第8章 守ること - 4
「止めろぉぉぉっ!」
スオウは祭壇の頂でウルにナイフを突き立てんとするカニングに向けて吼える。しかしその凶行を阻むには、あまりに距離が遠すぎる。頼みの〈アウストラリス〉も間に合わなかった。
まただ――。スオウは食いしばった歯の奥で、自分自身を磨り潰す。
また周囲の人間を巻き込み、傷つける。フィアを喪ったときと同じように。
しかし、スオウの絶叫を掻き消すようにカニングの背後のステンドグラスが砕け散った。
「――――いやああああああああああああああああああああああああああああっ!」
大音声とともに、祭壇へ飛び込んできたのはクレーン車のフック。速度に乗った鋼鉄のかたまりは砲弾のような衝撃でもって祭壇頂上部を破壊。カニングは吹き飛んで中腹まで転がり落ちる。崩れた祭壇の瓦礫がカニングを押し潰した。
祭壇へと再び目を移せば、中ほどで埋まって止まったフックから小さな影が飛び降りる。
「うりゅ――――――――――ぅっ!」
衝撃によって緩んだ拘束から抜け出したウルを抱きかかえたのはネロだった。ネロは勢いを殺しきれず、ウルを抱えたまま祭壇から落ちる。スオウは激痛を押して加速。全身の骨が軋み、傷口からは血が溢れる。地面へと真っ直ぐに墜落しかけた二人をスオウは受け止める。
「すおーっ!」
「しゅおーっ!」
ネロとウルはスオウの胸の上で泣きじゃくっている。二人の身体は小刻みに震えていた。怖かったのだろう。苦しかったのだろう。だがそれでも、ネロもウルも確かに今、スオウの元にいる。
「ったく、てめえら……。馬鹿みてえな無茶苦茶やりやがって」
どんな言葉をかければ正解なのかは分からなかった。
「特にてめえだ。ネロ。勝手に飛び出したかと思えば、勝手に飛び込んできやがって。下手すりゃ死んでるところじゃねえか」
「……すおー、ごめんなしゃいいぃ」
「全くだ。だが、よくやった」
ネロの頭を撫でる。乱れた金髪を頬に貼り付けながら、ネロは泣いて、そして笑う。
「ウル。てめえもだ。勝手に家出なんかしやがって」
「……しゅおー、うぐぁっ、ひぐっ」
「自惚れんじゃねえよ。てめえが一緒にいようがいなかろうが、大した迷惑なんか掛からないんだよ。それくらい、俺がきっちり引き受けて、片付けてやる」
ウルの大きな黒目から涙が溢れる。泣き声はもはや言葉にならず、だが確かな温もりと感謝をスオウの胸に伝えていた。
スオウはネロとウルをきつく抱き締める。もう二度と離してはいけないものだと、その重みを自らの身体に刻み込むようにきつく。
◇◇◇
異見子の男が提案したのは、工場裏に放棄されたままになっていたクレーン車による突撃。安全は保障しないと言われたが、まるで無茶苦茶だ。こうして無事に生きているのは奇跡以外の何ものでもない。
だがその無茶苦茶のおかげで、ウルを取り戻すことができた。飛び込んだネロは詳しい状況を知る由もなかったが、スオウの隠しきれない安堵から九死に一生を得たらしいことは想像ができた。きっとこれもまた、奇跡と言えた。
ネロはスオウの腕に抱かれ、泣きじゃくるウルの頭を撫でながら、ふと背後へと視線を向ける。崩れた祭壇と粉々になったステンドグラスの向こう側――直接見ることはできないけれど、クレーン車の操縦席には青い肌の男が座っている。いや、もう既にあそこにはいないかもしれない。クレーンにしがみついたネロを見届けるや立ち去っているほうが、なんとなくあの男らしいような気もした。
どちらでも構わない。どこかで見ていてくれればそれでいい。
ウルのために、ほんの少し優しい世界を。
祈りは勇気へと変わり、この瞬間確かに動き始めた。
ネロは二人へと回す腕に力を込める。かけがえのないものたちを決して失わぬように、あるいはその手触りを決して忘れてしまわぬように、ぎゅっと力を込めている。
◇◇◇
再会を噛み締める時間はそう長くはなかった。
瓦礫の下敷きになったカニングが血を吐きながら不気味な哄笑を上げたからだ。
「君たちは、実に、めでたいな……もう、間もなく、全ては終わるというのに、……束の間の、再会に、安堵している! くははっ、もう終わりだ、君たちも、プルウィアも、何もかも!」
カニングは腰から下を祭壇の瓦礫に圧し潰されたまま、恍惚とした表情で歪み切った笑みをこぼしている。その様にスオウたちが眉を顰めれば、カニングは血走った眼をスオウへと向けた。
「聞こえないのかっ、この、麗しき咆哮が。砂塵の吹き荒れる、厳めしい轟音が! 〝砂竜〟は目覚めたのだ! この私の手によって、
まさかそんなはずは――。そう一蹴することのできない鬼気迫るカニングの言葉が、スオウたちの不安をにわかに掻き立てた。
「カニング! どういうことだっ? ウルは生きている。てめえの企みは失敗した。なぜ〝砂竜〟がプルウィアを襲うことになる? おいっ!」
不安が喉を突くまま、スオウはカニングを問い詰める。何度もカニングに叫びかけ、応答がないままスオウの肩にそっと手が置かれる。振り返ればインマオが立っていて、首を横に振る。目を見開いたカニングは、まるで全ての目的を果たしたと言わんばかり、既に事切れていた。
「クソっ!」
三人を包んでいた感動の温度は急速に冷めていった。代わりに息すら苦しく思えるような沈黙がスオウたちの肩に圧し掛かった。
だがその沈黙も間もなく、遥か遠くから響き渡る地鳴りと空間ごと揺らすような鈍い咆哮で握り潰されていく。
その意味を、推し量れないスオウたちではなかった。
「参ったわね……。本当にこれで全部終わりなの?」
インマオが誰に問うでもなく息を吐き、祈るように天を仰ぐ。だが漆黒の夜空には、スオウたちを嘲笑うように灼紅(スカーレット)の彩月(ルナ)が煌めいているだけだ。
今頃、街は大騒ぎになっているだろう。プルウィア市から外に出てギャレット荒野を進めるものは少ない。とすればマレフィ海峡を挟んで隣接するフェルゼ八州連合・クロイゼルン市に避難するか、アヴァン大河を下って海へと逃げるのが得策。港湾地区は押し寄せる人でごった返し、持つ者による持たざる者への蹂躙が行われることだろう。
不意にスオウの端末が鳴った。スオウはネロとウルを地面へと下ろし、着信に応じる。相手はオモトだった。
「どうした?」
『どうした、じゃないですよ。先輩! ニュース観てますか?』
「いや、今は野暮用で工業地帯にいる。……〝ギャレットの砂竜〟が出現したんだな?」
『知ってるんですね……』
「たった今、その降臨とやらを阻止し損ねた」
回線の向こう側でオモトが言葉を失い、思わず嘆息するのが分かる。
「それで、状況は把握しているか?」
『ええ。今から五分ほど前、プルウィア市から北西に四〇キロメルトー地点に〝ギャレットの砂竜〟と思われる巨大な〈異貌〉の反応が観測されました。〝砂竜〟は出現と同時に南下を開始、真っ直ぐにプルウィア市へと向かっています』
スオウは一足早く地獄へと落ちていったカニングを見やる。異見子が発した死のフェロモンとやらが〝砂竜〟降臨の引き金であるというこの男の研究は、奴が望んだ最悪のかたちで事実と証明されつつあるということだ。
「警護局と軍の連携はどうなってる?」
『もちろん動いています。ですが、〝砂竜〟の到達までの予測時間がおよそ一〇分。戦略級オラティコン兵器〈
現実はどこまでも残酷だった。だがスオウは諦めてはいなかった。ネロとウルを守るという決意を、ただの決意で終わらせるつもりはなかった。
「戦略級のオラティコン兵器なら、〝砂竜〟を倒せるんだな?」
『ええ、はい。〝砂竜〟の推定質量から計算して、戦略級のオラティコン兵器を〝砂竜〟体内で炸裂させることができれば理論上は撃破可能との見立てです』
「分かった」
『え、分かったって何が……』
「オモト。クソガキ二人のことは頼んだぞ」
『は? え? 先輩、何言って――』
スオウは一方的に通信を切った。もちろん今の会話を聞いただけでは何の理解にも及ばず、ただ状況の絶望具合に打ちひしがれるしかできないインマオたちは首をかしげている。
そんな彼女らを尻目に、スオウは深く息を吐いた。僅かに震える手を固く握り、それからゆっくりと開く。その開いた両手を、足元でスオウを見上げている二人の少女の頭の上にそっと置く。
「ネロ。てめえは上手く立ち回ってるように見えて、実はバカみてえに頑固だ。だが俺は嫌いじゃねえ。自分の正しいと思ったことを貫けばいい。だがな、たぶんそれはけっこう辛い道だ。理解されねえこともある。そんなときにどうしたらいいか、てめえはもう分かってるはずだ。握った拳を開いて、相手に歩み寄れ。たぶんお前にはそれができる。……というか、お前はもうそうやってきてる。ウルも、あと俺も、そんなお前に救われた」
ネロはスオウを見上げていた。その目尻に溜まった涙を、スオウは親指で拭い去ってやる。緑色の綺麗な瞳が不安に揺れていた。スオウは誤魔化すようにわざと乱暴に頭を撫でて、それからウルへと視線を移す。だがやはりウルも、表情に不安を滲ませている。
それもそのはずだ。ウルの黒目に映り込んだスオウは、あまりに悲痛な表情をしていたから。
それでもスオウは縋るような二人の眼差しを振り切らなければならなかった。ネロとウルのため、自分にしかできないことがある。
スオウは一度目を閉じ、再び開く。その束の間の暗闇のなかで自らのうちにある躊躇いを捻じ伏せた。
「ウル。てめえはこれからも迷ったり、躓いたり、心ねえ言葉や行動に傷つけられることがあると思う。傷つくな、とは言わねえ。人として、傷ついて当然だ。だがな、世界の全部が敵じゃないってことを忘れんな。ネロも、オモトやインマオも、必ずてめえの力になって支えてくれる。だからてめえは、そういう奴らが困ったときにきっちり恩返ししてやれ。ここにいる誰もてめえをいなくなればいいなんて思っちゃいねえんだ。お前はもっと、自分とその周りの奴らを信じていい」
思いが伝わったのか、あるいは言外に滲んでしまうスオウの決意を察したのか、ウルはこくと頷く。スオウはネロと同じようにウルの頭を撫でまわし、それから最後に、もう一度二人をその腕に抱き締める。
そして、首筋に軽く手刀を叩きこみ、二人の意識を奪い去った。
「おいおい、アララギ。あんたまさか……」
「俺の〈アウストラリス〉は
スオウは力の抜けた二人の身体を床に横たえる。後ろではインマオが奥歯を強く噛み締めていた。
「取引はもう終わってる。俺が俺の命をどう使おうと、俺の勝手だ」
「まだこの街が滅びると決まったわけじゃない。街中の攻性
「分かってんだろ? 後は頼む」
スオウは全てに背を向け、崩れかけた祭壇へと上っていく。背後から吹き付ける風が髪を揺らして抜けていく。風の行く先には、荒涼とした遥か遠くギャレット荒野が見えていた。
「どうしてそこまでするのよっ!」
インマオの声がスオウの背に追い縋る。祭壇へと上り切ったスオウはインマオたちを振り返る。
「俺がそのクソガキどもの父親だからだ」
にわかに滲んだ景色を振り払い、スオウは独り、死地へと発った。
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