第5章 すれ違って、出会って - 2

 唯一の出入り口を鬼に塞がれたネブリナは現状を打開する手段でも探して視線を彷徨わせ、そしてすぐにどうにもならないことを悟ったのだろう。ゆっくりと両手を挙げて無抵抗を示す。

 ネブリナ・トゥマーンは六歳のときに両親を異見子に殺されている。調べて意外だったのは、彼女がその後の人生で小さなギャングチームに所属していたことだろう。そのチームは彼女が抜けた後にいくつかの抗争を経て規模を拡大、チームの名前を〈アイゼンスケイル〉と改めていた。

 マリーンの選挙活動を妨害する動機としては十分で、討論会での騒動に繋がるバックグラウンドにも事欠かない。マリーンにとっては最悪の結果だろうが、もはやネブリナの裏切りは厳然たる事実だった。


「……どうして、分かったの?」

「意外か? 悪いが推理を披露する趣味はねえ。ただ過去を少し調べただけだ」

「そう。さすがは凄腕の元警護士ね」


 ネブリナは皮肉じみた笑みを浮かべて肩を竦める。実際に大部分を調べたのはホンだったがスオウは取り合わず、執務室のなかへと入って応接用のソファの背もたれに腰を下ろす。


「そんなに異見子が嫌いか? マルマロスを裏切って殺さなきゃならねえほどに」

「殺そうとするつもりなんてなかった!」


 ネブリナの震えた声が響く。スオウはその声の真意を値踏みする。

〈アイゼンスケイル〉を雇ったのはネブリナで間違いない。だがクーリ・カルバナロについてはまだ分からないことのほうが多い。そして何より、まだ事件の全貌は露わになっていないと――全ては終わっていないとスオウ自身の直感が告げていた。


「たしかに〈アイゼンスケイル〉みたいな半グレ連中ならば単なる脅しで済んだかもしれないな。だが、クーリ・カルバナロは違う。それともあの大男も、あんたの昔の仲間なのか?」

「私は知らない……」

「そんな言い訳が通ると思ってるなら、相当めでたい脳ミソらしいな」

「知らないって言ってるでしょ!」


 ネブリナが行き場のない感情の爆発に任せて声を荒げ、執務机の上を薙ぎ払う。書類や通話機テレフォンなどが勢いよく床に散乱し、大きな音を立てた。


「……脅すだけっていう話だったのよ。そもそも拳銃あんなものを持ち出してくるなんて思ってもなかった。だってマリーンを傷つけたいわけじゃなかった。ただ、考え直してほしかっただけなのに。……本当よ、信じて」


 スオウにはネブリナが嘘を吐いているとは思えなかった。そもそも〈アイゼンスケイル〉との関係を認めたネブリナに、クーリとの関係だけを否定するメリットがない。


「私、これからどうなるの……」

「本来なら警護局に引き渡すのが当然だが、生憎、俺がマルマロスに依頼されたのは犯人の特定までだ。もう警護士でもねえしな。こっからは別料金だ。後はお前らで勝手にやれ」


 スオウが言うと、ネブリナは目を見開く。どうやらスオウの依頼主であるマリーンの意図に、遅ればせながらネブリナも気付いたらしい。

 今回の一件、マリーンの護衛はスオウでなくてはダメだった。

 もちろん警護士でも守護屋でも、クーリや〈アイゼンスケイル〉からマリーンを守り抜くことはできただろう。だが襲撃に対処するだけでは不十分なのだ。

 マリーンの目的は襲撃のその先、犯人を特定して混乱を内密に処理すること。そのために、護衛は高い戦闘力と捜査力を併せ持った個人であり、なおかつ正義感が薄く、社会や他人には無関心であるという条件を満たす必要があった。

 おそらくマリーンは最初から全てをある程度知っていて、その上でこの一件を単なる暴動として処理する腹積もりでいる。

 もちろんそれは市長選の戦略などではなく、裏切ったネブリナを赦すために。

 やがて緩やかに空気が流れ、執務室にマリーンが入ってくる。その姿がどれだけ罵声を浴びせられても毅然としていた政治家の佇まいを微塵も感じさせないほどに弱って見えるのは、撃たれた左肩をギブスで固定し、白い布で腕を吊っていることだけが理由ではないのは明らかだった。


「知っていたんですか……」

「ええ。気づいていました」


 マリーンは静かに告げる。その悲痛を滲ませた言葉は、どんな残忍な刑罰の宣告よりも深く鋭くネブリナの心を抉る。


「ですが確証はなかった。何かの思い違いであってほしかった。まさかリナ、あなたが私に刺客を差し向けるなんて、そんなはずないと。だから予め聞くことができなかったんです。ですがその結果、あなたを試すようなことになり、その上ここまで追い詰めてしまって……本当に、本当に、ごめんなさい」


 マリーンがネブリナをあえて愛称で呼んだのは、女優とマネージャー、あるいは政治家と秘書という関係ではなく、対等な友人としての親しみを込めたかったからに違いない。

 だがもはや友を名乗る資格は自分にはない。そう言わんばかり、真っ直ぐに向けられる親愛から逃げ出すように、ネブリナはマリーンから悲愴に満ちた顔を背ける。


「異見子の権利保証を選挙公約マニュフェストに掲げることを、リナがよく思わないのは分かっていました。でもこれだけはどうしても、譲れないんです。たとえ勝てる見込みが薄くても、他の何を捨てることになっても、死ぬかもしれなくても、譲れないんです。ですが、あなたも同じだということを理解するべきでした。どれだけ綺麗事を重ねても、異見子がリナのご両親を殺したという事実は拭えない。その怒りは消えない」


 マリーンが強く唇を噛む。薄い唇の端から赤い血が流れて顎を伝った。


「どうしてマリーンが謝るんですか。悪いのは私。あなたは何も……」

「いいえ。私の欲張りに、もうあなたを無理に付き合わせるべきではなかった」


 その言葉で、とうとうネブリナは泣き崩れる。もはや喉を裂く声は言葉にはならず、両の瞳からは堰を切ったように涙が流れ出す。

 それを見下ろしていたマリーンはネブリナの小刻みに震える肩に寄り添おうと足を踏み出し、躊躇って動きを止める。やがてマリーンの頬にも涙が伝い、全身から力が失われていくかのようにその場に座り込んだ。

 スオウは黙したまま腕を組み、二人の女が導く答えを待った。



 気持ちのすれ違いが招いた悲劇を悔やんで涙するマリーンたちを傍らに、スオウはある確信を抱いていた。

 あの討論会の襲撃にはもう一枚、何か裏がある。それも二人の女のすれ違いなどではなく、もっと複雑で陰謀めいた何かだ。

 おそらくネブリナは利用されたのだろう。彼女の痛々しい過去と切実な思いを隠れ蓑に、本当にマリーンを消そうとした人間がいる。

 だが肝心な、それが誰かについて考えは全く及ばなかった。

 マリーンが市長選から降りることで最も得をするのは間違いなく対立候補のカニングだ。だがマリーンが市長選から降りるまでもなく、カニングの勝利は堅い。カニングが気をつけなければならないのはマリーンの動向などではなく、自らの陣営のつまらぬ粗相のほうだろう。

 だとすれば、より過激な異見子排斥団体だろうか。

 だが現状ではこれ以上、いくら推論を重ねても憶測の域を出ない。


「自首、ですか……」


 マリーンの痛々しい呟きがスオウの耳朶を打った。


「思えば出会ったときも私は罪を犯していましたから。過去に犯してきた全てを、清算しなければいけないときなんだと思います」


 ネブリナは執務机に手を突きながらゆっくりと立ち上がる。ひとしきり感情を吐き出したおかげか、さっきまで恐怖と後悔に歪んでいた表情は険がとれ、いくらか穏やかに見えた。


「本当に、最後の最後までご迷惑をかけてすいません。マリーン、私はあなたに出会って救われました。本当にありゅば――」


 ネブリナの言葉は不自然に途切れ、身体が大きく痙攣した。同時に彼女の背後の窓が粉々に砕け散る。後頭部から頭蓋を砕き、内側で跳弾して脳をシェイクした弾丸が、ネブリナの左の眼窩から飛び出して落ちる。前のめりになって倒れたネブリナの後頭部に、ぬらぬらと光る脳が、真っ赤な花を咲かせている。


「――伏せろ!」

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