第8章 守ること - 3
「――んんぬっ!」
シュンボが腕に力を込め、最後の檻を破壊する。
なんとか間に合った――ネロは小さく安堵する。敵は今、スオウたちの相手をするのに手一杯になっている。ネロが思いつきで企てる異見子の救出などに関わっている暇ではないのだ。
シュンボが拉げた檻の奥へと手を差し伸べると、顔の右半分から無数の触手を生やした異見子がその手を掴んで姿を現す。左側の表情は怯え切っていて、充血した目が床を撫でるように泳いでいた。
他の異見子も同様だった。誰もが傷つき、怯え、少なくとも味方であるはずのネロたちにさえ戸惑いと恐怖の表情を向けている。オラティコン鋼製の檻が発する磁場の影響を受けていることを差し引いても、常人の身体能力を遥かに凌ぐはずの異見子たちの本来の姿は見る影もなかった。
「けがしてるひとをつれていってあげて! じゅんばんに! みんなたすけるから、じゅんばんにならんで」
比較的背の低い檻の上に立っているネロは声を張り上げ、異見子たちに呼びかける。異見子たちは控えめにネロを見上げ、それから怪訝な表情を地面へと向ける。彼らがネロの呼びかけに応じて動いてくれる気配はなかった。
「みんな、もうだいじょうぶなの! ここからにげられるの! だから――っけほ、けほっ」
埃っぽい空気のなかで叫びすぎたせいだろう。ネロは言葉の途中でむせ返る。
「――生きることを諦めちまってんのさ。こいつらも、俺も」
不意に声がして、ネロはその方向を見やる。真正面、拉げた檻のなかから出てくることもせず、胡座をかいたまま頬杖を突いている壮年くらいの異見子がいた。
全身の肌が青色で、あちこちに不揃いな白の斑点が浮かぶ。両の手足のは太いオラティコン鋼の杭が突き刺さっていたが、表情は涼しげにも見える余裕と理知を称えていて、彼が動けない理由がそれにあるとは思えなかった。
「お嬢ちゃんは綺麗事でこいつらを助けりゃ満足かもしれねえ。だけどよ、ここを出てってどうなる? 異見子にはな、ここも外も変わんねえ。どのみち地獄だ」
男は言い終えるや、諦めたような、あるいはネロを嘲るような、乾き切った笑みを浮かべた。
ネロは首を横に振った。だけどそれは男の言葉に対して反射的に身体が動いただけで、後に続けるべき否定の言葉を持ち合わせてはいなかった。困ったようにシュンボやトンネへと視線を投げたけれど、彼らもまたネロ以上の言葉を持ってなどいない。
それに、借り物の言葉ではダメなような気がした。彼らを助けたいと願ったのは他でもないネロ自身だ。男の言葉は一見投げやりのようにも聞こえるが、それは悲惨な現実の真を捉えている。
言う通りなのだ。市民の反異見子感情が高まっていることは、ネロのような子供にだって分かる。もちろんその世情を差し引いても、このプルウィアに――ひいてはこの社会に、異見子を受け入れるだけの優しさはまだ存在しない。囚われの身から解放されたとして、戻る場所があるわけでも、明日からの生活と安全が保証されるわけでもないのだ。
助けたい。だけどネロのような小さな子供にできることはなかった。
いや、ネロだけではないのだろう。この世界の誰であっても、異見子たちを救うことはできない。ネロに向けられている男の眼差しが雄弁に語るように、誰も彼もが無力だった。
ならばネロのこの行動は、祈りは、無意味なのだろうか。地獄から救い出したように見せかけて再び地獄へと彼らを解き放つことは善意の姿をした悪徳なのだろうか。
ネロには分からなかった。何が正しくて、何が間違っているのか。
だから考えるのを止めた。考えるのを止めて、ただ自らの感性に従うことにした。
「まってて」
頷きながら言ったネロに、男は首を傾げる。
「待つ? 一体何を?」
「すこしだけ。ほんのすこしだけ、せかいがやさしくなるのを、まっててほしいの」
男は笑った。それは無邪気で無垢なネロの言葉を嘲り、侮り、貶める笑いだった。
「待ってれば世界が優しくなるってか? 面白いことを言うね、お嬢ちゃん。純真さも度が過ぎれば罪ってもんだぜ」
小馬鹿にするような表情とは裏腹に、男の声は鋭さを増していく。そして研いだ刀のような声の色に、ネロ気づかされてしまう。この男の言葉は単なる絶望に瀕した個人の言葉ではない。ここにいる異見子たちの、あるいはこの世界に存在する全て異見子の代弁なのだ。
だがそれでよかった。男の胸中で渦巻いている苦痛が、ウルも感じているものであるという事実が、ネロをさらに奮い立たせる。
「まってて」
もう一度言う。今度はほんの少しだけ語気を強め、自らの決意と覚悟を示すように。
「あたしがかえるから。いみごもそうじゃないひとも、みんながなかよくできるように、かえるから」
ただたった一人、大切な妹がもう泣かなくて済むように。ウルが笑顔で過ごせる世界であるように。それがネロの決意だった。
男はもう笑わなかった。ただ不機嫌そうに口角を歪める。
「だからいきて。あきらめるまえに、あとすこしだけでいいから」
「……おかしな奴もいたもんだな」
男は吐き捨て、重い腰をあげる。歪んだ格子に身体が触れないよう、器用に上半身をくねらせながら檻から出るや、俯く異見子たちへ向けて呼びかける。
「お前ら、聞いてたか! このお嬢ちゃんがこのクソったれな世界を変えるとよ! どうせ生きてようが死んでようが同じなんだ。少しばかし付き合ってやってもいいんじゃねえか?」
どれだけ歩み寄り、耳当たりのいい言葉を叫ぼうと、普通人であるネロの言葉は届かなかった。しかし同じ異見子である男の声はしっかりと俯く異見子たちの耳に届き、その暗く沈んだ表情を前へと向けさせた。
きっとどうすればいいのか分からなかっただけなのかもしれない。優しさを知らずに生きてきた彼らにとって、ネロの行動はおよそ人生で初めて受け取る温もりのある感情だった。
「み、みなさんっ、こっちです! 順番に!」
タイミングをみたトンネが声を絞る。臭いによって敵の位置を嗅ぎ分けて進路を調整できるトンネが先導し、ネロがしんがり。いざとなれば戦うことのできるシュンボが前後を行ったり来たりする手筈になっていた。
ゆっくりと異見子たちが動き出していくのを見守りつつ、ネロは再び男へと視線を向ける。それに気づいた男は露骨に嫌そうな顔をしていたが、ネロは構うことなく頭を下げた。
「……感謝なんてすんじゃねえよ。俺は何もしちゃいねえし、このクソったれな世界に希望なんて抱いちゃいねえ。ただ、全部を諦めちまったら死ぬのすら面倒になっただけだ」
男はぶっきらぼうに言う。今はそれでいいと、ネロは思った。
それからネロはより背の高い檻の上へとよじ登り、ぞろぞろと移動していく異見子たちを見回した。もちろんウルを探すためだ。しかしネロがこれだけ目立っているにも関わらず姿を見せないのだから、ウルがここにいないことは間違いないようだった。
「何してる?」
動く気配なくネロと一緒になって異見子たちの移動を眺めている男が訊いた。ネロは意外に思いつつ、自分がここへ来た目的――大切な妹を探しに来たことを手短に話した。
「……なるほどな。お嬢ちゃんの酔狂にもちゃんと理由があるわけか」
男は頷く。
「だがそれならここにはいねえよ。その血の繋がらねえ妹とやらは十中八九で祭壇だ。祭壇に連れて行かれた」
さいだん――。ネロにはいまいち何のことか分からなかったが、それがこの状況下においていい意味でないことは直感的に理解するきとができた。
男はそんなネロの表情を見て何かを察したのか、呆れたように肩をすくめる。
「やめとけ。祭壇には護衛代わりにマフィアがついてる。お前みたいなガキが行ってできることなんて、汚ねえ血をぶち撒けることしかねえよ」
ネロは首を横に振る。もはや何ができるかではないのだ。たとえ何もできなくとも、助けに行かなければだめなのだ。
「さいだんのばしょ、おしえて」
持ちうる限りの意志を込めて。
ネロは男に向けて言った。
男は困ったように眉を寄せ、それから妙案を思いついたとでも言わんばかりに口角を吊り上げる。
「お嬢ちゃんが祭壇に近づきたいなら、一つだけいい手がある。クソったれな檻からクソったれな外に出された借りもあるしな。教えてやってもいいが安全は保証できねえ。何が起きても自己責任で頼むぜ」
粗暴な口調とは裏腹な、ゾッとするほど真剣な声音。
だけどネロに、迷う余地も考える時間も必要はない。
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