第2章 不穏 - 1

「お茶の一つもないんですか?」


 椅子に掛けたマリーンの背後で、第一秘書のネブリナ・トゥマーンが不満を口にする。共和国南部の出身なのだろうか。きちんと学んだらしい標準語のなかに、イントネーションの訛りが混ざっている。容姿はキブリ人特有の小麦色の肌にオルデン民族らしい金髪。ブラウスの襟は立てられ、開けられた胸元には深い谷間が覗く。この我が強そうな女に秘書という役目が務まるのが不思議だったが、マリーンとは女優時代からのマネージャーとして連れ添う長年の間柄らしい。渡された名刺の肩書はまだマネージャーとなっていた。


「うるせえよ。押し入るように他人様の家に上がっておいて、茶の催促なんかするんじゃねえ」

「この方は市政の未来を担うんですよっ? もっと敬意を払い――」

「そういう話は選挙が終わってから口にするんだな」


 一歩たりとも譲らないスオウとネブリナの舌戦に、ようやくマリーンが仲裁に入った。


「ネブリナ。もういいわ、下がって」

「ですがマリーン……」

「下がって」


 ネブリナは唇を噛んで口を噤んだ。気の強そうな目つきを敵意で研ぎ澄ませ、スオウを睨む。相手にするのも面倒なので、スオウは気づかなかったことにしてマリーンへと視線を戻した。


「んで、ご多忙な市長候補様がこんな落ちぶれたごろつきに何の用だよ?」


 スオウは突き放すように、皮肉を込めて言う。マリーンは微笑で固定された表情を崩さない。

 どうせこの手の人間が持ち込む話はろくなことではない。ましてマリーンは市長選により時の人。関わればその分だけ、面倒事に巻き込まれるのが必然だ。

 だからマリーンが何を申し出ようと、スオウの返事は既に決まっている。


「スオウ・アララギ。貴方の腕を見込み、護衛を――」

「断る」


 言葉を言い切らせさえしないスオウの即答に、ネブリナが舌打ちをした。


「貴様っ! あまりに不敬だぞっ!」

「だいたい護衛なんざ俺のような賞金稼ぎの仕事じゃあねえ。護衛なら警護局にでも要請しろよ」


 ネブリナが勢い込んで躓いたように言葉に詰まりながらも、表情を歪める。


「……も、もう、こんな奴いいでしょう、マリーン! きっと護衛どころか寸前で尻尾を巻いて逃げ出しますよっ!」

「何とでも言え。そんでもって二度と現れんな」


 スオウは立ち上がり、リビングの扉を開ける。マリーンたちに帰るよう手を指し示す。ネブリナは振り返ってスオウを睨みつけていたが、マリーンは前を向いたまま頑として立ち上がろうとはしなかった。


「〝鬼のスオウ〟」


 その声は変わらず凛としていながら、どこか挑発的な調子を帯びる。


「あ? それが何だ?」

「元警護局公安部特務警護士、スオウ・アララギ。その力は単独で下等乙級の〈異貌〉にも匹敵すると言われ、関わった任務の成功率は九七パーセント。個人としての戦闘力は、おそらくプルウィア市、いや、スタフティア共和国で見ても五本の指に入るでしょう。警護局を辞したあとも、〝鬼〟の呼び名に陰りはないようですね。私は、そんな貴方だからこそ、護衛を依頼しているのです」


 左腕がほのかに熱と痛みを帯びていく。スオウは膨れ上がるように激しさを増す痛みを堪えながら、マリーンの背中に向けて言葉を返した。


「買い被り過ぎている。俺はしがない賞金稼ぎだ」


 マリーンを一歩たりとも寄せ付けないスオウの態度に観念したように、ゆっくりと椅子から立ち上がった。


「……分かりました。ですが私はいつでも貴方を歓迎します。気が変わったときは、いつでも連絡をください。報酬は言い値で構いません。…………行きましょう、ネブリナ」


 マリーンは自らの名刺を机に置くと、スオウを一瞥もすることなくリビングから廊下へと出て行く。玄関で立ち止まり、やはり振り返りはせずにスオウに向かって口を開く。


「過去は変わりません。過ちは過ぎたるもの。私たちにできるのは、現在と未来をどう生きるかということだけなのです」

「何のことかさっぱりだ。帰れ帰れ」


 スオウはぞんざいに手を払う。ネブリナは最後までスオウを睨みつけ、マリーンは毅然とした態度を崩さないまま立ち去っていった。

 スオウは溜息を吐き、リビングへと戻る。疲労感に圧し潰されるがまま、ソファへと身を沈めた。

 二週間ぶりに帰ってきたというのに、息を吐く暇がまるでない。

 長く濃密すぎた一日が、ようやく終わろうとしている。

 スオウは忍び寄ってくる微睡みに身を委ねる。

 意識の手綱を手放そうとした瞬間、ぱたぱたと廊下を走る音。耳障りな甲高い声。


「ねちゃん、まちやがれですっ!」

「まったないよーだ。わはははは」


 マリーンと話すにあたって風呂バスに入らせていた二人がリビングに飛び込んでくる。寝間着は着ておらず、タオルを巻いただけの格好でリビングを駆け回る。濡れた髪からそのへんの量販店で買った安物のシャンプーが香る。


「ねちゃん、つかまりやがれぇーっ」

「わははははははは」


 ウルがネロに飛びつき、組み合った二人がスオウの脇に飛び込んでくる。ほとんど眠りかけていたスオウはソファに与えられた衝撃で安眠を妨害され、背もたれに身を沈めたまま、ギロと二人の少女を睨んだ。

 さすがの二人も、これはやってしまったと思ったらしい。ソファで絡み合ったまま硬直し、ネロはスオウの機嫌を取りなすようににっこりと笑ってみる。

 もちろんそんなことで、スオウの機嫌は直らない。むしろ火に油だとも言える。


「てめえら……いい加減にしとけよ」


 ほとんど本気の殺意。縮み上がった二人は本能的にソファから飛び降りる。


「うぎゃーっ!」

「うだぁーっ!」


 声を揃え、身体を覆っていたタオルさえもかなぐり捨てて一目散に逃げ出す。素っ裸で階段をばたばたと駆け上がり、上がった二階で二人は騒いでいる。


「クソ……うるせえ……」


 もはや追い駆けるのも億劫なスオウは無視してソファに横たわる。だがいくら無視を決め込んでも、天井も壁も薄いボロ屋なせいか、二階で騒ぐネロとウルの声は聞こえ続ける。

 ……長く濃密な一日は、そう簡単には終わってくれないようだった。


 その夜、スオウは夢を見た。

 水に浮かぶ夢。海なのか、川なのかは分からない。ただひんやりと冷たく、スオウの身体は溶け出すような感覚とともに、水面にたゆたっている。

 見上げるのは無窮の闇。どこまでも果てしなく広がる虚無が、スオウの視線の先に続いている。

 スオウは左腕を持ち上げる。腕の内側には、永遠を誓った愛が刻み込まれている。

 これが夢だと分かるのは、まだそこに生身の左腕が存在するから。

 失った全てが、まだここに確かに感じられてしまうから。


「スオウ」


 声が聞こえた。水に浮かんだまま横を見れば、同じ姿勢で無窮の闇を仰いでいる女がいた。

 フィアン・ユディス。褐色の肌に深い黒の髪。瞳の色は遍くを拒絶するように冷たく固い緑で、彼女のルーツの半分であるシレンテ人特有の赤い刺青が目元を彩っている。

 同僚にして、最高の相棒。

 そして決して忘れることのない、最愛の女(ひと)。


「……フィア」


 スオウは彼女の名前を呼ぶ。彼女は照れたようにぎこちない笑みを浮かべる。今も瞼の裏に焼き付いている、スオウの好きだった表情。

 スオウは水のなかで体勢を起こし、フィアの元へと泳ぐ。フィアもまた身体を起こして近づくスオウを受け入れる。

 スオウは手を伸ばし、だが触れるのを躊躇う。

 もしこの指先が触れてしまえば、フィアの姿が掻き消えてしまうのではないか。夢から覚めてしまうのではないか。そんな不安に襲われた。


「大丈夫」


 フィアは微笑み、伸ばしたまま宙で止まったスオウの左手に自らの指を絡めた。スオウの身体をそっと引き寄せ、胸の中へと自ら収まっていく。

 冷たい水のなかで、フィアの体温が感じられた。溶け出していた身体の感覚がゆっくりと解れ、生きていると思うことができた。


「……フィア」


 スオウは右腕でフィアをそっと抱き締める。壊れないよう、掻き消えないよう、でも確かめるように、強く。

 フィアもゆっくりとスオウの背に手を回す。そしてその華奢な指が、スオウの背に食い込んだ。


「…………?」


 スオウはフィアを見下ろす。こちらを見上げるフィアの顔貌に、思わずスオウは息を呑んだ。

 紫紺の瞳があるはずの眼窩は空洞で、どろどろと薄ピンクの脳髄が流れ出していた。柔らかく、だが鍛え上げられたことが分かるしなやかな肢体は既に肉に皮膚も溶け、剥き出しの白骨と化していた。右の頬が朽ちて、溶け落ち、晒された奥歯がガチガチと打ち鳴らされる。


「ドウシテ?」


 歪んだフィアの声が耳元に響く。スオウは逃れることが出来ず、いつの間にか煮え滾る鮮血へと変わった水のなかで恐怖と後悔に震えた。


「ドウシテ、アタシヲ、見捨テタノ?」


 フィアが血の海へと沈んでいく。スオウの背は引き裂かれ、指を絡めたままの左腕が引っ張られて悲鳴を上げる。やがて関節は外れ、筋肉が引き千切れ、スオウの左腕は肩からもぎ取られる。


「うあああああああああああああああああああああああああっ!」


 スオウは悲鳴を上げる。フィアはもはや完全な白骨と化し、スオウの左腕を抱いたまま血の水底へと沈んでいく。


「ドウシテ見捨テタノ? 信ジテタノニ。ドウシテ?」


 フィアの静かな怨嗟が耳元にこびりつく。

 憎まれて当然だった。怨まれて当然だった。

 フィアの言葉通り、スオウは彼女を見捨てたのだから。

 スオウは暗い水底に消えるフィアに右手を伸ばす。

 しかしついぞ、既に死者であるフィアに、スオウの声も手も届くことはない。



「――――フィアッ!」


 スオウは左腕を捩じ切るような激痛に跳ね起きる。リビングは暗く、寝ていたソファにはぐっしょりと汗が染みこんでいる。床の上ではどんな寝相でここまで来たのか、ネロとウルが鼻提灯をつけて豪快な寝息を立てている。


「がっ……」


 奥歯を噛み締めて激痛をやり過ごそうにも、あまりに壮絶な痛みは治まる気配がない。獣じみた荒い呼吸を繰り返しながら、スオウはふらふらと立ち上がる。

 久しく使っていないキッチンへ向かい、倒れ込むようにシンクに腕を突っ込む。大きな音がたったが二人の安眠を気遣う余裕は、今のスオウにはなかった。震える右手で蛇口を捻り、勢いよく流れ出した冷水を左腕に浴びせる。


「ぐぅぅっ……」


 幻肢痛にはだいぶ慣れたつもりだった。多少ならば黙ってやり過ごすこともできる。

 だが今までに経験してきたそれを遥かに凌ぐ激痛だった。変な夢を見たせいだろうか。あるいはマリーンに触れられたくない過去を引っ掻かれたからだろうか。

 いずれにせよ、よくない兆候であることに違いはない。

 スオウは流れる水をじっと見つめて激痛を耐え忍び、油断すれば瞬く間に散り散りになりそうな意識を必死で繋ぎ止めようとした。

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