第722話 兄と妹と他人達

「どうして、さんなどはいているのだ!」


 レトリノさんの驚きの声に、なるほど、違和感の正体はそれかと納得した。

さん』とは、ズボンのことである。

 俺がこの世界の言葉を多く覚えてくるに従って自動翻訳さんの精度がアップしてきて、この文字が当てられるようになったのだ。

 日本でもこの字、当て字なんだけどね。


 あちらの世界ではポルトガル語のズボンを表す単語の発音から、乗馬ズボンのようなニッカボッカのような、膝から下の裾がすぼまった形のものが『軽衫かるさん』と呼ばれていた。

 その『さん』が、皇国ではスラックスタイプのズボンを表すのである。

 皇国では、乗馬用で太腿部分にプリーツが入り膨らんでいるものは『乗衫じょうさん』と言うようだ。

 シュリィイーレ隊の女性達の制服のズボンが、この形である。


 そして女性用のスカートは『はかま』と、自動翻訳さんの表示がされる。

 そもそもこちらの世界のスカートはウエスト部分にベルトがある近年流行のモダンなタイプと、胸のすぐ下にベルト部分がある昔からの伝統的なタイプに分かれる。

 作りがまちという中仕切りのない日本の『行灯袴あんどんばかま』にそっくりで、スカートというとこれらを指す。


『袴』表記になるのは、伝統的な方だ。

 フレアータイプが『広袴ひろはかま』、布を円にして真ん中を刳り抜いて作るサーキュラタイプだと『円袴えんはかま』、プリーツタイプだと『重袴かさねはかま』などと呼ばれる。


 流行のものの方は『腰袴こしはかま』になって、フレアースカートは『広腰袴ひろこしはかま』だ。

 腰袴を着るのは若い人が多くて、皇宮で見た傍流様達は伝統的タイプの円袴が多かった気がする。


 ……『◯袴』の場合『◯かま』と音を濁らせてしまうと伝わらないし、勿論『スカート』と言っても首を傾げられるだけである。

 自動翻訳さんは、広腰袴フレアースカート……とルビ付きで表示するくせに。

 解りやすいんだか解りづらいんだか解らない。


 読みと意訳の両方が表示されるのも、随分と増えてきて混乱する。

 翻訳グレードが上がっているのだと思うが、表記方法の見直しもしていただきたいものだ。


 そうそう、カーラさん、初めてお会いした時はその広腰袴ひろこしはかまだったのだ。

 だが今は細身のズボンで、俺の格好と大差がなかった。

 いや、上半身は袖がふわりと膨らんだ、女性に人気の中衣ブラウスをお召しなのであの時と一緒だと思うが。

 なんだか、衛兵隊の女性用制服みたいな格好にも見えるな。


「いいではないですか。この町では、とやかく言う心の狭い頭の固い人が少なくて、とても快適なのです!」

 カーラさんはそう言うと、ちょっとだけぷぅ、と頬を膨らます。

 そしてぼそり、と呟いた。

 ……「僕がどういう格好をしようと、お兄さまには関係ないですよ」


 一人称が『僕』とは、珍しい。

 他の人には聞こえていなかったようで、レトリノさんも気付いていないみたいだ。


 実は一人称が複数ある言語というのは、なかなか珍しい部類なのである。

 時代によって変わることはあったとしても、幾つも同時期に存在し使われ続けることはあちらの世界でもごく稀だ。

 日本語は……そういう意味では、かなり珍奇な言語と言える。


 皇国でも臣民達は、殆ど分かれてはいない。

 男性でも女性でも『自分』を指す一人称は変わらないのだが、貴族達は少々違う。

 これは古代語に由来するのだろうけれど、男性と女性では一人称や二人称が状況や相手によって変わるのである。


 そのことに俺が気付いたのが極々最近なのは、俺にとって『一人称や二人称が人によって違うこと』が当たり前だったからだ。

 俺が『自分』を指す言葉を『私』『俺』『僕』『儂』『あたくし』『あたし』……などと分けて聞いていたのは、その人の持つイメージが大きく関わっていると思われた。

 だが、シュリィイーレでは人によって違う言葉を使っていたと気付いた。

 それは、遊文館に色々な人達が一堂に会するようになって、聞き分けることができるようになったからだ。


 貴族言葉では『僕』『儂』という男性用の砕けた言葉と、公用の『私』『わたくし』という一人称がある。

 そして、女性の一人称だと自動翻訳さんが示すのが『わたし』もしくは『あたくし』という話し言葉の人が多くて、公用が『私』『わたくし』なのである。

 仕事や堅苦しい場、上位の方々に対しては男女ともに『私』を使い、仲間や身内、気心の知れた人に対しては喋り言葉として『僕』『わたし』『あたくし』などを使う。


 だから、ビィクティアムさんが『俺』と表記される『臣民言葉の一人称』を使っているのは、お貴族様としては珍しい部類だ。

 多分、小さい時から漁師達と一緒に居たり、港で遊んだりしていたからだろう。

 日本だとフツーにこの辺使い分けるから、ぜーんぜん疑問じゃなかったよね。


 だけど、臣民がこの『貴族言葉』を使うのは、相当珍しいのだ。

 一般的には『俺』か『あたし』で、女性については『わたし』も多くいる。

 ……シュレミスさんが『僕』という一人称を使っているのは多分、貴族様推し故のことだろうけど。

 だから、自動翻訳さんが態々『僕』と訳したと言うことは、カーラさんが『貴族言葉の男性用一人称』を使用しているということになる。


 どこかでカーラさんは自分を女性だと認めていない、とか?

 いや、それとも男性に生まれたかった、とか?

 それとも『あたし』や『私』と自分を指すのが好きじゃないとか?


 こういう問題はひとりひとり全く理由が違うもので、センシティブなことだと思う。

 だから画一的にこういう心理だ、とか、こういう環境だったからだ、なんて外野である第三者が勝手に論ずるのは失礼で的外れだ。

 だけどそういうことを言いたがる人は多いし、多分誰でも一度は『男だから』『男なのに』『女だから』『女なのに』と口に出したり考えたりするものだと思う。


 散々言われたよなー……『男のくせに』っての。

 書道だと言われないのに、カリグラフィーだと言うやつが男女共に多くて、むかっ腹が立ったものだ。

 だけど、皇国ではそういった感じの男女差を口にすることはない……と思っていたけど、それはシュリィイーレだけで他領は違うのかもしれないな。

 俺はこそっと、母方がルーデライト家門であるラトリエンス神官に尋ねた。


「コレイルというのは、女性に対して何か服装などについて規制でもあったのですか?」

「そうですね……コレイルは『伝統的であること』を重んじる傾向が従者家門でも多く見られましたから、言葉遣いについても服装に対しても割と……固いというか、違うものを許さない傾向が強かったと思います。私は王都中央区で過ごしておりましたからコレイルでもさほど違和感を感じませんでしたが、初めてロンデェエストのアクエルドやリバレーラに赴任した時は……驚いたくらいです」


 ラトリエンス神官がどうしてそのようなことを、と少し疑問に思われたようだが笑って誤魔化す。

 女性家門がご領主の領地とは違うみたいだと言うことは、なんとなく理解したけどそれだけじゃなさそうだな。

 従者家門の貴族への憧れとかも、原因がありそうだよねぇ。

 ディルムトリエンみたいな極端な男尊女卑ではないからこその、ささやかな抵抗っぽいんだけど……そう考えるのも、ちょっと違和感があるなぁ。


「その装いは、とても似合っていらっしゃいますね」


 アトネストさんの突然の言葉に、レトリノさんだけでなくカーラさんも吃驚している。

 俺も吃驚した。

 アトネストさんがそういうことを言い出す人だとは、多分誰も思っていなかっただろう。


「あ、すみません。昔、少しの間一緒にいた……冒険者の女性も、そのような快活な装いをしていて……その、格好いいな、と思っておりましたので」


 なんと。

 アトネストさんってば、ぽやっとしているようでなかなかやるな。

 そーだよね、アーメルサスでは冒険者として旅をしてきた人なんだもんな。

 格好いい女性冒険者もいたんだろうね、うんうん。

 確かに今のカーラさんの装いは、アクティブで素敵だよな。

 こーいうことをするっと言えたら、モテるのかもねぇぇ。


 あれれ?

 でもあまりカーラさんには、響いていないのかな?


「冒険者……ですか」


 あ、そこか。

 んー……そうか、貴族言葉を使う人に冒険者はウケが悪いか。

 この町の人達が冒険者嫌いってのも、その辺のお貴族様的な感覚と今までの困ったちゃん達からの経験だもんなぁ。

 ああああ、アトネストさんが申し訳なさそうに黙って俯いちゃったぞ。

 カーラさんが慌ててフォローに入る。


「あ、違う……ちょっとね、冒険者って……苦手で」

「いえ、私も、軽率な喩えでした。皇国では……あまりよく思われていないことは、存じておりましたのに」

「おまえが謝る必要などないぞ、アトネスト。こいつに偏見があるだけなのだ!」


 なんだか、レトリノさんが言うと重みがあるというかなんというか。

 移民達への偏見とか確執、全部ではないだろうけど払拭するように今でも頑張っているんだろうからな。

 おっ、カーラさんがレトリノさんを睨んで視線を上げたぞ。


「偏見があるのはお兄さまです。女がさんを纏うことに対して!」

 うん、そうだろうな。

 その辺は偏見というか、好み?

 妹には可愛く装って欲しいとかってことかもなー。


 レトリノさんとカーラさんがちょっと意地の張り合いっぽくなってきて、少しずつ声が大きくなる。

 神官さん達は……ちょっとオロオロしている感じだけど、止めてあげてよー。

 アトネストさんとシュレミスさんは……その神官さん達の後ろ側に隠れちゃって、子犬みたいにうるうる顔じゃないですか。

 まったくもー、同僚とはいえ家族のことだから介入しづらいのは解りますけどしっかりしてよー。


 テルウェスト神司祭は、微笑ましいというような雰囲気で眺めているな。

 ……そういえばシスコンだったな、テルウェスト神司祭……思い出しているのかな、テルウェスト公アシュレイル様のこと。

 そうか、女系家門では女性がさんを身に着けることには、確かに抵抗がないよなぁ。


「えーと、カーラさん?」


 恐る恐る、作り笑顔で声をかける。

 そろそろおいとましたいので、俺としては収めていただきたいのですよ。

 ここは子供達の集う遊文館のエントランスですし、兄妹喧嘩なんてしていただきたくないですしね。


 だけど……兄と妹の間に割り込むのって、勇気が要るな。

 頑張れ、俺っ!


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『アカツキ』爽籟に舞う編・38▷三十二歳 繊月二十日 - 昼2とリンクしております

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