第5章 すれ違って、出会って - 4

 スオウの額に滲む大粒の汗が鼻筋を伝い、地面へと滴った。鼓動の音がやけに耳に響き、動かずとも呼吸は僅かに荒い。左腕が波打って蠢くが、かたちは結ばずひたすらに流転を続ける。

 対する劉玄は脇差を中段に構えたまま、真っ直ぐにスオウを見据えている。さっきまでの薄ら笑いこそなかったが、佇まいには余裕が醸されている。

 対峙した二人の沈黙は、既に一〇分も続いていた。

 硬直しているのではない。むしろその逆。スオウも劉玄も激しく自らの気を交錯させ、無数の斬り合いを演じていた。

 大陸東方の大国家、大華たいか人民帝国よりもさらに東。劉玄の故郷であり、スオウの半分のルーツでもある極東の小さな島国、日輪国ひのわに伝わる剣術の流派のなかに、奇妙な奥義を伝えるものがある。

 曰く、道を極めし者同士の立ち合いにおいて、実際に刀を抜く必要はなく。真の強者はただ己の気をもってのみ、相手との斬り合いを演じ、雌雄を決する。

 すなわちただ対峙するだけで、互いの力量を余すことなく理解し、無数に分岐する自らの攻め手と相手の動き――ありとあらゆる立ち合いの流れを想起して決着に至ることを武の極致としているのである。血も流さず、音さえ立てず、そこにはただ己と相手への深い理解だけが存在する。

 その奥義の名を、〝無我空剣むがからつるぎ〟という。

 もちろんスオウにはそんな武術の心得はない。スオウが秀でているのはむしろその逆。ありとあらゆる手段を講じて戦い、その上で相手を完膚なきまでに制圧するための術と言える。あるのは徹底的な蹂躙であって、断じて相手への理解などではない。

 だが今まさにスオウは劉玄とともに〝無我空剣むがからつるぎ〟なる奥義の境地にある。そして張り詰める沈黙のなか劉玄に対峙し、幾度となく攻め、時には守り、そしてその全てで敗北した。

 そう、勝てない。思いつく限りのあらゆる手段を講じて立ち向かっても、スオウの想像は次の瞬間での死を告げる。

 銀座劉玄とは、それほどの男なのだ。


無我空剣むがからつるぎ……。まさかこの地でも、それほどの強者と出会えるたぁ、某は運がいいでござる。しかしながら、これが全てってことはねえのでしょう? 奥の手隠したままで斬り合えるほど、某は甘くないでござるよ」


 刹那、スオウの視界から劉玄が消える。気づいたときには懐に気配。いつの間にか逆手に持ち替えられた脇差がスオウの首筋へ向けて走る。

 スオウはこれに辛うじて反応。脇差と首の間に滑り込ませた〈アウストラリス〉で防御。後ろに跳んで距離を取りながら、流麗にうねる参拾壱番・屠々爪とどそうを乱れ撃つ。

 だが劉玄は撓る刃を的確に脇差の峰で弾いていく。逸れた一撃は地面を抉り、壁を切り裂いた。


「今のに無傷で反応するたぁ流石でござるなぁ。そしてこの返しも的確で隙がない。並みの剣客であれば、今の交錯で勝負が決していたでござる」

「うるせえよ、自慢か?」


 スオウは再び無数の条へと分岐させた〈アウストラリス〉を撓らせて劉玄を襲う。劉玄は機敏なすり足で斬撃を躱し、あるいは逆手に握る脇差で受け流していく。

 劉玄の間合いに入ることは等しく死を意味しているだろう。スオウは大きく展開させた〈アウストラリス〉で距離を保ちながら脳を焼き切る勢いで思考を回し、現状を打開する一手を探す。


「剣士相手に距離を取る戦術はまさしく定石にござる。だがそのような強者はこれまでも多くいました故、――――某には効かぬでござる」


 劉玄の左手に嵌る指輪が赤く閃く。スオウに向けて突き出された左の拳の前に複雑怪奇な円形の紋様が浮かび上がる。

 攻性砂流鉄サルガネにはいくつかの分類が存在する。一つは流体金属の形状変化を存分に活かした武具型アルマ。これはクーリの使っていた攻性砂流鉄サルガネやスオウの〈流浪者アウストラリス〉が該当する。攻性砂流鉄サルガネの最も基本的な型であり、故に実に様々なバリエーションに富んでいる。

 一方、製作も運用も武具型アルマを遥かに凌いで困難だと言われるのが稀少な宝珠型オルナ。派手な形状変化はないものの、例外なく量子圧縮された純度一〇〇パーセントのオラティコン塊石が嵌め込まれており、〈異貌〉避けの護符として使われたり、お伽話の魔法じみたささやかな効果を発揮したりする。

 だが稀に、大業物に数えられる一握りの宝珠型オルナは、摂理を唾棄するような超常現象を生み出す。

 そして劉玄が叫ぶ号は、他ならぬ一握りの例外のそれだった。


「吼えろ、〈レグルス〉!」


 空間を引き千切るかのように、猛り狂う蒼白の劫火が生じた。

 スオウは飛び退き、紙一重で焔を躱す。地面と水平に走る火柱は背にしていた建物の分厚い壁を物ともせず、氷のように一瞬で溶かしてしまう。熱で膨張した空気が逃げ道を求めて吹き荒れ、巻き起こる熱風が劉玄の髪や長着を豪快に揺らす。


「かっかっか! それで避けたつもりであれば甘い!」


 劉玄が高らかに笑い、焔を放出する左拳を横に薙ぐ。まるで空を支配する竜がうねるように、再び焔がスオウへ襲い掛かってくる。焔は石造りの建物を容赦なく焼き払っていく。このままでは街ごと燃やし尽くされない。そう判断したスオウは戦法を変更。〈アウストラリス〉を拾伍番・骨喰ほねぐいへと転じて劉玄に斬りかかる。


「思い切りも良し。判断も早し。多くの修羅場を潜ってきた証拠にござるな」


 劉玄の余裕は崩れない。指輪から迸っていた焔を収め、脇差でスオウの斬撃に応戦。互いの得物の質量差をものともせず、劉玄の脇差がスオウの大剣を払いのける。すかさず劉玄の返す刃がスオウへと迫る。スオウは砂流鉄サルガネの流動性を利用して即座に大剣の位置を移動。眼前で劉玄の刃を受け止める。

 ガキンッ!

 衝撃とともに豪風が突き抜け、殺しきれなかった威力がスオウの骨を軋ませる。圧力に耐えかねた腕の血管から血が噴き出し、踏ん張った地面には亀裂が走る。


「うぉぉぉぉおおおおららららああああっ!」


 スオウは吼え、劉玄を押し返す。劉玄は空中ではらりと身を翻して音もなく着地。二人は再び開いた間合いを挟み、静かに向かい合う。

 夜の街には重い静寂が漂っている。時折、周囲で揺らめく焔が両者の激突を歓迎するようにパチパチと爆ぜる。鮮烈な炎の明かりに切り取られたこの場所そのものが二人の戦いのためだけに用意された舞台のように思えた。

 そして静寂に鋭い亀裂が走るように、劉玄の脇差に罅が入り中ほどで砕け散る。度重なる斬撃の受け流しに加え、スオウの渾身の斬撃と真正面からぶつかり合ったことで薄く鋭い刀身が限界を迎えたのだ。


「ほう……」


 劉玄が驚いた表情を浮かべる。だが追い詰めたというには程遠い。脇差は所詮、二番手の武器。劉玄の真の得物は、焔を生む指輪ですらなく、まだ腰にぶら下がったままの長大な刀に他ならない。


「さすがは〝鬼〟と称される武人。こちらを抜かされるのは、一年半ぶりにござる」


 劉玄の纏う雰囲気の鋭さが数段跳ね上がるのを感じる。ここまで手を抜いていたわけではないだろう。だが長刀に触れてようやく、眠っていた獅子が目覚めたのだ。

 鍔に添えられた左腕が鯉口を切る。白銀の刃が光矢の如く抜き放たれると同時、神速の域に至るほどの苛烈な踏み込み。

 これを予期していたスオウはやはり間合いを維持すべく後ろへと跳び退る。同時に〈アウストラリス〉を参拾壱番・屠々爪とどそうに変化――無数の槍として走らせる。前方一八〇度からの同時攻撃に、劉玄の長刀が躍る。


「そいつは、もう見飽きたぁっ!」


 銀閃が劉玄の周囲を無数に駆け巡る。右腕一本から生み出される視認不可能な刀裁きはスオウの包囲攻撃を物ともせず、その全てを斬り捨ててみせた。

 だがその攻撃は劉玄の視界を塞ぐための陽動に過ぎない。スオウは劉玄への攻撃を展開しつつ、ビルの屋上へと〈アウストラリス〉を伸ばす。その収縮を利用してビル四階相当の高さまでを一気に駆け上っている。

 スオウは〈アウストラリス〉の足場からビルの壁に着地。三角飛びの要領ですぐさま飛び退き、劉玄の頭上へ。

 劉玄の動作は数多の流派が入り混じっている上に達人が赤子に見えるほど洗練されている。とは言え、東方の剣術を基礎としていることに変わりはなく、これらは原則として整えられた道場や決闘場で、真正面から相対した敵に向かうことを前提としている。つまりどこまでも研ぎ澄まされた地面での白兵戦における戦術であり、三次元的な戦場のそれではない。

 故に頭上。それが劉玄にとって唯一死角たり得る場所。


「――参拾壱番・屠々爪とどそう!」


 スオウの左腕が鋭く嘶き、幾条もの槍が降り注ぐ。劉玄は一歩たりとも動くことなく、手にした長刀を振り回して的確に防御。受け流された槍撃が地面の石畳を粉砕していく。スオウは歯を食いしばる。度重なる形状変化に〈アウストラリス〉が熱を帯び始め、左腕には疼痛が走る。


「まだだっ! ……まだなんだよっ!」


 スオウは地面に突き刺さった〈アウストラリス〉を収縮させて加速。激しく波打った赤銅の流体金属が、劉玄の元へ垂直落下していくスオウの左腕へと収束していく。幻肢痛が神経を焼き、脳をかき混ぜた。


「うおおおおおおおおおおお――――真参番まことのさんばん赫々天現羅神かくかくてんげんらしんッ!」


〈アウストラリス〉が四本の腕へと分岐。まるで大鷲が片翼を広げるように骨張った修羅の腕が大きく開かれる。落下と同時に、引き絞った四本腕の力を解き放つ。


「――それが貴殿の切り札にござるか」


 劉玄が獰猛に笑い、続く衝撃があまねく音を、風景を、盛る焔を掻き消した。

 やがて粉塵が晴れていく。浮かび上がるのは重なった二人のもののふの姿。呼吸さえ憚るような静寂に、鮮血の滴る音が微かに響く。


「…………奥義。我流・真っ直ぐに斬る」


 四本の腕の先に形作られた鉾による神速の刺突を全て躱し切り、スオウの懐深くへと踏み込んだ劉玄がそっとガラス玉を置くような静けさで呟く。両手で握った刀はスオウの腹を貫き、赤く濡れた一条の銀が背中を食い破って真っすぐに突き出している。滴る鮮血は、スオウの腹から刃を伝って流れたものだった。


「……なんだ、その、ふざけた奥義は」


 朦朧とした意識のなかで呟くスオウに、劉玄はまるで一瞬前まで殺し合いをしていたとは思えないような軽い調子で表情を歪め、肩を竦める。


「名づけは苦手故。しかし奥義の真髄は、数多の型を突き詰めた先にこそあるもの。故に某の剣に込める名など、この程度が似つかわしくござる」


 スオウの腹から刀を引き抜かれ、スオウは砕けた地面に膝をつく。傷口から噴き出す血は思いの外僅かで、代わりに肉の焦げたような不快な臭気が砂埃に混じって漂った。


「鬼殿、よき戦いでござった」

「……まだ、終わっちゃいねえよ」


 見下ろしながら言い放つ劉玄にスオウは吐き捨て、まだ辛うじて動く右手で砕けた地面の破片を掴む。しかし反応した劉玄にあっけなく手首を踏み抜かれ、関節が歪な悲鳴を上げて砕けた。


「うがっ……」

「最期の最期まで抗うでござるか。その目、よき闘志を宿しておる」


 劉玄の黒い瞳がスオウを映している。そこには興じた戦いへの歓喜と、出会い、間もなく別れることになる強者への敬意が滲む。


「気に入った、強く気高き武人よ」


 劉玄が剛胆に口角を吊り上げると同時、刀が勢いよくスオウの胸を切り裂く。ぐらりと揺れ、天を仰いだスオウの視界の片隅には、赤らんだ黄金スターイエロー彩月ルナが煌めていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る