第5章 すれ違って、出会って - 1

 一体どこで間違えたのだろう。

 こんなはずではなかったという感情だけが延々と頭のなかを巡っている。

 傷つけるつもりはなかった。ただ討論会を台無しにして、ほんの少し脅すだけのはずだった。異見子いみごなんて擁護すべきじゃないと、そう思い直してもらえればそれでよかった。

 あるところ――共和国南部の街・トゥリパに暮らす家族がいた。父は小さな出版社に勤め、母は専業主婦。一人娘がいて、休日には車に乗って郊外の自然公園に足を延ばして家族三人でピクニックをしたりする。特別に裕福でもないけれど貧しくもない。どこにでもある家族だった。

 ささやかな幸せはいつまでも続くと思っていた。

 父と母は娘の成長を見守りながら穏やかな日々を過ごして年老いていく。娘は進学や就職をしながら色々なことを感じ、色々なことを学び、やがて両親の元を離れていく。いつの日か、娘は愛する人を両親に紹介し、両親が注いでくれた愛を自らの子供へと伝えていく。

 そんな未来があるはずだと、思っていた。

 だがささやかな幸せは、些細な悲劇によって掻き消える。

 何でもない一日の終わり、家に強盗がやってきたのだ。物音に気づいて起きた父と母は殴り殺され、目ぼしい金品は根こそぎ奪われた。二階で寝ていた娘は朝になって蹂躙された幸せの残骸を目の当たりにすることになる。

 娘はまだ六歳だった。

 ほどなくして強盗は捕まる。犯人は娘とそう年も変わらない異見子。昆虫みたいに無機質な目をした緑色の皮膚の少年と、両腕の代わりにもう二本の脚を生やした毛深い少年の犯行だった。

 娘は異見子を恐れた。そして同時に憎んだ。

 身寄りのない娘は市が経営する児童施設に預けられることになった。だが娘に両親と過ごしていたときの無垢な笑顔はなく、その幼い顔には剥き出しになったやり場のない怒りだけが満ちていた。

 心に負った傷が癒えることはなかった。黒い感情は絶えず燻ぶり続けていた。

 やがて一五歳の少女になって、娘は施設を出ることになった。単なる規則だ。施設での庇護を必要としている子供は多かった。

 そんな多くの子供たちの例に漏れず、少女に施設を出たあとの行き場はなかった。若さを売ることもできたけれどそうはしなかった。途方に暮れ、飢えに耐えかねて雑草を貪っていると同じ年代の少年に声を掛けられた。話を聞けば、同じ施設の出身で、年は二つ上だと分かった。日が暮れて、また日が昇るまで話し込んだあと、少女はすっかりこの少年のことを信用していた。

 少女は少年が属する街のギャングチームに入った。チームのなかには娼婦や美人局として働いている子も多くいたが、少女は断った。綺麗なネグリジェの代わりにボロのシャツを着て、アクセサリーの代わりにバールを担いで、男たちに混ざって街を荒らして回った。

 皮肉な話だ。強盗によって全てを失った少女は、今や生きるために強奪を繰り返していた。

 抵抗してきた相手を殴り殺すこともあった。罪の意識はなかった。ようやく手に入れた、怒りと憎しみの発散方法だった。バールを振り回して暴れていると、もう自分が奪われる側ではなく奪う側なのだという安堵が訪れ、胸の内にある恐怖も和らいだ。

 あるとき、仲間の一人が街の中心部にあるモーテルに売れっ子の若手女優が宿泊しているという情報を仕入れてきた。

 このころのチームはより名を上げる機会を欲していた。そんな状況で著名人の宿泊は絶好の機会と言える。少女たちは迷わず大物取りを計画した。

 雨が強く降っている日だった。雨は匂いや足跡などの痕跡を都合よく掻き消してくれる。少女たちは自分たちの行いが天から祝福されているとさえ思った。

 だけど少女たちは失敗した。モーテルに踏み込むや、雇われていた守護屋の連中によって返り討ちに遭い、引き際を見誤って逃げ遅れた少女は瞬く間に取り押さえられてしまう。


「あの、お願いがあるんです」


 埃っぽい地面に頬を押し付けられながら、声の方向を見上げる。視界の隅にヘレアック人特有の綺麗な銀髪が見えた。


「明日一日、私の観光ガイドをして頂けませんか?」

「あ? 何言ってんだお前? 頭イカレてんのか?」


 少女が暴言を吐く。より強い力で守護屋に抑えつけられ、頭蓋骨がミシと軋んだ。


「……変なのは分かってるんですけど、何というか、年の近い女の子と回ったほうが楽しそうかなって思いまして。明日は撮影もお休みなんです」


 結論から言うと、少女はその若手女優の申し出を断らなかった。いや正確には断れなかった。警護局に通報されればチームが壊滅する状況で、目を離すのは得策ではない。何よりこの女の意図が分からない。だから意図を探り、もしこちらの身が危うくなったら殺して逃げることにして、表面上は従順に従うことに決めた。

 だがショッピングや博物館や観光名所巡りなどを一通りこなしても、女は無邪気に楽しんでいるだけで目的は分からなかった。

 結局、最後の最後、街の中心にある展望塔から夕陽を望むタイミングになって、少女はヘレアック女を問いただした。


「一体どういうつもりなんだ、お前」


 掴みかかるような勢いで詰め寄った少女に、女優のヘレアック人は表情一つ変えなかった。


「私は小さい頃から俳優の仕事をしてきました。いわゆる子役というやつですね。なので、貴女のような年の近い友人がいないんです。なので一度、一緒にショッピングをしたり、甘いものを食べたり、そういうのしてみたかったんです」

「……贅沢な悩みだな」

「贅沢、ですか……」

「ああ、虫唾が走るね」


 少女はありったけの嫌悪を滲ませて、そう吐き捨てた。

 よくは知らないが、まともな仕事があって金も教養だってある。六歳で天涯孤独となった少女にもそんな風に気の置ける友人などいなかったが、その生活には天と地よりも大きな隔たりがある。生きていく上で不自由しないくらいのものを持っている。

 それなのにこの女は、それ以上の何かを望むというのだ。贅沢でなくて何だというのだろう。


「そうかもしれませんね。でも欲張ることは悪いことなんでしょうか?」

「あ?」


 少女は女を睨みつけた。西の空から降り注ぐ夕陽に照らされて、色素の薄い女の髪が黄金色に輝いていた。


「だってたった一度きりの人生です。短い人生でできることなんて、限られているんです。だからもう後悔するようなことはしたくないじゃないですか」


 女は少女に詰め寄った。吐息が頬に触れるのではないかという距離で、女の淡紫色の双眸が少女を真っ直ぐに見据えていた。


「貴女は何を欲張りますか? 貴女は今日一日、私の欲張りを叶えてくれました。友人として、次は私が貴女の欲張りを叶えます」


 少女は女を狂っていると思った。だけど同時に、面白いとも思っていた。こんな感覚は生まれて初めてだった。


「……仕事をくれ。できればもう、人から奪ったり、殴ったりしないやつ」

「分かりました。ちょうどマネージャーの席に空きがあるので、事務所に認めさせましょう」


 女は少女に深く頭を下げ、それから両手でそっと少女の手を握った。


「私の名前はマリーン・マルマロス。改めて、これからよろしくお願いします」


 真っ直ぐに向けられた笑顔に、少女は顔を背けた。しかしもう、彼女を殺して逃げようなどという物騒な思惑は少女のなかから消え失せていた。



 そこまで過去を思い出して、考えるのを止めた。

 これ以上は涙が溢れ、全身に力が入らなくなってしまいそうだった。

 全ては長く儚い夢だった。そしてもう夢は終わった。それだけだ。

 すっかり大人になった娘は間違えた。過去に犯した罪に付け込まれ、あるいはまだ完全には癒え切っていなかった黒い感情を刺激され、恩人を蹴落とす片棒を担ぐことになった。それはあまりに軽率で、そして致命的な間違いで、恩人の心も身体も傷つけるという結末を招いてしまった。

 誰もいない事務所のなかで、涙を拭う。電気はついておらず真っ暗だったが、長い間過ごしてきた場所だ。目を瞑っていたってどこに何があるか分かった。引き出しに仕舞いこんであった辞表を取り出し、奥にあるマリーンの執務室へと入る。綺麗に片付けられた机の上に、そっと辞表を置く。

 これで、お別れだ。


「辞めて逃げるつもりか?」


 背後から声が聞こえた。振り返ると同時、事務所の明かりが一斉に灯る。眇められた視界のなかで、少しずつ相手のシルエットが明確になっていく。


「スオウ・アララギ……」


 この男の登場は計算外の出来事の一つだった。確かにあの公開討論会でこの男がいなければ、マリーンはもっと危険に晒されていただろう。武装したかつての仲間を止めることのできる人間は、あの場には他にいなかった。

 スオウは壁に寄り掛かり、憐れむような視線をこちらに向けている。赤銅の金属でできた左手で顎髭に触れてみせるのは、いかなる抵抗も無駄だと言外に告げるためだろう。


「あんたには聞きたいことが山ほどある。だがまずは、懺悔と弁明から聞いてやろう。ネブリナ・トゥマーン」

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