第3章 言葉の刃と鉄の礫 - 3

 客席では絶え間ないシュプレヒコールが続いている。壇上には怒号とともにゴミが投げ込まれ、進行を担う話芸士コメディアンも引き攣った笑みを浮かべざるを得ないようだった。

 もちろん飛び交う罵詈雑言のほとんどは異見子と彼らを擁護するマリーンへ向けられるものだ。


「随分と嫌われたもんだな」

「ええ、本当に」


 ネブリナはスオウをすごい剣幕で睨んでいたが、マリーンがすぐに笑顔で冗談めかしていたので、噛みつく機会を逸していた。

 スオウたちは間もなくやってくる登壇に備え、舞台袖から会場の様子を覗いている。会場を満たす煮えた油のような嫌な熱気は、今回の市長選に対する市民の関心の高さを伺わせた。やはりウェルス前市長の人気が高かったこと、そして異見子への嫌悪感が根強いことを意味しているのだろう。


「なあ、一ついいか?」

「何でしょうか?」

「どうしてあんたは異見子擁護に固執するんだ? この状況下だ。大して政治に詳しくない俺から見たって、今回の選挙で異見子擁護なんて口にすれば叩かれることくらい分かる。見たところ、あんたは馬鹿じゃない。もっと上手く立ち回れる方法があるんじゃないか?」


 スオウはマリーンの横顔に問う。彼女は群衆のなかで躍る、異見子への罵倒と憎悪を書き連ねたプラカードを真っ直ぐに見つめている。


「そうかもしれません。いえ、その通りでしょう。市長になるだけなら、もっと他に賢い立ち回り方はあるのでしょう。でもこれは私の勝手な都合なんです。貴方が一度やると決めた仕事はおざなりにしないと、自らにルールを課しているのと同様に、これは私が自分に課したルールなのです。もう、目を背けてはダメなんです」


 意味はよく分からなかった。だがマリーンが抱く決意だけは鮮烈に、スオウにも伝わった。


「そうか」


 間もなく前座が終わり、話芸士コメディアンがマリーンの名前を呼ぶ。シュプレヒコールは最高潮に達し、激しい罵声が波濤ように押し寄せている。


「マリーン……」


 ネブリナが不安そうな表情でマリーンを呼び止める。マリーンは振り返ることなく、前を向いたまま足を止めた。


「リナ。映画『砂の王』の舞台挨拶を覚えていますか?」

「もちろんです」

「あのときも、上映日直前に主演俳優が麻薬で捕まって、ひどいバッシングのなかで上映が始まりました。でも乗り越えられた。私たちなら大丈夫。――それでは、行ってきます」


 マリーンは降り注ぐスポットライトの下に踏み出していく。会場に充満する淀んだ熱がさらにボルテージを上げていく。マリーンは気圧されずにステージを進み、壇上の中央でマイクを取った。


「ここまで劣勢だと、敵ながら同情を抱くよ」


 入れ違うように聞こえた声に振り返れば、黒服の護衛に囲まれた老人が薄ら笑いを浮かべていた。


「ジョル・カニング」

「久しいな、アララギくん。マルマロス女史の陣営が凄腕の用心棒を雇ったと噂には聞いてたが、まさか君とはね」


 撫で付けた淡い金髪と丁寧に整えられた口髭。琥珀色の瞳は知性を漂わせるだけで、感情の色はない。謹厳に鍛え上げられたことが分かる分厚い体躯を上等そうな濃茶色のスーツで包んでいる。

 マリーンが盤上で民と手を取り合って共に歩もうとする政治家ならば、この男はその真逆――高いところから常に指し手であろうとするような、ある種のカリスマを備えた政治家と言えるだろう。

 それがジョル・カニング。警護局のОBにしてマリーンの対立候補であり、この市長選の大本命である。

 そのカニングを、ネブリナが睨む。スオウのときとは違って言葉こそ丁寧だが、嫌悪に満ちる尖った表情は相変わらずだった。


「……公開討論会に遅れて来るなんて前代未聞ですよ。カニング候補」

「申し訳ない。だが私のスピーチはまだのようだし、辛うじてセーフだと見逃してほしいものだね。これでも忙しい身なのだよ。それと、もう候補ではなく、カニング次期市長とでも呼ぶといい。君たちには悪いが、君たちは戦略を誤った。私の勝利は揺らがない」


 特に悪びれることもなくネブリナをあしらって、カニングは自らの黄色いネクタイを整える。右の小指に嵌められた、何かの獣の意匠らしい金色の指輪が光る。


「それにしても、君が政治的なものに関わるとはね。そういうのは嫌いだと思っていた」

「こっちにも色々事情があってな。だが俺からすれば、あんたみたいなエリート志向のいけ好かない元警護局官僚が、こんな辺境の掃き溜めみたいな街で政治ごっこしようってほうが不思議だよ。市長選の公示にあんたの名前を見つけたときは驚いたもんだ」


 スオウはてきとうに嫌味を返しておく。だがカニングの余裕の笑みは揺らがない。一介の賞金稼ぎの皮肉など、まるで蠅の羽音以下だとでも言いたげだった。


「この市長選は必然だよ、スオウ・アララギ。ウェルス氏とは学友でもあった。若い時はしばし議論を交わしたものだ。無論、一度だって相容れたことはなかったがね」


 事実、カニングはウェルス前市長とはスタフティア共和国内の八名門の一角であるゾーナ大学にて共に学んでいる。今回の市長選はウェルス前市長の弔い合戦としての意味合いも強いため、そうした背景もカニングに対して優位に働いていることは間違いない。


「我々はね、ウェルス前市長の死に報いなければならないのだよ」


 まるで感情の籠っていない、杓子定規な言葉だった。

 おそらくカニングにとって、かつての学友の死など実際はどうでもいいのだろう。この男のなかにあるのは、自らの目的がいかにして達成されるかという冷徹な合理性だけだと、僅かにさえも揺れることのない琥珀色の瞳が物語っているように思えた。

 間もなくマリーンのスピーチが終わろうとしていた。彼女が叫ぶ声は聴衆の野次に掻き消され、カニングが浮かべる余裕の薄ら笑いだけが舞台からこぼれる明かりに照らされていた。


   ◇◇◇


「今からおよそ二〇〇年以上前、神聖オルデン帝国の思想家、ボルド・ガイウェンによって『人権法典』が執筆され、今日の人権思想は確立されました。〝何人も、幸福となる権利を侵されてはならない〟。私たち人間には皆、生まれながらにして保証される権利があるということが、『人権法典』には明記されています」


 第一回目となる公開討論会の最初の議題は、市長選最大の論点である異見子関連政策について。

 先手を打ったのは擁護派であるマリーン。野次が飛び交うなか、歴史的大著を引き合いに出しながら論を展開する。

 壇上を要として扇状に広がるホールではマリーンが話すたびに罵声が飛び、話し手がカニングに移るたびに拍手が沸き起こる。残念なのはほとんどの聴衆が討論の内容など聞いていないだろうということだった。


「人権とは、個々人が、そして社会が個人に対して守らなければいけない法や倫理の最低規範であるべきだ、ともガイウェンは述べます。いいですか。異見子を排斥しようとする貴方の政策は、大陸に広がる一般通念としての人権思想から、大きく逸脱するものなのです」


 マリーンは相変わらず淀みなく、そして隙なく自らの意見を述べていく。それが歴史に深く学び、現実に真摯に向き合うからこそなせることだろうと、スオウは思う。たとえ庶民感覚と大きくずれた生活をしていようとも、彼女の能力に疑う余地ははないのだろう。

 しかしカニングは余裕を崩してはいなかった。マリーンの話に真摯に聞き入り、頷く素振りを見せながら、内心では完全に見下しているのが容易に想像できる。


「大きく逸脱……果たして本当にそうでしょうか? ガイウェンの『人権法典』は確かに素晴らしい著作です。私も何度も読みました。ですがガイウェンの人権思想は『人間について』という同時期に発表された小さな論文とともに語られるべきだと思っています。この論文では、タイトル通り、人間という存在についてあらゆる角度から考察されている」


 カニングはあえてマリーンが引用したガイウェンをさらに引用することで彼女のフィールドでの勝負に乗った。そしてガイウェンの人権思想のなかでマリーンの主張を破綻させることで、マリーンの主張を全く説得力のない妄論に貶めるつもりだ。


「『人間について』。その第三章において、ガイウェンは人間を知性、理性、社会性の三つの観点から定義している。まず知性は言語使用に関する能力に代表されます。要は言葉を話して意思疎通を図れるか、という話です。次に理性は推測能力。これはガイウェン研究でもいくつかの解釈に分かれるようですが、私は未来に対して自らの行為の責任を担えるか、という点に集約されると思っています。そして三つ目の社会性。これは共同体意識と言い換えられ、ガイウェンの人間観において最も重要であると考えらています。つまり知性と理性の二つの能力を、いかにその共同体意識のもとで使用できるかという点です。残念ながら、異見子はこの三つ目の能力を著しく欠いている。つまり我々とは全く異なる軸の元で生きる存在なのです。そのことは、偉大な前市長、マルカス・ウェルス氏の非業の結末をもってしても明らかです。人と獣は相容れない。この異見子を巡る問題は、ただそれだけのことなんですよ」


 カニングはわざとらしく肩を落とし、センセーショナルな一言で客席の共感を促す。その思惑にまんまと絡め取られる客席からは称賛の声が上がり、続いてマリーンへの罵声が飛んだ。


「ですがカニングさん。本来ならば共同体意識を向けられるべき社会そのものに、既に排除の構図があったとすれば、その行為の責任を異見子という存在全てに着せることはできませんよ。それこそ他でもない私たちこそ、未来に対する行為の責任を放棄していることになる」


 マリーンの切り返しはこの場で最も的確だと言えた。カニングがマリーンを論破するべく使った論を逆手にとって攻める。しかしカニングもまた、この反論を予期していたように言葉を返す。


「マルマロス候補の言う通り。だからこそ私たちは決断しなければならない。ウェルス氏の死に報いるために戦わなければならない。つまり異見子と、今こそ袂を分かつ決断をするときなんですよ! これこそが未来に対する責任だ! ねえ、皆さん!」



 カニングの声に、どっと歓声が続いた。マリーンが論理的に事実を積み上げて議論を淀みなく展開していくことに長けているとするならば、カニングは聴衆の感情的な側面に入り込むのが圧倒的に上手かった。そして政治家として、どちらの能力が有利に働くのかは考えるまでもない。

 何故なら、民衆の支持を得るために最も効果的な武器は、空気をつくることなのだから。


「「「カニング! カニング! カニング!」」」


 歓声はいつの間にかカニングを後押しするコールに変わり、マリーンに敗北を突き付ける大波となって壇上に押し寄せた。マリーンは拳を握り、足腰に力を込め、決死の覚悟で立ち向かう。


「怒りに駆られてはいけない。憎悪に支配されてはいけない。それは最も安易な逃げ道なのです。私たちは、互いに手を取り合って社会を作らなければいけないのです!」


 マリーンは声を張り上げるが、誰一人としてその声を聞き届けるものはいない。ステージにゴミが投げ込まれる。カニングの名を叫ぶ合唱はいつの間にか、異見子排除を叫ぶ怨嗟へと変わっている。まるでそれが都市の総意であるかと言わんばかりの熱量をもって、響き渡っている。

 もはや討論会は完全に崩壊していた。それほどに異見子に対して人々が向ける嫌悪の感情が大きく深いものであることを、スオウは改めて認識させられる。


「落ち着いてくださいっ! 私たちは理性と良識ある――ひゃっ」


 マイクを手に取って叫ぶマリーンの顔面にケチャップ塗れのホットドッグがぶつけられる。それはまるで敗北の流血を現すように。あるいは結果としてカニングの引き立て役に甘んじたマリーンの道化っぷりを示すように。名女優だった女の顔を惨めに汚した。

 しかしそれでも懸命に、マリーンは聴衆に訴えかけようとマイクを握る。

 だが次の瞬間には、鋭い銃声が轟いていた。

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