すりガラスの向こう側に

蒸し暑さで目が覚めた。

早朝だというのに外では蝉の鳴き声が聞こえる。

僕は起き上がり、ラジオ体操に行くため階段を駆け降り、1階に向かった。

階段を降りた先には、玄関がある。

玄関のドアは引き戸になっており、木の枠にすりガラスがついている。

南向きについたドアのすりガラスからは、陽光が降り注ぎ、玄関はいつも明るかった。

向こう側は見えないので人相は分からないものの、誰かが近づくとその姿はシルエットとして分かる。

僕は階段を降りた先で、玄関のすぐ外に誰かが立っていることに気付いた。

その影は夏だというのに、着物を着込んだように図体が大きい。

影の輪郭はどこか着物の繊維がささくれ立っているように見えて不潔だと思った。

我が家への来客者としては、どこか不自然だ。

子どもながらに僕はその影の主が怪しく、怖いと感じた。

影は何をいうわけではなく、ただそこに佇んでいる。

僕は気配を感取られないように静かに階段を降り切った。

おそらくこの先の台所で朝食の準備をしているであろう母親に報告しようと、抜き足差し足で通り抜けようとした時だった。


「ただひこ」


玄関のすぐ外、おそらく影が発したであろう声が聞こえた。

影は一人であるのに、その声は老若男女、様々な声が混ざっているようだった。

僕は影が呼んだ名前に聞き覚えがある。

祖父の名前だ。

得体の知れない存在が祖父の名前を口にしたことで、僕の中の警戒感は少し和らいだ。

向かいの家の木村さんかもしれない。

そういえばああいう体型だったっけ、と自分自身を納得させた。

「ちょっと待っていてください」

僕はそう伝えて、台所の母の元へ走った。

台所に入ると、母がまな板で何やら切っており、味噌汁の匂いが漂っていた。

僕は少し安堵する。

母が僕に気付いたようで、振り返った。

「おはよう、早くしないとラジオ体操遅れるよ」

僕は端的に来客者について伝えた。

「うん、なんかお客さん来てるよ。おじいちゃんの名前呼んでた」

母はパタパタとスリッパを鳴らしながら、玄関の方に歩いて行った。

足音が止む。

僕は台所のドアから顔を出し、玄関の方をのぞいた。

母が玄関で立ち尽くしており、玄関の外に、今だに影がいる。

母は駆け寄り、「そこで待っていなさい」と言うと、2階に駆け上がって行った。

おそらくまだ寝ている父を起こしに行ったのだろう。

私はその影をじっと見つめていた。

すると、踵を返すようにその影はフッと姿を消した。

父と母はバタバタと階段を駆け降りてきた。

玄関の方を見ながら息を切らしている。

普段は優しい父が鬼気迫る様子で僕に聞いた。

「何も答えていないか」

僕は怖くなってしまい、「ちょっと待っていてください」と言ってしまったことが言い出せず、ただ頷くしかできなかった。


その日の夜、僕は尿意を感じ起きて、1階のトイレへ向かった。

トイレの近くには祖父と祖母の部屋があり、その襖から光が漏れ出ていた。

中からは何人かの話し声がする。

近づいてみると、祖母と祖父、母、父が中にいることが分かった。

父が何やら言っている。

「……大丈夫だよ。あれと会話をしなければ。だろ母さん」

父が言う母さんとは僕の祖母のことだ。

祖母はいつもと変わらない明るい調子で話す。

「そうよ。きっと大丈夫よ。さあさあもう遅いわ。寝ましょう」

「ちょっと待ってください」

母が間に入る。

「私なんか聞こえたんです。台所に来る前、悠太が玄関で何か話していること」

部屋の中に沈黙が流れる。

僕は、僕がここにいることを悟られてはいけない。

そう思い、心臓の音でばれてしまわないか心配だった。

沈黙を破るように祖父が明るく言った。

「そんなに落ち込むな。持病もあったから時期が多少早まっただけだ。」

おそらく「いく」とは「あの世へ逝く」と言う意味なのだろうと言うことは、子どもの僕でも分かった。

「じゃあ、最後にパーっと行くか」

そう言うと、祖父は日本酒の一升瓶を取り出し、酒盛りを始めた。

祖母と母、そして父も酒をもらって飲んでいる。

「おつまみも欲しいわね」

祖母がそう言い、こちらに来る気配を感じたので、僕は静かに2階に戻った。

尿意はなくなっていた。

布団の中で、祖父が死んだらどうしよう、僕のせいかもしれないと考え一人泣いた。

いつの間にか部屋は明るくなっていた。


そして翌日、祖父が亡くなった。

心筋梗塞だった。


父たちは悲しむ暇もないほど、忙しそうに葬儀の準備をしていた。

近所の人も葬儀を手伝いに来てくれた。

近所の人はコソコソと何やら話していた。

「あれが来たらしい」

「ずいぶん久しぶりだ、いなくなったのかと思っていた」

「うちの子にちゃんと言っておかないと」

そう聞こえた。


やはり僕のせいだったのだ。

、祖父が連れて行かれたのだ。

僕はきっとこの先ずっとこの十字架を背負っていくのだろう。

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