第2章 不穏 - 3

 間もなくオモトが公安部の権限を濫用して、半ば強引に人払いを終えて戻ってくる。スオウがテープを潜ると唯一残されている野次馬対処の警護士たちが怪訝な目を向けていたが、オモトが隣りを歩いている以上、文句を言えるものはいなかった。

 緊張とともに、オモトに続いたスオウはテントへと入る。つい先ほどまで検死士によって検分されていたと思わしき現場には濃い血臭が立ち込めていた。

 遺体には麻の布が掛けられている。スオウは歩み寄り、覗き見ることを拒む感情を捻じ伏せてゆっくりと布を捲った。


「…………知ってますか?」


 テントの入り口で立っているオモトの言葉にスオウは首を横に振った。

 昆虫のような複眼に、突き出して垂れた長い鼻。禿げ上がった頭にはいくつもコブが浮かんでいて、青筋が無数に走っている。

 ――ウルではなかった。湧き起こった安堵に、スオウは小さく息を吐いた。


「そうですか。ならあまり長居は――」

「マークしてるのは密教スクラマトか?」

「そこまでご存知なんですか」


 オモトは遮られたにも関わらず、驚いたように青い目を丸くする。もちろんスオウは何一つとして公安の捜査情報など知らない。単なる推測だった。


「……過激派のスクラマト組織〈次元の明け〉。長年にわたりマークしている組織の一つ、という感じですね。たぶん現役のときに、聞いたことくらいはあると思います」


 密教スクラマトとは人類の怨敵である〈異貌〉を、神スクラマトの受肉であるとして崇める秘密宗教の一つだ。そこそこ歴史の長い密教ではあり、長らく歴史の片隅でひっそりと信仰が続けられているだけだったが、先の第八〈異貌〉戦役以降、〈次元の明け〉などを始めとした過激派組織による活動がスタフティア共和国内でも問題視されている。

 オモトが口にした組織はスオウも警護士だったときに聞いたことがあった。確か二年前までは敬虔さが目立つだけの中道派だったはずだが、どうやらこの数年で急進的な思想に移行したらしい。


「だがどうして密教スクラマトが異見子殺害に関係する? あの密教は〈異貌〉を天界からの使者、異見子を精霊の受肉と考えて神聖視するはずだろう」

「そうなんですけどね。密教スクラマトの過激派のなかには、異見子を人類から選ばれた清らかな贄として、その魂を天界に帰そうとするスィスィという思想があるみたいです。今はけっこうセンシティブなんですよ。前市長の爆殺もあり、次の灼紅スカーレットは降臨祭ですから」

灼紅スカーレット……彩月ルナか」


 スオウは遠くの空にぽつねんとある、まだ青白さの残る彩月ルナを見上げた。

 降臨祭とは一年に一度催される密教スクラマト最大の祭典だ。神スクラマトの降臨を礼賛するものであり、毎年〈月下の地〉と呼ばれる降臨に相応しい座標がどこからともなく発表され、信徒たちがそこに集まる。今年の適合地に選ばれたのがこのプルウィア市ということらしい。

 前市長の爆殺も、降臨祭も、タイミングはこの上なく最悪だろう。


「だが〈次元の明け〉が前市長爆殺に絡んでいたとして、どうして異見子擁護派だったマルカス・ウェルスを殺す? そのテロが異見子の立場を悪くすることは分かり切ってんだろう」

「そこが最大の謎なんですよ。だからまだ、自爆犯のダドリー・エグチャンによる単独の犯行っていう線も考慮されてはいるんですけど……」

「今日の飯もままならず、字の読み書きさえ半端な異見子が高度な爆弾を拵えられるわけはねえな」


 スオウの言葉にオモトは頷く。目的が見えず、動機と結果が奇妙に捻じれた事件を覆う謎に、オモトの表情は疲労を滲ませていた。

 異見子の遺体に布をかけ直し、スオウはオモトに続いてテントを後にする。


「ただこの異見子殺しは怨恨、あるいは義憤だろうな。おおかた自警団気取りのいきり立った市民による馬鹿な暴行だ」

「そうですね。ただでさえ厄介なのに、ウェルス前市長の事件以降、プルウィア市は火薬庫です」


 オモトは深く溜息を吐く。あまり眠れていないのだろう。淀んだ溜息は街の渇いた空気に溶けていく。


「同感だな。人は異質だと決め込んだものに対して、どこまでも残酷になれる」


 改めて口にしたことで突きつけられる人間の醜悪に、二人は肩を竦めてやるせなさを誤魔化す他になかった。


   ◇◇◇


 オモトに礼を言って別れたスオウは、どっと湧き出た疲労を抱えてアストス区の自宅へと向かう。

 カジノを後にしたのは昼過ぎだったが、とっくに日は暮れ、空は朱に染まっている。灯り出した街灯が石畳の地面をぼんやりと照らしている。


「…………ん?」


 ふと見上げたオレンジの空。スオウの進む方向――連なる家屋の向こうから燃えるような色の空へと立ち込める、黒々とした煙が見えた。

 普段は人気がなく、静まり返るはずの街並みに漂うのは騒めきと緊張。強烈な悪寒がした。

 スオウは走り出す。路地を駆け抜け、家路を急ぐ。スオウの進行方向から決して逸れない黒煙と家が近づくにつれて増していく焦げ臭さに、スオウの悪寒は明確な確信へと変わる。

 家の建つ街区へと到達し、スオウは赫々と炎を上げて燃える自宅に言葉を失った。


「――消防はまだか?」

「水持ってこい! 燃え移るぞ!」


 慌ただしく動き、叫ぶ人々。顔に熱波を受けながらも、火の手の行く末を見守る人々。未だ到着しない消防局を待っている猶予はなく、近隣の住民たちがバケツを抱えて必死の消火活動にあたっている。

 ようやく状況を理解する。理解して、スオウは叫んだ。


「――ネロ、ウル!」


 返る声はない。囂々と燃える炎と水分を失って爆ぜる木材の音がスオウに立ちはだかっていた。

 スオウは集まった人垣を掻き分け、燃え盛る家へと踏み込む。しかし吹き荒れた熱風と火の粉がスオウの身体を押し返し、侵入を阻んだ。


「ネロ! ウル!」


 スオウは声を張り上げる。やがて建材の爆ぜる音に混じり、甲高く響く声が微かに聞こえた。


「……――――ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

「……――――ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」

「おい! いるのか、二人とも!」


 スオウが、身体が焼けることも厭わずに左腕を盾にして家へ踏み込んだ瞬間だった。


「――うぎゃぁぁぁぁあああああああああああああああっ!」

「――ぬぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおっ!」


 叫び声とともに廊下へと飛び出す二つの影。それらは一目散に燃える廊下を駆け抜けて玄関に立つスオウの腹へと飛び込んだ。

 飛び込んできたネロとウルの無事に胸を撫で下ろす。顔は煤と涙にまみれていたが、見る限り火傷などを負っている様子はなかった。


「お前ら無事だっ――――」


 だが胸を撫で下ろすような暇もなく。

 その刹那、スオウの嗅覚が感じ取ったのは猛烈なガス臭さだった。言葉を呑み、ネロとウルを抱えて踵を返す。そして、力の限り跳んだ。


「――ざっけんなぁっ!」


 背後で生じる大爆発。

 寂れた市中にはいささか派手すぎる、盛大な火柱が噴き上がった。

 周辺住民からは悲鳴があがり、集まっていた人々は慌てて逃げ出す。スオウは吹き飛びつつも〈アウストラリス〉を展開。ネロとウルの身を庇いながら、降り注ぐ火の粉や家だった残骸を防ぐ。

 だがスオウにできたのはそれだけ。長年住んだことによって多少なりとも愛着のあった家が無惨に崩れていく様を、ただ呆然と眺めていた。

 スオウに抱えられた二人は爆発に驚いたのか、激しく泣きじゃくっている。スオウもショックからすぐに立ち上がることはできず、二人を抱えたまま座り込む。傘のように頭上に展開された〈アウストラリス〉に、砕け散った柱が落ち、弾かれてどこかへ転がっていった。


「何が、あったんだ……?」


 やがてスオウはネロとウルの二人へ向けて口を開く。二人は依然として泣きじゃくっていたが、罪の意識があったのだろう、なんとか呼吸を整えて拙い弁明を始める。


「……おりょうり、しようとおもったの」

「……すおー、きょうげんきねえです。だから、おいしいものくったら、げんきでやがるです」

「……あたしが、ずぴっ、……いれるの、まちがえちゃって、ぐずっ、う、うぅ、ごめんなしゃいうあああ」

「……おろーり、むじいです……」


 何をどう間違えれば料理をして家を吹き飛ばすのか、スオウにはよく分からなかった。だが二人が奇跡的に無事であることと、これが何者かの襲撃とか、そういう物騒な類のものではないことは確かのようだ。

 もはや怒る気力もなかった。

 状況を呑み込むので精いっぱいだったし、この二人をどれだけ叱りつけたところで吹き飛んだ家は元には戻らない。

 だからスオウの思考は早くも、目の前の現実に対する理解を深めるよりも、これからどうするかという未来に向いて回転していた。


「………………」


 スオウだけならば近くの駐車場に停めてある愛車の運転席で十分だろう。だがさすがに少女二人を連れて何日も車中泊というわけにはいかない。

 ネロたちを放り出す案は真っ先に過ぎったが、ついさっき異見子の殺害現場に遭遇したばかりだったのでその危険で薄情な思いつきは真っ先に却下した。


「家、借り…………れねえ、しな」


 おまけにギャンブルで財産の大半を溶かしたばかり。もちろんあのポケラに賭けたチップが全財産というわけではないが、それでも家を借りるような資金は残っていない。

 思考が延々と同じところを巡る。もう考えられる限り、スオウが講じることのできる手立てはただ一つしか残されていなかった。


「…………クソが」


 スオウは上着のポケットからくしゃくしゃに丸めた一枚の名刺を取り出すと、そう虚空へと吐き捨てた。

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