第6章 街は哭いて - 2

 スオウの朧げな意識が捉えたのは、薄汚れた天井と死んだ蛾のシルエットが無数に浮かぶ蛍光灯。

 地獄にしてはあまりに俗っぽいな、と内心で乾いた笑みを溢す。

 だが続いて鼻孔を撫でた嗅ぎ覚えのある煙草の芳香に、ここがまだ地獄ではないことを理解してスオウは


「よお、アララギ。目覚めたか」


 起き抜けに聞く声としてはワースト3に入るであろう、クソ守銭奴の声に眉を顰める。ゆっくり身体を起こそうとして全身に走った予期せぬ痛みに、スオウは思わず喉の奥で呻いた。


「無理するなよ。生きているのが不思議な重傷だったんだ。おまけに三日も寝ていた。いきなり動かしたら傷口が開くぞ」

「ここは……?」

「私のセーフハウスの一つだよ。生きていることが知られると面倒そうだから、出血大サービスしてやったんだ」

「……助かる」


 スオウはホンの忠告を無視し、強引に身体を起こす。胸には粗い縫合痕が見えた。確かに生きているのが不思議な傷だ。


「傷口が異様に綺麗に切られていたり、患部が焼き切れていたから出血が少なかったのが幸いだったな。それと持ち前の生命力も。ゴキブリと見間違えるところだ」

「丈夫な身体だけが取り柄なもんでな」

「まあ正直、いくら医学を齧っているとは言え、私だけでは手に余る部分も多かったよ。懸命に介抱していたマルマロス女史にも、後で礼を言っておくといい」


 視線を巡らせてマリーンの姿を探すスオウに、ホンが「隣りの部屋で眠っている」と付け加える。

 おそらく責任を感じての行為だろう。今一番大変な目に遭っているのは他でもないマリーン自身なのに、お人好しも度が過ぎる。


「目覚めたついでにね、君に聞かせて置かなくちゃならない知らせが二つあるんだが、悪い方と超悪い方だったら、どっちが聞きたい?」

「嫌な予感しかしねえな」


 スオウは軽くあしらうように言ったが、ホンの険しい表情にそれ以上の言葉を呑む。


「そう茶化すな。真面目な話だ」


 ホンの剣呑な声音に、スオウはただならぬ空気を感じ取る。


「……悪い方から頼む」

「ほう、案外と慎重だな」

「茶化すな。これでも三日寝ていた怪我人だぞ」

「まあいいだろう」


 ホンはゆっくりと紫煙を吐き出す。漂う煙が室内の湿った空気のなかに溶けていった。


「警護局が異見子の取り締まりを始めた」


 あくまで予想の範囲内。しかし状況が刻一刻と悪化しているのは確かだ。

「世論の勢いに加え、カニングの圧力が加わった。もちろん排斥派の市民は暴徒化寸前と言っていい。街が血みどろの地獄になる前に警護局が手を打ったというところだろうが見通しが甘かったと言わざるを得ない。自警団を名乗る暴徒はそこかしこで異見子を駆り出しているし、おまけに降臨祭に向けて流入していたスクラマト教徒と市民の衝突があちこちで続いている。リンチで死者が出るなんていうのはもはや日常茶飯事だ」


 どうやらスオウが眠っている間に市勢は最悪な方向へと舵を切ったらしい。もちろん予兆はあった。だが寸前のところで理性が押し留めていた人間の排他性――もとい凶暴性に、公的機関である警護局がお墨付きを与えてしまった。一度でも導火線に火がついてしまえばもう暴力の奔流を止めることは簡単ではない。

 そしてこの事態はスオウにとっても決して無関係とはいかない。


「ガキどもは無事なのか?」


 まだ痛む身体を無理矢理に乗り出して詰め寄るスオウから、ホンが目を背ける。スオウは全身から血の気が引いていくのが分かった。


「……それが超悪い方の知らせだ」

 ホンが決まり悪そうに告げるや、スオウはホンの胸座を掴み上げる。無論、彼女に怒りをぶちまけることに意味などないことは理解していた。だがそんな理解とは程遠く、爆発した激情を抑えつけることが難しかった。

 ホンもスオウの心中を察するところがあるのだろう。だからこそ彼女は冷静に、塞がったばかりのスオウの腹に掌底を減り込ませた。


「がはっ……てめっ、何をっ」

「少し落ち着け。まだ話している途中だろう」


 ホンはベッドからずり落ちたスオウを見下ろしながら乱れたジャージの襟を正す。


「まだ最悪の事態が確定したわけじゃない。二日前、マルマロス女史が君の仮住まいに訪れた際におチビちゃんたちがいなくなっていることが分かった。とは言え、室内に争った形跡はなく、死体が見つかったわけでもない。念のために確認しておくが、他におチビちゃんたちが身を隠すような場所は――」

「そんなもんはねえ」

「だろうな。……であれば現状は行方不明とみていいだろう」


 とは言え状況が状況なので楽観視はできない。今この瞬間も、ネロとウルに危険が迫っているのかもしれないのだ。

 だが逸るスオウを抑えるように、ホンが言葉を続けた。


「取り締まりと暴動に合わせて、少しきな臭い噂がある」

「噂?」

「ああ。スクラマト教徒が異見子を攫っているという話だ。もちろん大半の異見子には出生登録も市民登録もないから確かな情報はない。保護の名目だろうが、降臨祭が近いこともあって少し不穏な動きだと考えたほうがいいだろうな」


 嫌な予感がした。胸の奥のあたりが不愉快にざわついた。


「とにかく探し出すのが最優先だ。すぐに動けるようにしてくれ」

「何を言い出すかと思えば。ついさっきまで昏睡状態だったんだぞ? そもそも目が覚めたのだって何かの奇跡だ。それに君の強さは私だって知っている。かなり厄介な相手が絡んでることくらい推測できる」


 スオウの脳裏に銀座劉玄の姿が過ぎる。悔しいがまるで歯が立たなかった。それに劉玄の強さにはまだ上がある。文字通り底の知れない強さだった。

 だが相手がどれほど強かろうと、スオウがここで大人しく休んでいる理由にはならない。ネロとウルを助け出さなくてはいけない。

 スオウはベッド脇の机に置いてあった自分の端末を引っ手繰って操作し、殴りつける勢いで画面をホンへと突き付けた。


「聞いてたか? 丁寧に頼んでるわけじゃねえ。拒否権はない。俺は客。そしてこれは一方的な買い物だ、クソ守銭奴」


 ホンはじっくりと提示された額面を眺めたあと、深く溜息を吐く。


「……全くもって心外だよ。腐れ縁とは言え、数少ない友人が死ぬと言ってるのに、金で動くと思っているのか?」


 スオウは端末を提示し続ける。文字通りの全財産。スオウが所有する〈アウストラリス〉以外の全てが金額に換算され、画面の上で光っていた。


「ベッドに寝ろ。薬物投与ドーピングだ。一時的に痛みを和らげる。もちろん非合法だが文句は言うなよ? 私は金で動く。この世の誰の命より、金のほうが重いからな」

「恩に着る」

「着るな。貰うもんは貰うんだ。立場は五分の、単なる商売だ」

「ああ。それでも、恩に着る」


 スオウは眉をしかめるホンに言い、再びベッドへと横たわった。


   ◇◇◇


 ホンの店を後にするや、スオウは端末に溜まっていた着信に折り返す。間抜けな呼出音が三度ほど鳴って、相手が通話に応じた。


『ちょっとあんた今どこに――』

「話がある。面を貸せ」


 開口一番のスオウの不躾な態度に、回線の向こうで通話相手のインマオがわざとらしく深い溜息を吐く。


『面を貸せってねぇ? こっちだってあんたに散々連絡してたんだけど?』

「分かっている。俺もお前に用があるからこうして仕方なく連絡したんだ」


 手段を選んでいる余裕はない。マフィアだろうと悪魔だろうと、二人を見つけ出すためならばどんな手だって借りる必要がある。

 インマオは呆れる内心を露わにするようにもう一度溜息を吐き、それからぶっきらぼうな調子で言う。


『……まあいいわ。それで、今どこなのよ』

「ローザ商店街の入り口だ」

『はいはい、分かったわ。すぐコブを向かわせる。その場にいなさい』


 インマオは何か言いたげな様子だったがそれ以上は言葉を呑み、安堵と苛立ちの入り混じったような複雑な息を三度吐いて荒っぽく通話を切る。耳元で響く不通音はスオウの焦燥を駆り立て続けていた。

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