第1章 掃き溜めの街の片隅で - 3

 眼帯女の名はインマオ。姓はなく、唯一呼ばれるその名も本名ではない。東の果てにある大華の言葉で〝銀の猫〟を意味するそれは、ヘレアック人典型の外見と盗みのような小さな悪さを繰り返すことからついた蔑称だ。

 だがインマオが小悪党だったのは昔の話。今ではプルウィア市の闇を取り仕切る三大マフィアの一角、シルバーハウスの幹部の一人である。ネコだと思われていた小さな悪党は、血と硝煙塗れのシンデレラストーリーで若獅子へと成り上がったというわけだ。


「まさかお前の店だったとはな」

「そんなにまさかってほどでもないでしょう。アストス区は私たちシルバーハウスの縄張りなんだから。ちなみにこの繁華街の四割は、あたしがオーナーやってるわ」


 インマオは右手でグラスのなかの血精酒ワインを転がしながら、左手に紙巻き煙草を取り出す。後ろに控えていた外套姿に鳥の頭蓋を模した仮面をつけた小柄な部下がマッチを擦って火を灯す。


「ありがと、コブ」


 コブと呼ばれた仮面の部下は速やかに元の位置へと戻っていく。壁も床も天井も赤い天鵞絨が張られたⅤⅠPルームに、甘ったるい煙草の煙がたゆたった。

 無意味に広い部屋の中央にはL字型の黒革張りのソファと重厚な漆塗りの机が置かれている。天井からぶら下がるシャンデリアは金細工で、一番奥の壁には両の眼窩に特大のダイヤを嵌め込まれた下等乙級〈異貌〉、コルヌウルスの頭骨が飾られている。

 スオウは明らかに数段グレードアップしているお子様セットを夢中で頬張っているネロとウルを外側に座らせつつ、ここまで全く意図の読めないインマオの横顔を伺う。しかし安い銘柄の煙草を味わうように吸っているばかりで、何も読み取ることはできなかった。

 インマオの後ろにはコブと呼ばれた仮面の部下の他に、先ほどアルフとやらを佇まいのみで圧倒していた巨漢の給仕も控えている。名前は確かシュンボといったか。

 インマオは何かの生き物の頭蓋を割って作ったのだろう灰皿で吸いさしを揉み消し、ネロたちにお子様セットの感想を求めるなどしている。二人もすっかり懐柔されており、さっきまでの恐怖は彼方へと忘れ去ったようだった。


「インマオ。貴様、いい加減にしろよ。用件は何だ? 小狡さでは右に出る者がいないと言われるあの銀ネコが、まさか善意で豪勢な料理を振る舞うわけもないだろ」


 スオウは相手の意図を読むことを諦め、単刀直入に切り出す。インマオは二本目の煙草を吸い始め、ようやくスオウのほうへと視線を向けた。


「あたしを一体何だと思ってるのかしら? これでもオーナー。不快な思いをしたお客様に満足して帰ってもらおうと取った行動としては、ふっつうだと思うけど。あ、もし当店の味を気に入って頂けたのなら、ぜひ今後ともご贔屓に」

「その胡散臭い笑みをやめろ」

「ひどいわ。これでもあたし、この笑顔でけっこうモテるんだけど」


 インマオは紫煙を吐きながら笑みを浮かべる。血精酒ワインを一気に呷り、その独特の辛みに舌を出す。


「でも本当に他意はないわ。強いて言うなれば忠告ね。何と言ってもあたしは博愛主義者だから。ほら、知ってるでしょ?」


 インマオは満面の笑みをつくり、眼帯で覆った左眼に触れる。その手のまま滑らかな銀髪をかき上げ、いつの間にか手にしていた新たな煙草を口に咥える。背後のコブが三度火を灯し、インマオは深く吸い込んだ紫煙を吐く。右眼でちらとウルを見やる。纏う空気が硬質さを帯びていた。


「今はとくに風当たりが強いのよ。人の集まるところなんて出掛けたら、そりゃ絡まれて当然だわ」

「市長爆殺事件か」

「そういうこと」


 インマオは相変わらず笑みを浮かべたが、それはどこか非難めいた乾いた印象を感じさせた。

 市長爆殺事件。それはスオウが隊商に同行してプルウィア市を出発してすぐに起きた事件で、隣りのセシア市でもセンセーショナルなそのニュースは大きく報道されていた。その名の通り、前市長であったマルカス・ウェルス氏が、市庁舎から出てきたところを狙われ、犯人の自爆とともに爆殺されたという事件だ。

 事件を巡る論争は犯人が異見子だったという一点に収束されており、ウェルス市長がかねてより進めていた異見子権利法案はその死によって一度白紙に戻されることとなった。

 異見子擁護派の旗印だったウェルス市長の異見子による爆殺という捻じれた事件の真相は未だ解明されていない。だが異見子が差し伸べられていたウェルス市長の手を自ら払いのけたことは紛れもない事実であり、排斥派のデモ活動は激化。さらにそれまで擁護派だった市民でさえ異見子の存在に疑問を抱き始めている有様だ。

 これまでは暗黙の見て見ぬふりのおかげで辛うじて維持されていた仮初の平穏は、一撃の爆弾によってまさに今、崩れ去ろうとしている。


「この事件、けっこうきな臭いのよ。自爆犯のダドリー・エグチャンは〈異貌〉信仰の密教スクラマトに関わりがあったとも言われてるわ。事実がどうかは置いておいても、このプルウィアが今年の降臨祭の〈月下の地〉だとかで街中の信徒の姿が増えているのは事実だしね」


 言われてみれば、ここに来る途中にも信徒らしき一団を目撃した。密教スクラマトの敬虔な信徒は伝統的に、たとえ真夏であっても純白の外套を着込んでいる。

 何が起きているかは分からずとも、何かが起きていることは事実だった。

 スオウは追加で運ばれてきたディロス皇国産のジェラートに頬を押さえている横の二人を見やる。

 勝手に居座られ、付き纏われているだけとはいえ、まだ分別も覚束ない子供である彼女たちを無暗な危険に晒してしまったことは確かだ。絡んできたアルフがたまたまスオウよりも弱かっただけで、より研ぎ澄まされた敵意を向けてくる者に出くわさない保証はないのだ。

 つまりさっきの事態は、スオウの認識の甘さが招いた危険と言える。

 返す言葉もなく押し黙っているスオウの内心を汲み取ったのか、インマオは元の胡散臭く軽薄な柔和さを纏い直し、組んだ脚を組み替える。


「ま、この先がどう転ぶかは市長選が終わってみないと分からないわよ。とは言え、擁護派のマルマロス候補はだいぶ分が悪い戦いなんだろうけど」

「意外だな……。政治に興味があったのか」

「興味っていうか、大人よ? 自分が住んでる街の動向くらい気にするわ」


 インマオはスオウを小馬鹿にするようにわざとらしく口角を吊り上げる。スオウはその挑発を躱すように肩を竦める。


「それにね、今の時代のマフィアってただガン飛ばしてドンパチってわけにもいかないのよ。情報集めて風向き読むのが大事なの」

「なるほどな。腕っぷしが弱く小狡いお前らしい、分を弁えた発言だ」

「うるさいね。あたしは人並み。あんたの腕っぷしが異常なのよ」


 インマオの視線がスオウの左腕へと刺さる。スオウはそこにあるはずのない微かな疼痛を感じ、気取られぬよう呼吸のペースを意識的に落とす。さらに言葉を重ね、痛みを意識から締め出そうと試みる。


「確かに、お前らはデリケートな時期でもあるしな」


 スオウの挑発に、意外にもインマオは痛いところを突かれたという風に表情を歪めた。

 プルウィアの三大マフィアであるシルバーハウスを一代で築いた英傑、ゴズ・フィーダは今からおよそ一カ月前、老衰によって逝去した。目の前にいるインマオを含む三人の幹部のうちの誰かが話し合いによって次の家長に就任する手筈だったが、ゴズの実子であるルディス・フィーダとインマオの対立により話し合いは頓挫。散発的な内部抗争を繰り返した挙句、今日まで膠着状態が続いていた。


「まだまだ絶賛紛糾中よ。とはいえ、正面切っての跡目抗争なんて時代遅れ。それに、そもそもそんなことしてもあたしたちの陣営に勝ち目はないしね。なんたってルディスの坊ちゃんにはあのリュウゲン・ギンザがついてるんだもの」


 銀座劉玄リュウゲン・ギンザ。前家長の側近にして、大陸最強の一角を占めると言われる用心棒。シルバーハウスのようなそれほど規模の大きくないマフィアがあのアマレロ・ファミリー、ブリガン・カンパニーと比肩する地位を築いているのは、大陸中に広く轟くこの名の影響も少なくないと言われている。軍隊規模の戦力を有していると言われるマフィアが存在するプルウィアで、たった一人の存在が大規模抗争の抑止力にさえなっているというのだから驚きだ。そして同時に、銀座劉玄はその悪魔的な強さに反し、無欲さとゴズ・フィーダへの忠誠を表す逸話が多く語られる忠義の人物としても知られている。


「実際、誰が次期家長かなんてあたしにはどうでもいいのよ。ただあの坊やは血の気が多すぎるわ。ハウスを存続させるっていうオヤジの遺言に従うなら、マフィアは合法化を図ってくべきなのよ」


 インマオは深く吐いた息で前髪を吹き上げる。

 ルディスとの対立のきっかけはまさに〝組織の合法化〟を巡る争いが火種となっている。

 市営のカジノ経営による娯楽産業への参入とそれに伴うシルバーハウスの合法化を目指すインマオと、従来通り薬や武器を骨子とした闇ビジネスでプルウィアの裏社会に君臨すべきと理想を抱くルディスの意見は真っ向から対立し、家長の座を巡っての抗争にまで発展した。

 勢力としては五分だが、古参の構成員たちに支持されるルディスのほうがいくらか分がよく、完全な外様幹部かつ女であるインマオは劣勢を強いられている。


「本当は漁夫の利で、中立と静観を決め込んでるアルギュロが家長に名乗りを上げてくれればいいんだけど、ほら、あいつ喋らないでしょ??」


 インマオは冗談めかして舌を出し、そこに四本目の煙草を乗せる。


「おいらは、マオこそ家長に相応しいと思ってるぜ」


 火を点けに前に出たコブが潰れた濁声で言う。その声音には全幅の信頼が感じられた。上下関係を無視して愛称で呼ぶのは、インマオとコブ、シュンボの三人がシルバーハウスに入る以前からの悪さ仲間であるからに他ならない。


「ありがと、コブ。もちろん諦めたわけじゃないわ」

「マオなら、必ず」


 二人は拳を、中指に嵌めた揃いの指輪を打ち合わせる。インマオの背後では巨漢のシュンボも指輪を嵌めた拳を前に掲げていた。


「まあもしわたしが追い込まれたら、今日のことを思い出して助けてくれてもいいわ」

「それが狙いか、クソ女。勝手に揉めて、勝手に死んでくれ」

「ほら、東方では一宿一飯の恩義、なぁんて言うんでしょ?」

「ごろつき上がりのマフィアにしちゃ、ありがてえお言葉だ」


 スオウがそう吐き捨てたタイミングで、ちょうどネロとウルがデザートまで完食。スオウは立ち上がり、インマオを一瞥する。


「それじゃ、長居する理由もねえから俺は帰る」

「はいはい。またのご利用を~。お代はサービスしといてあげわね」

「どうせあのディアフ人から搾り取るんだろ?」


 インマオは否定も肯定も口にせず、曖昧に首を傾けて微笑む。


「ったく、組織の合法化が聞いて呆れるぜ」


 スオウたち三人はシュンボに表まで案内され、〈キトゥン〉を後にした。

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