第3章 言葉の刃と鉄の礫 - 2

「ほわー……」

「ほへー……」

「………………」


 スオウたちはマリーンの番組出演後、本人によって直々に案内された家の前で唖然としていた。


「なあ、マルマロスさんよ。俺、言ったよな? 普通の狭い部屋でいいって」

「ええ。ですから市内で私が持っている物件で、一番狭い部屋を選びました」

「へぇ……」


 返す言葉もない。

 スオウは護衛の仕事を引き受けるにあたり、一つの条件を提示していた。それは、スオウはもちろん、ネロとウルの三人が横になれるくらいの広さの寝床の提供。即答で快諾された上、連れて行かれたのがプルウィア市東部のイヴェーナ区だったのでやや不安は覚えていたものの、まさか元大女優の感覚がこうも庶民とかけ離れているとは露ほども思いつかなかった。

 螺旋階段によって二階に設けられた玄関から直接広いリビングに繋がるのはヘレアック人の伝統住居であるカルニチア建築の典型。だが玄関から向かいの壁まで優に五〇メルトーはあるそれは、部屋というよりももはや室内運動場だ。家具についてもアンティークとして名高い後期アンガルシア様式の高級品が揃えられていて、あろうことか壁には二〇〇インチルの巨大な最新式の薄型放映器テレビが埋め込まれている。おまけにトイレと洗面所に繋がる扉以外で見える限りで四つの扉と一つの階段があり、それぞれはまた別の部屋へと通じているようだった。


「パパラッチ避けのセーフハウスとして使っていたのですが、女優業を止めてからは物置同然の扱いでしたので。一応、片付けて使えるようにしたのはリビングだけで、それ以外の部屋にはまだ荷物が残っていて施錠してあり――」

「十分だ。もういい」


 スオウはかぶりを振って、マリーンの言葉を遮った。

 これまでもボロ屋とは言え、それなりの大きさの一軒家に住んでいたつもりだったが、これを物置だと言うマリーンの生活感は何もかもが規格外だ。

 ついさっきの討論番組ではマリーンの人権思想に感服したつもりだったが、こんな市長候補に庶民の気持ちが分かるのだろうかと不安になってくる。


「家具などは、必要最低限揃えていますが、もし不足があれば言ってください。すぐにネブリナに手配させますので」

「ああ、そうかい」

 スオウは生返事をして溜息を吐く。マリーンは最低限と言うが、大きすぎる放映器テレビも、異様に凝った装飾の間接照明を始めとする高級家具たちも、どう考えても一流ホテルのスイート並みの部屋だ。もう真面目に取り合うのが馬鹿らしくなってくる。

 スオウは静かになったネロとウルに視線を落とし、その頭の上に分厚い掌を置く。


「いいか、お前ら。しばらくの間、ここに住んでいいことになった。疲れてるだろうからもう静かに休んで――」

「すっごい! おしろみたい!」

「すっげえです! ちょーひれえです!」

「喜んで頂けて何よりです」


 部屋の奥に設置されているベッドのほうへ進んだマリーンがネロとウルに手招きをする。二人は戸惑いつつもマリーンに駆け寄り、広げられた両腕に受け止められた。


「母親面が様になるな」


 スオウはとてつもなく不快そうなネブリナを横目に部屋のなかへと進み、精緻な草木の意匠が彫り込まれている椅子に腰を下ろす。広すぎる部屋というのはどうにも落ち着かない。


「演じたことだって何度もありますから」


 そう微笑んだマリーンの横顔はどこか寂しげな感情を湛えていたような気がしたが、名女優の表情の意味など推し量るだけ無意味だ。代わりにスオウは肩を竦める。


「だったら引き取ってくれよ。うるせえし、うぜえしで敵わねえ」

「〝鬼のスオウ〟も、子供の元気には敵いませんか」


 マルマロスが冗談めかす。玄関に立ったままのネブリナがより一層の不愉快を眉間に刻んでスオウを睨んでいた。


「お前のような奴と同居する彼女らの身には同情するが、マルマロスさんは忙しい」

「同居じゃねえな。付き纏われてるんだ」

「アララギさんは、素直ではありませんね」


 そう言って二人の頭の撫でるマリーンの言葉を、スオウは渇いた笑みで一蹴した。

 別にスオウはネロたちと好んで生活を共にしているわけではない。あのクソガキども二人が勝手にスオウに付き纏い、図々しく家に入り浸っているだけなのだ。得た報酬金で飯を食わせ、風呂や寝床は貸し出してやっているがそれだけだ。本来通うべき学校の手配や、情操教育の一つだってしてやるつもりはない。迷惑だと叫びながら、実力行使で追い出したりしないのは単に面倒くさいからで、近所で野垂れ死んだりされても後味が悪いから。身寄りのない彼女らの境遇に憐憫を向けているわけでも、まして家族的な感情を抱いているわけでもない。

 そしてネロもウルも、スオウが何もしないのと同じように、スオウには何も期待していないはずだ。都合がいいだけ。例えば郭公や鶯が、他の親鳥を利用して育つように。ネロもウルも、独りで生きる術を身に着けた暁には、あるいはただ単に飽きたり他に使える家が見つかれば、スオウの元から消えていくに違いないのだ。

 三人はただそれだけの関係で、そこに絆や愛は存在しない。

 改めて認識した事実に、寂しさなどは感じない。

 賞金稼ぎなどというアングラな仕事を生業にしている以上、スオウはそう遠くない未来、必ず死ぬ。決して悲観的なのではなく、むしろそれはスオウ自身が望む結末だ。そしてその瞬間、生き切った最期の刹那、このクソみたいな世界に遺す未練はあるべきではない。


「マルマロスさん、次の取材の時間が」

「あら、もうそんな時間? もう少し、彼女たちを見ていたかったのだけれど……。アララギさん、ここで失礼します」


 マリーンはネロとウルの額にキスをする。それからスオウに小さく会釈をして扉へと向かう。去り際には律義に、ネブリナが恨み言を吐いていく。


「正式な仕事は明日から。指定した時間と場所は把握してるわね? これだけのものを用意していただいたんだから、その分はきっちりと働いてもらうわ。覚悟しておきなさい」

「気が乗らねえな。ここまで清々しい親切の押し売りってやつ、俺は初めて見たよ」


 やはり頼る相手を間違えたのだろうか、とスオウは考え、もはや後戻りはできないだろう現実から目を背けるように溜息を吐いた。


   ◇◇◇


 翌朝、泥のように眠っているネロとウルを起こさないように、スオウは家を出る。愛車のペトロ七〇〇〇を走らせて向かったのはイヴェーナ区内にある市営のホール。指定された時間ぴったりに到着し、バックヤードへと回った。


「おはようございます」


 控室に入ったスオウに、化粧を施されている最中だったマリーンが鏡越しに挨拶をする。白のセットアップ。胸には彼女のイメージカラーでもある淡紫色のブローチが光っている。

 スオウの突然の入室に困惑するスタッフたちを無視してソファに腰かけると、マリーンは全員に退出するよう促す。控室は二人きりになった。


「あの高慢な女マネージャーはどうした?」

「彼女は今、主催者側と討論会の段取りと会場の警備の最終確認をしてくれています。このあとリハーサルです」

「そうか」


 プルウィア市の市長選にはメディア出演や街頭演説など候補者個人の地道な選挙活動の他に、市内各地で行われる公開討論会という重要なファクターがある。むしろ勝敗を決する要素としてはこれが圧倒的な重要度を占めると言っていいのかもしれない。対立候補と政治論争を繰り広げるこれで優位に立つことができれば、その分だけ市民の支持を得ることができるというわけだ。

 そしてこの公開討論会には毎回、数千人規模の市民が集まる。加えて言えば壇上に立っている間、候補者は市民に対して無防備を晒すことになる。もし自分が暗殺者ならば間違いなくこの討論会を狙うだろう。

 今日の公開討論会は、マリーンを市長選から退場させたい何者かにとって絶好の機会なのだ。


「それで、わざわざこんな早くに俺を呼びつけたってことは、依頼の中身について話す気になったと考えていいんだな?」


 マリーンは頷き、自らのハンドバッグから取り出した紙片を広げ、スオウへと手渡す。


「脅迫状か」


 スオウは印字された文章に視線を落とした。文句は単純で〝異見子を擁護する一切の主張を取り消さなければ殺す〟という内容のものが、幼稚な罵詈雑言とともに並べ立てられている。


「この程度は女優をやっていたときからありふれたものなので、正直気にするほどのことではないんです。ですが少し引っ掛かる部分がありまして」


 マリーンは脅迫文の冒頭を指し示す。


「これはヘレアックの古い印象文字で〝敬愛〟を意味するもので、かつては恋人や家族などの親しい間柄で使われていました。ですがオルデン言語においては〈ダイタロシアの碑文〉に登場する〈原初の異貌〉の姿に似ていることを理由に忌避される文字でもあります。なので現在ではヘレアック人同士の文書のやり取りであっても、まず使われることはありません」

「普通なら随分と機知に富んだ痛烈な皮肉ってところだろうが、そういうわけでもなさそうだな」


 スオウの指摘にマリーンは頷く。


「本来、ヘレアック人は非常に選民的な思想を持つ、ある意味で閉鎖的な民族です。この〝敬愛〟なども身内、それも親しい人物にしか宛てません。外部の人間に形式的に宛てる同様の意味を持つ印象文字はまた別にあるんです。つまり――」

「身内――それも選挙陣営のなかに脅迫状の送り主がいるって言いたいんだな」


 今度は頷かず、代わりにマリーンは辛そうに俯いた。

 スオウには徐々にマリーンの思惑が読めてきていた。警護局や守護屋などを使わず、賞金稼ぎのスオウを直々に雇い入れた意味。この話をするにあたり、スタッフを退出させた意図。だが全てがクリアになったわけではない。

 スオウは気怠そうに溜息を吐き、後頭部を掻く。マリーンの淡紫の瞳が不安そうに揺れた。


「安心しろ。もらった報酬分の働きはする。それにどんな経緯であれ、一度受けちまった仕事は途中で投げ出したりしない」

「どこへ?」

「会場を実際に見ておく。用心のため、食べ物や飲み物は口にするな」


 そう言ってスオウは立ち上がり、脅迫状をマリーンへと突き返す。想像通りの厄介な仕事にスオウはもう一度溜息を吐き、控室を後にした。

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