな話をするのには向かないとの判断だ。

 アナタとしても、エアピースを使って聲を出すのは疲れてしまうので、声を出せる海上に戻れるのはありがたかった。

 理事長とアナタは向かい合ってソファに座り、タキツは床に開いた穴の中で水に浮かんでいた。

 床に体を置くよりも、水に浮いている方が楽なので、人魚が生活する海上の部屋にはこうして床を凹ませた水溜りがあることが多い。

「それで、私はアナタをどう呼べばいいんですか?」

「ああ、ぼくの立場か。そうだね、他のスポーツならコーチとかトレーナーとか呼ぶんだろうけど、人間より年上で生き物として格上な人魚に向かってそんな呼び方をしてもらうのは、いかにもバツが悪いよね」

 名前を聞いたつもりだったタキツは、アナタの発言にまた眉をひそめた。

 しかし、諦めたのか面倒臭がったのか、それを指摘してはもらえなかった。

「ナヴィゲーターっていうのはどうかな。道案内の他に、航海士という意味もある。レースまでの日程、それにレースそのものを航海だと例えて、進んでいく人魚の行き先を提案する立場だ。それに、航海士が提案をしても、最終決定は船長、ぼくたちで言えば人魚自身が決めるっていうのも、理に適っていると思わないかい?」

 アナタが脳裏に浮かんだ呼称を熱っぽく語ると、タキツからは冷めた視線が返ってくる。

「好きにしていいと思います。よろしくですね、ナヴィゲーター」

 タキツは声も表情も素っ気なくても、きちんとアナタが考えた呼び方を使ってくれるから、アナタは嬉しくて思わず頬が緩んだ。

 理事長もそれは嬉しそうに、アナタ達のやり取りに微笑んでいた。

「さて、いろいろ決めないといけないけれど、何はともあれ、まずはタキツの生活をどうするかだね」

 アナタは改めて気を引き締めて、ここで話し合うべき内容を口にした。

 タキツにとって最大の問題は、この学園での生活を終わらせなければならないということだ。

 レースという大舞台も、日々の生活に支えられて出場出来るのだ。

「そうですね。トレーニングの設備は元々、他の小さなプロダクションに所属するような人魚にも月謝をいただいて利用できるようになっているのでいいですが、理事会はこのまま寮で暮らすことは許さないでしょう。今すぐに追い出すような真似はさせませんが、いずれはタキツには引っ越しをしてもらわなくてはなりません」

 やはり状況は差し迫っている。

 だが、アナタにはちょうどよく面倒を押し付けられそうな知り合いに心当たりがあった。

「人魚一人なら、家に置いてくれそうな相手がいますから、頼んでみましょう。ちょっと住んでみて、その後また別のとこにいくかどうかは、タキツが決める感じでどうかな?」

 アナタがタキツにそう伺うと、彼女は肩を竦めて袖を揺らした。

「連絡も取らずにそんな安請け合いしていいんですか。私はまぁ、住む場所を慌てて探さなくていいなら、願ったり叶ったりなので否やはありませんけども」

「うん、どうにかなると思うよ。取りあえず、その方針で行こう」

 タキツの住居の次に問題として挙げられたのは、事務所についてだった。

 マーメイドレースの殆どは、出場する人魚に所属事務所からの身分証明を要求している。個人で参加出来るレースだけでは、世間の評判になるのは不可能だ。

 しかし、この点については、理事長がすぐに助け舟を出してくれた。

「我が社の子会社扱いで、事務所を設立しましょう。そうすればタキツの異動も、学園施設の使用申請もスムースに進められます。将来、実績が整ったところで独立してもいいですし、支援のためにそのままの立場で展開していくのもありでしょう」

 理事長の申し出は大変にありがたいものだけれど、アナタはいたく恐縮する。

 これまでは形だけの事務所であり、これからもアナタとタキツ、そして事務員一人という零細と掲げるのも憚れるような環境でスタートするのだから、大企業にはなんのメリットも提示出来ない。そんなものが理事や他の幹部の了承を得られるとは、アナタは思わなかった。

「いえ、あの、さすがにそれは無理があるのでは? レースの一つ、優勝したならともかく」

「今は、百年負け越し、ここ十数年はレース出てない名飾なかざり人魚しかいませんものね。そういえば私、最後にレースに出たの、何年前だっけ……」

 アナタの横で、タキツも同調しながら怖いことを呟いている。

 もはやレースの勘も何もすっからかんなんだろうなと、アナタは別の意味でも冷や汗を掻いた。

「平気ですよ。箱も人手も既にあるなら、関連事務所の設立の処理くらい、わたくしの一声で明日にでも終わりますから」

 理事長が平然と、そして本気で言っているのが声の張りからすぐに分かり、アナタは天井を仰いだ。

 これはもう遠慮しても聞き入れてもらえない流れだ。

 天井の蛍光灯を眺めるアナタの袖が、くいくいと引かれた。

 視線を引かれた方に下げれば、タキツの小さな指がアナタの服を摘まんでいる。

「頷いとくといいと思う。悪いことはなにもないし」

「その通りではあるんだけど」

 大人のプライドとか男の意地とか言う話は、百年以上を生きていても少女のような姿のままの人魚に言っても意味はないかもしれない。

 ともあれ、事務所についても理事長の強引さで解決させられしまった。

 残る問題は一つ。

 タキツは、正直レースで勝つつもりは、今のところないだろう。

 さっきも少なくとも十年以上、もしかしたら二十年近く、レースにエントリーしていないらしい。

 アナタがトレーニング内容とレース出場を差し出せば、それに従ってはくれるだろう。けれど、そこにタキツ自身の意志がない。

 意欲がないままにどんなにトレーニングにしても成長は望めないし、レースの順位も上がる訳もない。

 タキツにレースを泳ぐ気持ちを持ってもらわなくてはならない。

「取りあえずタキツ、明日から三日間はぼくに付き合ってくれないかな」

 そのために、タキツに見てもらった方がいいものがある。

 提案するアナタを、タキツは真っ平な瞳で見返していた。

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