第21話 熱烈恋愛慕情
水泡を吐き出して向こうから黒馬が駆けて来るのが見えていました。冷徹な深海に私は沈みゆきます。
――こんな世界なんて壊れて仕舞えば良い。
世界を呪い。自身も呪い。何もかもを恨み、そして辛みを泡として吐き出しては、仄暗い水の底へと沈みゆく私。そんな私に手を伸ばす馬に乗った少年。……助けて、と口を開けど出てくるものは音にもならない泡ばかり。伸ばす手は虚しく、深淵の闇へと私は消え去るのです。
○
カツーン!という硬物の当たる不気味な音で目が覚めました。私は「また、あの夢か」と独りごちては窓際に立ち外を眺めます。憂鬱な暗闇が空一面を覆っていました。正確な今の時間は分からずも、外の夜闇は深く、体感にて丑三つ時くらいではないかと感じます。
いま私が居るのはアウラガ府より北西、こんもりした丘の上に建てられた長屋の角部屋にて、カツーンという乾いた音に(この音は何ぞや)と首を捻っております。
「眠れないのですか?」
「ごめんなさい。起こしちゃったね」
月が薄雲から覗かせる。窓からの淡い光を浴びて、隣りのベッドで寝ていたテムルンが目を擦り、妖精が目覚めたかのように伸びをしていました。
「この音はなんですか?」
「石が石壁に当たる音ですわ」
「いし……ですか?」
「ここより南に河を跨いでコデエアラルと呼ばれる河川に囲まれた小さな土地がありますのをご存じ?もともとはキヤトの民が住んでいましたが、私の父イェスゲイが亡くなり、そこの民達はサチャベキという長の決断で、隣国タイチウトへ流れたのは、つい最近の話です」
「それと、この石音と何の関係が?」
「……」
カツーン!という音は鳴り止まず、悶々としながら私は眠れず、月明かりは煌々と闇夜を照らし、とうとう私のミステリー探究魂に火が灯ってしまいました。
そろりとドアに手をかける。「行って見てみますか?」と溜息混じりのテムルンの声。音の主を確かめに夜の
長屋の外は案外あかるく夜光が満ち満ちて、丘から眺むアウラガ府、ズルフの工場は朝とは違い思いの外に小さく見えました。そして、その近隣を流れる大きな川は湖畔のように静かに流れ、その河川は夜空を吸い込んだかのように幻想的に星々の光を跳ね返し、月明かりと共に闇夜を彩ります。
音の方角には松明の明かりがほんのりと浮かび、ぼんやりと人影が揺れる。私はテムルンと手を繋ぎ、意気揚々と探検家気取りで丘を下りました。
○
「今日も無駄に精が出るわね、エアル」
「テムルン様、お言葉を返すようで烏滸がましとは思いますがわ、精を出すのは男の特権、残念ワタシは女。もちろん、アンタの嫌いな馬人のね」
音の主と思われる人は二人。テムルンと言い争う凛々しい馬人の女性と、その後ろで見守るようにして、いがみ合いを眺める偉丈夫。女性には私も覚えがあり、朝の工場見学にて確か、その時もテムルンと言い争っていたかと思います。
「あら、こんな言葉で頬を赤らめるとは
朝の時と同じく、ハキハキと喋る馬人でした。
「恥ずかしんでいるわけではありません。私は怒っているのです。何度言ったら分かるのですか、この子はアチ。馬人ではありません。母ホエルンは人だと言いました。父亡き今、兄テムジンと母の意向はキヤトの意志です」
テムルンにエアルと呼ばれた馬耳をピョコりんと立てた女性は聞く耳を持たず、まさに馬の耳になんとかのご様子で熱心に紙を石に括り付けていました。
その石は目の前に聳える大きな投石機でしょうか?機械に乗せられ夜空を駆けると大きな河川を超え向こう岸へ、更に先へと滑空する石は、眼前の端から端まで連なる大きな石壁に阻まれ、カツーン!と音を弾きました。
紛糾、鬼の形相のテムルンに相対して「やぁやぁ」と声を遮るようにして、エアルさんは私に近づきます。私はドギマギとしながら挨拶をひとつ。
「こんばんは、え〜と、エアルさん……ですよね」
「アチちゃんネ。うん、覚えた。私はエアルでいいわ。バジンですもの。呼び捨てにして」
素早く差し出される手。握手を交わす。その馬人の手は人と異なり皮膚は硬くも、関節は在り節が在る。なんら人と変わらない、ほんのりと温かい血潮を感じました。
「私はコデエアラルで育ったの。何、珍しい事ではないわ。キヤトの馬のほとんどが、あの地で産まれたの。父や母、恋人や兄弟を残してキヤトに行かざるえなかった……ワタシのような馬人は多いのよ。そしてコレがそいつらの気持ち」
そう言って、エアルは手紙の束を見せてくれました。彼女が石に丁寧に括っていた紙の正体は恋文でした。部族が分裂し、生まれ故郷を離れるも、河川を渡れば昔に踏みしめた大地があり、手を伸ばせば愛しい人に届く……そんな距離。目と鼻の先だからこそ、届かぬ思いは辛く、そして重くのしかかる。
「武具を作る過程で余った屑鉄に括って向こう岸にネ。でも、もう一歩ってところで、あの壁に遮られてしまう。まぁ型落ちの投石機だから無理もないんだけど……あぁコイツはオンゴツ。船大工だけど今は武器開発が主かな、あとは石炭運んだりとか……そうそう長屋を作ったのもコイツよ」
「こう見えて手先は器用な方でぃ。俺はオンゴツだ!宜しくな嬢ちゃん」
私の視線は投石機の横の船大工へ。年は三十前後といった感じで、筋骨隆々だが草原を駆ける男性達とは、また何処か雰囲気が異なると感じました。その違いは明確に「こうだ」と打診はできませんが、職人気質ながら軽い様相もある気さくな人柄なことは間違いありません。
「オンゴツも向こう側に恋人がネ……」
「事情は分かっています。しかし、見つけた以上は注意勧告を致しますわ。今は隣国と争うわけにはいかないのです。エアル、オンゴツ、二人とも悪いことは言いません、今日は宿舎に戻りなさい」
「はいはい、わかった。わかりました。エアル様の御心のままに。またネ、アチちゃん。いくよ、オンゴツ」
「うっす」という偉丈夫の声と共に二人は闇の中へと消えていきました。
○
「これが音の正体になります。これで少しは眠れそうですか?」
少し間合いを開けて話し出したテムルンの口調は、何処か憂いを滲ませているようにも感じました。
「はい……テムルン。つかぬことをお聞きしても良いですか?」
「は、はい……」
「テムルンは、エアルが嫌いなの?」
「大好きですわ。昔も……そして今も」
帰り際、丘から眺める夜景は、無限という響きと等しいほどの星々がはためいていました。どこまでも際限のない不毛な大地の広がり、そこにある一粒の人間と馬人の営み。深淵のように深く根付いた蟠りは、私の知らない世界を如実に表しているかのようでした。
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