第8章 守ること - 2
時は少し遡り――。
ネロは赤銅色の檻が並ぶ部屋のなかを、響き渡る怨嗟と苦鳴、そして蔓延る希死念慮を掻き分けるようにして歩き回っていた。
翡翠のような瞳には焦りと恐ればかりが浮かぶ。囚われた異見子たちから聞こえる声は質量を得たようにネロの小さな肩に圧し掛かり、あるいは手や足へと絡みつき、奮い立たせた心を圧し折ろうとしているかのようだった。
殺してくれ。助けて。苦しい。痛い痛い痛い――。しかしこれらはまだいい方で、悲鳴や苦鳴、獣のものとしか思えない唸り声がそれら言葉を呑み込んで空気を淀ませていく。この場に長く留まっていればいる分だけ、部屋を満たす狂気と怨嗟が骨身へと滲みてしまいそうだった。
だがそれでもネロは檻を一つ一つ覗き込んでいく。澄んだ翡翠色の綺麗な瞳に、濃縮した地獄のような光景を映していく。
ウルを見つけ出す。
その目的のためだけに、ネロは歯を食いしばって地獄の狂気へと身を投じ続けている。
しかしどれだけ探してもウルの姿はなかった。安堵すべきか、あるいは焦るべきなのかすらも分からない。むしろネロはここにいないことを願ってさえいた。辿ってきた臭いが何かの間違いや勘違いであって、今頃ウルは何もなかったような顔で家に戻っている。それが一番幸せな結末に違いないのだ。
「――誰かいるのか?」
部屋を満たす怨嗟に紛れてはっきりと、声が聞こえた。知らない声。調子から察するにまだ若い男のもので、緊張に僅かに上ずっているのが分かる。
ネロは足を止めて息を殺す。身を潜めようにも部屋には積まれた檻が並んでいるばかりでネロの小さい身体ですら隠せるような場所はどこにもない。ネロは耳を澄ますが、響き続ける唸り声のせいで男がどの方向から向かってくるのか――そもそも近づいているのか遠ざかっているのかすら判然としなかった。
胸を叩く鼓動が加速した。掌にはじんわりと嫌な汗が滲む。逃げなければ――そう思って部屋の出入り口を目指そうにも、歩き回ったせいで自分が今この広い部屋のどのあたりに立っていて、どの方向に出入り口があるのかも分からない。
だが必要以上の焦りはない。プルウィアでの路上生活はいつだって危険と隣り合わせ。そんな毎日と比べれば、この状況すら大差はない。
ネロは慎重に前へと足を踏み出す。その瞬間、檻のなかにいた脚のない異見子が背筋力だけで跳び上がり、ネロに向かって突進――檻の格子に阻まれるも衝突の大音声が部屋に響く。
ネロはなんとか悲鳴を呑み込むも転倒。金具によって縫い付けられていた異見子の口が唇を引き千切りながら開かれ、覗く青色の口腔の奥底から歪な金切り声を迸らせた。
「――キィイイイアアアアアアアアッ!」
まずい。
ネロは直感でそう判断。慌てて立ち上がろうとするも足がもつれて前のめりに転倒。地面にうつ伏せになったネロの視線の先に、先ほどの声の主らしい若い男が駆け込んでくる。
男は、そう呼ぶには若すぎる少年だった。金色に染めた髪を逆立て、耳にはいくつもピアスをつけているが面立ちは幼い。たぶん年は一二、三。身体に少し大きいスーツを着ていて、手には不釣り合いに武骨な拳銃を持っている。
おそらくはマフィアの小間使い。そう思いつつも、まだ幼さを残す面立ちに、ネロはほんの一瞬だけ張り詰めていた警戒心を解いてしまう。あるいは恐怖で固まった心が、同じような引き攣った表情で現れた少年を目の当たりにしたことでにわかに弛緩したのだろう。ネロは拳銃が自分に向けて向けられる様子を、床に寝そべったまま眺めていた。
ドン、と銃声が轟く。放たれた銃弾は火花を散らして床を跳ね、格子をすり抜けてネロの隣りの檻のなかへと滑り込む。中で身動きを取れずにいた異見子の肩へと突き刺さり、頭が二つに割れている女の異見子が悲鳴を上げる。
銃声と悲鳴でネロは我に返る。このままでは殺されると、本能的に理解をした。
跳ねるように起き上がり、踵を返す。ネロが照準から外れたことで引き金を引き損ねた少年は一拍遅れてネロを追いかける。
もはやウルを探すどころではなかった。ネロは射線に捉えられないよう小刻みに檻の間を曲がりながら、必死になって少年から逃げた。
しかし少年も逃がすまいと追ってくる。そして子供における数年の年の甲は、如実に体力や知力に比例する。つまりネロがいくら頭を捻りながら逃げようと、少年がその開いた間を詰めるのに、大した労力は必要なかった。
引き金が引かれ、ネロの背後で爆発じみた銃声が轟く。銃弾は全く見当違いな地面にて火花を散らすが、驚きと怯えに足がもつれたネロは転倒。全力で走っていた勢いも相まって床を転がり、背中から檻へと激突する。ぶつかった衝撃でネロの肺からはありったけの空気が絞り出され、情けのない呻き声が漏れた。少年は肩で荒い呼吸をしながら、ネロににじり寄る。
「逃がすかよ……お前、ここで何してる」
少年はネロに銃口を向けながら言う。ネロが答えずにいると――正確には背中の痛みのせいで応えることができずにいると、少年は勝手に納得したように口角を吊り上げる。
「そうか、分かったぞ。お前、侵入者の一味だろ。こんなところで何してるか知らねえが、俺に見つかったのが運の尽きだったな。俺は血も涙もない。女子供だろうと容赦はしねえぜ」
少年は自分自身に言い聞かせるようにそう言った。
ネロはまだ動くことができず、少年はほとんど目と鼻の先に立っている。少年の射撃の腕がそれほど上手くないことは先の二発の発砲からも想像できたが、さすがに動かない的に至近距離で外すほうが難しい。きっと今度こそ逃げらない。少なくとも無事では済まない。
だが、見せつけるように構えられた少年の拳銃が微かに震えているのが見て取れる。きっと口では威圧的なことを言ってみせるが、実際に人を殺した経験など到底ないのだろう。
だからこそ少年が引き金を指にかけるまでに僅かな時間が生じる。そしてその一瞬の隙や彼が抱く緊張感は、背後から近づいていた大きな影に十分な時間を与えた。
「は?」
少年が気づいたときには既に遅く。持っていた拳銃は手刀によって打ち払われ、腹は減り込んだ蹴りにうおって鈍い音を響かせる。前のめりになってむせ返る少年の頸椎に、再びの手刀が見舞われれば、彼の意識は蝋燭の火を消すように吹き飛んだ。
口づけをするように床へと崩れ落ちた少年の向こうには、シュンボがいた。スオウを優に超える巨躯の肩には、ここまで臭いを辿ってきた立役者であるトンネが座っている。
「大丈夫、ですか……?」
シュンボの肩から飛び降りたトンネがネロへと駆け寄る。シュンボは少し体勢を低くして周囲を警戒しながら、床を転がっていた拳銃をあっという間に分解していった。
「お兄さんたちが敵を引きつけてくれている間に、ネロさんの臭いを辿ってきたんです」
「……ふぃ」
安心のあまり変な溜め息が漏れた。ネロはトンネの手を借りてようやく立ち上がる。
「お兄さんたちに任せて、今のうちにここから逃げ――」
言いかけたトンネの言葉を遮るように、ネロは首を横に振った。困惑するトンネをよそに、ネロは傍らに立つシュンボのシャツの袖を引っ張った。
「みんなをたすけてほしいの」
ネロが真っ直ぐに言うと、シュンボは驚いたように目を見開き、トンネもハッとしたように息を呑んだ。
これは単に、子供ゆえの無鉄砲な無邪気さなのかもしれない。困っている人には手を差し伸べるべきで、その善意は掛け値なく尊くて素晴らしいものだと言うような。
だが同時に、これはネロが示す確固たる意志であり、地獄のような世界のなかで絞り出すような祈りでもあった。
大切なウルを守ること。そして
きっとネロたち普通人が異見子である彼らにしてきた仕打ちは決して拭えない。両者の間に横たわる溝は、ネロが跨ぎ越えるにはあまりに深く広すぎる。だがどれだけ困難であろうと、それは向こう岸へと手を伸ばさない理由にはなり得ないのだ。
しかしネロの無垢な願いに、シュンボは背を向ける。
当然だ。ここはあくまで敵の懐。おまけに戦場の真っ只中だ。見ず知らずの――しかも死にかけの異見子たちをわざわざ危険を冒してまで助けなければならない理由はどこにもない。
ネロは肩を落とす。シュンボの言いたいことは正しい。それはネロも分かっている。だけど――。
もう一度縋ろうと、ネロは俯かせた視線を再びシュンボへと向ける。だが背を向いた巨躯は檻へと向かい、木の幹のような太い腕は赤銅色の格子へと伸ばされていた。
「ふーぅっ!!!!」
シュンボは短く鋭く息を吐き、格子を掴む手に力を込める。内と外を堅固に隔てていた赤銅色のそれは飴細工のようにぐにゃりと曲がり、檻には人一人が通れそうな隙間が生まれる。
ネロの表情には花が咲いた。ちらとこちらを見やったシュンボは優しげな眼差しとともに頷いてくれる。
「ありがとう……!」
ネロはシュンボに向かって頭を下げ、シュンボはそれに応えるように隣の檻に手を伸ばした。
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