第8章 守ること - 5

 荒涼とした冷たい風が吹き乱れている。風の音に紛れて、雷鳴にも似た威圧的な咆哮が一点の灼紅スカーレットだけが彩る夜の空に轟いた。

 乾いた地面を踏みしめ、スオウはたった独り、明かりもない荒野を進む。

 既に身体は限界で、息を吸うごとに全身が激痛を発した。一歩踏みしめるたび、身体中の傷口から溢れた血が地面を意味もなく潤した。

 それでもスオウは進んだ。吹き荒ぶ風に抗い、死地を目指した。

 悔いがないと言えば嘘になる。ようやく自分自身の本当の思いに気づくことができた。ようやく生きたいと心の底から思えるようになったのだ。

 欲を言えば成長していく二人を見ていたかった。いつか巣立っていくだろうその日に、思ってもない恨み言を言いながら、大きくなった背中を押してやりたかった。

 だがそう思えたことだけで、再び前を向いて生きようと思えたことだけで、スオウには十分だった。むしろ自分自身、そう思えたことに驚いてすらいる。今ならたぶん、自分の人生を、決して完璧ではなかったにしろ、満ち足りたものだったと思える気がする。

 だからだろうか。死地へ向かうスオウの表情は晴れやかだった。進むのは、己の過去に囚われながら這う道ではなく、未来に希望を託すための道だった。

 やがて吹き荒れる砂嵐に、視界が阻まれる。

 不明瞭な視界のなかで、スオウは見えずとも確かにその存在を感じていた。臓腑を鷲掴みにするような地鳴りと頭蓋の裏を引っ掻くように不気味な気配。

 唐突に砂嵐が晴れた。それどころかあれほど吹き乱れていた風さえもがぴたりと止んでいた。

 その代わり、スオウの両肩に質量を帯びたような重厚な空気が圧し掛かった。

 スオウは立ち止まって顔を上げ、砂嵐が止んだわけではないことを理解する。ここはまさに砂嵐の目とでも言うべき場所で、今もスオウの周囲では遥か空高くにまで砂嵐が乱舞している。

 もちろんその中心に居座る、この嵐の元凶は決まっている。


「……ったく、冗談きついぜ」


 見上げて尚、視界に収まり切らない威容に、スオウは息を呑む。

 無数の脚があった。常識外の巨躯を支える有蹄類を思わせる脚は一本一本が数百年の時を刻んだ大樹のように太く長い。長大な胴体は剥き出しの臓器のようにぬらぬらと光っているにも関わらず、鋼のように硬質であることが分かる不可解な表面をしている。普通の四足動物ならば背にあたる部分からは目視できるだけで三三本の首、あるいは触手が生え、その尖端は例外なく大きく裂けて牙がびっしりと生えた喉を覗かせていた。目算だが、その全高は壁碑アルクスの高さでもある一〇〇メルトーを優に超えているだろう。

 これが〝ギャレットの砂竜〟――一三体のみ確認される、人類最悪の厄災の姿だった。

 生理的嫌悪と根源的恐怖を催させる姿に、スオウは自らの手が震えていることに気づく。

 これを至高だと宣っていたカニングはやはり狂っていたとしか思えない。至高どころか、世界中の醜さを掻き集めて煮込んでも、こうはならないと確信できる。

〝砂竜〟はスオウなど歯牙にもかけず、プルウィアへと向かって進んでいく。

 当然だ。人間とて地べたを這う蟻に気になど留めない。それにおそらく〝砂竜〟には意志のようなものはなく、ただコスタ湾からの東風に乗って届く異見子のフェロモンに吸い寄せられているだけなのだ。

 殺意など欠片もなく、神気取りの差配によって街一つを地図から消滅させる。まさに厄災に相応しい存在だった。

 だがプルウィア市は消させない。ネロとウルが生きる街を、滅ぼさせなどしない。


「唸れ、〈アウストラリス〉――拾伍番・骨喰ほねぐい


 スオウは改めて決意をその身に刻むように呟き、左腕を一振りの大剣へと変化させる。既に熱を孕んだ〈アウストラリス〉は限界が近い。真番まことのばん台はもちろん、通常の形状変化さえそう安易にはできないだろう。揺れる大地を蹴って、スオウは低く飛び出した。

 進撃を阻もうと、脚の一本へと斬りかかる。しかし皮膚は物理的な干渉を阻むように硬く、スオウの斬撃は事もなげに弾かれる。

 ダメージは与えられなかったが、今の斬撃でスオウの存在に気づいたらしく、すぐさま頭上から触手が迫る。スオウは食らいつく触手を大きく飛び退いて躱し、地面すれすれまで下がってきたそれを足場にして一気に駆け上がる。

 間髪入れずに別の触手が迫る。スオウは〈アウストラリス〉を撓らせて触手を打ち据え、空中での機敏な方向転換。迫る触手をいなしながら飛び移り、宙を駆ける。

 スオウの攻性砂流鉄サルガネ〈流浪者アウストラリス〉は過剰帯熱オーバーヒートによって戦略級のオラティコン兵器に匹敵する大規模爆発を引き起こす。この危険性は鉄技士であるホンに再三に渡って注意されてきたことだった。

 だが今はその致命的な脆弱性が唯一の切り札になる。〈アウストラリス〉を〝砂竜〟体内で爆発させること。それだけがスオウの勝利条件だ。

 スオウは空中で身体を捻り、右手側から突進してくる触手を斬り払う。しかし青い血を撒き散らした〝砂竜〟の触手は、オラティコンによる再生阻害をものともせずに即座に再生してしまう。


「――――っぁ!」


 条理を覆す規格外の再生に、ほんの一瞬だけ気を取られたスオウの背を撓る触手が打ち据える。スオウは塵芥同然に吹き飛び、切り立った崖の上に叩き落とされる。

 何事もなかったかのように〝砂竜〟は進撃を続ける。しかし今の一撃で全身の骨がイカれたスオウは立ち上がることすらままならない。拾伍番・骨喰ほねぐいを杖にしてようやく立ち上がり、だが肺に突き刺さった肋骨の激痛に耐えかねて膝をつく。


「――苦戦しているとお見受けする」


 不意に耳朶を打つ芯の通った声とともに、スオウの横に東方装の男が並び立つ。スオウが驚いて目を見開いていると、その男は「いやはや、ひどい砂嵐にござる」などと言って肩についた砂を払いのけていた。


「どうして、てめえがここにいる……」


 スオウに〝砂竜〟を見据えていた劉玄の視線が向けられる。


「アララギ殿。勝ち逃げは卑怯にござる故、貴殿のお役目、某が引き受けに参上した次第」

「てめえ、自分が何言ってんのか、分かってるのか……?」

「当然。既に事情はインマオ殿から聞いている」


 真っ直ぐに向けられた劉玄の目には揺らぎがない。死闘を繰り広げたときと同じ、純粋で愚直な忠心だけが宿っていた。


「ゴズ殿は、某に坊ちゃまを守るよう遺言を残して逝かれた。故に、ここで立たぬは、唯一賜ったその御心に背くことに他ならん。それに、貴殿にはまだ生きて、守り続けねばならないものがあるのであろう?」


 生きて守り続けたいものがある。それは本当だ。だがそれはできないのだ。


「……無理だ。こいつ〈アウストラリス〉は俺にしか使えない。過剰帯熱オーバーヒートの爆発で奴を吹っ飛ばすには、腹のなかで真番まことのばん台を使うしかない」

「アララギ殿、無礼を詫びる」


 劉玄が言うや、二人の間合いに鯉口の切られる哀しげな音が響く。抜く手も見せずに凄まじい剣閃が走り、それは針の穴を通すように正確に、スオウの左肩にある〈アウストラリス〉の接合部を切り裂いた。

 斬り飛ばされた赤銅の左腕が宙を舞い、地面に落ちる。


「てめえ……何しやがる? 〈アウストラリス〉は――」

「案ずるな。熱ならばここにしかとあり申す故」


 スオウの叫びを遮って、劉玄は握った右拳を自らの胸に押し当てる。その人差し指の上で、焔よりも赤い指輪が煌めいた。

 もう一度、剣閃が走る。やはり目で追うことの叶わない神速の一太刀がスオウの首を穿ち、辛うじて繋ぎ止められていた意識のよすがを断ち切った。


「アララギ殿。貴殿は生きよ。其れこそ、勝者にのみ相応しい誉れにござる」


 黒く塗りつぶされていく感覚のなかで、スオウは忠心に生きた男の最期の言葉を聞いた。


   ◇◇◇


 霞んだ視界の真ん中で、〝砂竜〟の触手が乱舞している。劉玄が戦っているのだと、錆びついた歯車のように覚束ない思考の片隅で思った。

 行かなければ。

 劉玄は強い。だがそれでもたった独りで〝砂竜〟を倒せる保証はない。失敗は許されないのだ。

 スオウは地面を這って死地を目指す。その先の、自らが希望と共に吹き飛んだ先の未来を祈るように手を伸ばす。


 グゥウウウウウウウウウウウウウオオオオオオオオオオオオオオオオオオンンン!


 壮絶な咆哮が轟き、地面が砕け散る。スオウと〝砂竜〟の距離はもうだいぶ離れていたが、それでも凄まじい烈風がスオウの顔へと吹き付けた。

 そして――。

〝砂竜〟の胴体から眩い光がこぼれた。

 光は瞬く間に広がり、〝砂竜〟の巨躯を、荒涼とした大地を、空に煌めく灼紅スカーレット彩月ルナを、スオウを、その場に存在しえた遍くを呑み込んでいく。

 遅れてやって来た音は一瞬で消えた。鼓膜が破れたのだとすぐに分かった。

 爆風は感じることすらできなかった。衝撃で身体が千切れたのかもしれないが、もう分からなかった。

 ただ温かな光が満たしていた。

 間もなく、スオウの意識はその光のなかに埋没し、溶けるようにして完全に消えた。

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