第6章 街は哭いて - 1
ネロはベッドのなかで考える。
背中越しに聞こえてくる穏やかな寝息に耳を済ませて考える。
擦りむいた膝が痛かった。ぶつけたお尻が痛かった。だけどそれ以上に、胸の奥が痛かった。
容赦なく向けられる悪意。それがまるで正義であるかのように語られる。自分の言葉は相手には決して届かず、大切なものを守ることさえできなかった。いや、守るどころかさらに傷つけ、その身を危険に晒してしまったのだ。
〈異貌〉という怪物たちの因子を受け継いでしまった人々。人よりも遥かに力が強く、みんなから恐れられる存在。
異見子に対して多くの人が抱く気持ちを分からないわけではない。実際、かつてはネロだって異見子に関わるのは危ないと思い、その存在を避けるようにして路上生活を生き延びてきた。
だけどウルと出会った。
いつものように忍び込んだ酒場でスリを働き、手に入れた金でパンを買った帰り道、生臭い裏路地の真ん中で高熱にうなされるウルを見つけたのだ。
普段ならば放っておくところだ。むしろ放っておかねばならない。プルウィアの路上で暮らすということは、怪我や病気をすれば死ぬということだ。ウイルスやらを移される可能性がある。関わるべきではなかった。
しかし通り過ぎる瞬間に、目が合ってしまう。黒目だけの奇妙な瞳はネロを移すや、すぐに逸らされた。すぐに怯えているのだと分かった。
それはネロにとって衝撃だった。
その異見子は、死ぬかもしれない高熱にうなされる状況にあって、大して害もなさそうな通りすがりのネロにさえ怯えなければならないほどに、自分たち普通人によって打ちのめされてきたのだと直感で理解したからだ。
気がつけばネロはウルを背負って歩いていた。「大丈夫だよ」と何度も声を掛けながら、当時既に出入りするようになっていたスオウの家へと向かった。ネロが知る限り、スオウ・アララギは唯一信頼できる大人だった。
真夜中に何度も扉を叩くとスオウは怒鳴り声とともに家から出てきた。ネロを見るや大きな舌打ちをしたが、懸命に事情を話すと中へと入れてくれた。
濡れたタオルでウルの身体を拭き、薬を飲ませ、スオウが作った酷い見た目のリゾッテを食べさせた。夜が明ければスオウは車に乗せて病院へ連れて行ってくれた。ウルの高熱は成長期の異見子にありがちな反応らしく、あのまま放っておけば危なかったとスオウに言われた。
ネロは誇らしかった。ずっと役に立たないと思っていた自分が、誰かの命を救う手助けをできたのだ。ウルの存在は、ネロが生きる希望になった。
それからネロは元気になったウルに、バレないスリの仕方を教えた。ゴミ箱のなかから食べても問題ないものを見分ける方法を教えた。夏の暑さを凌ぎ、冬の寒さに耐える方法を教えた。そしてスオウの家を教え、二人で何度も侵入した。
楽しかった。これまで今日一日、明日一日をどうやって生き延びるかしか考える余裕のなかった生活に、確かな意味が生まれていた。
もう異見子を恐れる気持ちはなかった。少なくともウルは異見子である前にネロの親友で、妹のような存在だった。
きっと憎しみや恐れは未知から生まれる。ウルも、他の異見子も、その人自身を知ってしまえばなんてことないただの人なのだ。
だが世界はまだウルたち異見子に凍てつくような厳しさを与える。
だからこそネロが守らなければいけないと思った。目を閉じれば思い浮かぶ雪原と氷山のように、異見子たちを冷たく拒み続ける世界から、ウルを守らなければいけない。
いつかきっと、ネロとウルが分かり合えたように、多くの普通人の恐怖が解け、異見子たちに刻み付けられた怯えが消え去るときがくると信じて――。
だけどそれは幼稚な思い上がりだったのだと思い知らされた。
ネロはどうしようもなく無力で、度し難いほどに愚かだった。
――てめえが安い正義感でやったことは、そうやってウルをより苦しめるだけなんだよ。
スオウが叫んだ言葉がまだ耳の奥で響いている。
家の扉を壊したときも、窓ガラスを割ったときも、床を踏み抜いたときも、食べ物を盗んだときも、家を火事で吹き飛ばしたときでさえも。スオウは文句こそ言って凄むが怒鳴ったりはしなかった。あれほどスオウを怒らせたという事実が、ネロが犯した間違いの大きさをはっきりと示しているのだ。
これからどうしたらいいのか分からなかった。
詰まるような胸の苦しさを堪えるように、ネロは固く目を瞑り、長い夜を必死に耐え忍ぶ。
◇◇◇
ふと背中のあたりに寒さを感じた気がして、ネロは目を覚ます。
考え込んでいたはずがいつの間にか眠りに落ちていたらしい。
部屋はやけに静かだった。時計の秒針の音が妙に大きく聞こえてきて、ネロの胸のうちを不愉快にざわつかせる。ネロは恐る恐る寝返りを打った。
「……ウル?」
絞り出された震え声に応じる声はない。ほんの少し皺のよったシーツが不安を掻き立てる。
確かに隣りで寝ていたはずのウルの姿は忽然と消えていた。
「ウル? ウル、どこなの……」
ネロは転げ落ちるようにベッドから跳び出し、覚束ない足取りで部屋の明かりを灯す。しかしどこを見渡してもウルの姿はない。
「ウル! ウル! かくれんぼはしないよっ! どこにいるのっ!」
ウルがどこにもいない。部屋はまるで穴が開いたように薄ら寒い。慌てたネロは何もない床で滑って転ぶ。打ちつけた鼻を抑えながら見上げた先に、内鍵の開いた玄関扉が見えた。
ネロの幼い頭でも理解はできた。しかし突き付けられる現実を感情が拒絶した。小さな肩に孤独がまとわりつき、不安がネロを圧し潰そうとしていた。
居ても立っても居られなくなって、ネロは家を飛び出す。靴も履かず、夜の空気に冷えた石畳の上を走る。
「ウル! ウル! ウル!」
叫ぶ声は建物の間を吹く風に呑み込まれて消えていく。やがてウルを呼ぶ声は言葉にすらならなくなり、ただ無力に泣き叫ぶ声が夜のプルウィアに溶けた。
街は不気味なほど人気がない。普段ならば路上で寝起きしているはずの浮浪者や酔っ払いも、異見子排斥のとばっちりを受けぬようにとどこかへ避難しているのだが、そんなことに気を回す余裕はネロにはない。忽然と人が消えた街がウルを奪い去ってしまったような、そんな焦燥だけがネロの心を苛んだ。
「うあああっ、うりゅ、ろこなのぉっ、ねぇえっ! うりゅ――――ひぶっ」
石畳の隙間に躓き、ネロは派手に転んだ。躓いた爪は割れ、肘と膝にできた擦り傷がひりひりと痛む。いつの間にか足の裏はボロボロになっていて、ネロはもう立ち上がることさえできなかった。
ネロはどうしようもなく無力で、度し難いほどに愚かだった。
自分が考え無しの行動で傷つけたせいで、ウルは出て行ってしまった。悔しくて悲しくて寂しくて、身体も心も引き裂かれそうなくらい辛かった。
とうとうネロは地面に座り込んで声を上げて泣いた。それでも街はただ冷たい風を吹かしているだけで、ネロの叫びに応えてくれることはない。
ネロに深い絶望が覆い被さる。そのせいで路地の奥から近づいてくる気配にも気づくことができなかった。
後ろから襟首を乱暴に掴まれ、ネロは強引に立たされる。見上げれば真っ白のコートと覆面をまとった人影が、亡霊のように夜の闇に浮かんでいた。
「此は、神の御子ではありませぬよう」
穏やかな口調とは裏腹に、ネロは突き飛ばされて転ぶ。状況は何一つとして分からず、喉の奥で引き攣った泣き声が漏れる。路地の奥からもう三人、同様の白装束の人影が進み出てきてネロを取り囲んだ。
「隠されし徴があるやもしれないでしょう。顔だけでなく、全身を隈なく確認しなければなりません」
「同志の言う通りだ」
「まずはその見苦しき叫びをあげる口を塞ごうか」
白装束の一人が馬乗りになり、ネロの手足を抑えつけた。泣き叫ぶ口に布か何かを詰め込まれる。
そこで初めて、喪失感と絶望が明確な恐怖に変わった。
「――――っ、――――っ」
ネロはもがいたが大人の腕力に抵抗できるはずもなく、着ていたシャツを力任せに引き裂かれてしまう。白い覆面の奥から覗き込む八つの視線が、ネロの露わになった幼い身体を嬲るように這っていく。
「……やはり神の御子にあらず。どうしようか?」
やがて白装束の一人が言った。他の三人は小さく低く唸りながら顔を見合わせ、それから再びネロの姿態をじろと眺めた。ネロにはもう抵抗する気力さえなかった。絶対的な暴力の前に心は折れ、思考は完全に凍りついていた。
「ともかく誰かに見られては面倒だ」
「とりあえず運ぶほうがいいだろう」
男の一人に髪の毛を掴まれた。引っ張られるまま立ち上がる。しかし次の瞬間、ネロの髪を掴んでいた男の力がふつと緩む。男はたたらを踏み、真っ赤な血の迸る腕を抑えて苦悶に顔を歪めた。
「っっあああああっ!」
「誰だっ!」
残り三人の男たちは緊張感を漂わせ、同じ方向へ白い頭巾を被った顔を向けた。呆けながらも遅れて視線を泳がせたネロは、夜の闇のなかにあってもほのかに銀色を帯びながらこちらへ歩いてくる女の姿を目撃する。
「誰だはこっちの台詞だ、クソども。誰の知り合いだと思って、そのガキに汚ねえ手で触れてるのかしら」
銀色の髪に白い肌。左眼を深紅の眼帯で覆い、縦縞のスーツを着込んでいる。外套は袖を通さず肩にかけただけで、夜風に靡いて揺れていた。手にはまだ仄かに煙を吐く純白の拳銃が握られていて、そこから放たれた銃弾が男の腕を撃ち抜いたのだとネロは漠然と理解した。
「シュンボ。コブ。殺すなよ」
女――インマオが指を鳴らす。刹那、頭上に小さな影が舞い、背後には鈍器のような重厚な殺気が立ち昇った。
あとは何が起きたのか分からなかった。
ほんの二秒と経たずに、残る三人の男たちも地面にキスをするように失神。最初に撃たれた男は何かを喚き散らしながら、走り去っていく。男たちの代わりにネロの周りには、スオウよりも大きな身体のシュンボと、ネロよりも頭一つ分大きいだけのコブが立っていた。
不意に訪れた安堵に全身の力が抜けてしまったネロをインマオが抱きかかえる。ほんの一瞬前まで刃物のような鋭さを帯びていた右眼の眼差しは、とても穏やかにネロを映していた。
「お久しぶり、お嬢さん。事情を聞く前に、新しい御召し物と温かいスープを用意させようかな」
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