序章Ⅱ - 1
左腕に走る疼痛と悪路を走る震動に、スオウ・アララギは目を覚ます。
意識の覚醒とともに研ぎ澄まされていく激痛は、左腕が拉げていくさまを容易に想像させた。
スオウはゆっくりと呼吸を繰り返し、眇めた視線で持ち上げた左手を眼差す。吹き付ける冷たい風が肌を撫でていくが、腕の痛みは鋭さを増していくばかりだ。
赤銅の色にざらついた質感。血脈の代わりに走るのは無数の黒い亀裂。生気の感じられない無機質な左腕は、見ての通りの義腕である。スオウが持って生まれた生身の左腕は、幸せだった時間とともに切り裂かれて散り、今はもうこの世界のどこにも存在しない。
だから左腕を苛む痛みもまた、本来は存在しない痛みだ。
これを世間では幻肢痛と呼ぶらしい。脳がマッピングした身体像が実際の欠落を認知できないせいで生じるとか何とか言われているが、実際のところの原因は定かではない。
ただそのせいか、どこか夢を見ているような気分だった。
腕を失い、目覚めたときからずっと、タチの悪い悪夢を見ている。生きているという悪夢。生き残ってしまったという地獄。
現実と夢の境界は曖昧にぼやけ、生きているのか死んでいるのかすら時々分からなくなる。
そして分からないことすらどうでもいいと思う自分がいる。
まるで亡霊のように世界を彷徨い、消えるその瞬間を待っているだけの余生。目指すべき目的地も、抱くべき信念もなく、時間を消費し続けている。
スオウには生きる理由がない。そして生きる理由がないのと同様に死ぬ理由がないというだけで選択を先延ばしにして生きている。それなのに真っ当に生きようとすることはできず、ただ身を擦り減らすような戦いに身を置き、死ねる時を待っている。
「――いやぁ、全く助かったぜ。あんたみたいな凄腕、格安で雇えるとは俺にもようやくツキが回ってきたってもんだ」
目の前に座る恰幅のいい男が葉巻を吹かしながらゲラゲラと笑う。荷台の外に放り出した手が葉巻の灰を落とす。五本の指には羽振りのよさをアピールするように華美な指輪が嵌められている。
男はこの隊商を率いている商人のサブド。ちなみに中指に嵌められている頭が獅子、身体が百足、生えた翼は鷲のそれ、という奇怪な意匠の指輪は密教スクラマトの呪具の一つだが、蓄財や貨幣経済を否定する密教をこのがめつい商人が信仰するはずもない。残念なことにサブドは、得意気に無知を晒しているということになる。
スオウは用心棒として雇い入れられてこの隊商の都市間移動に随伴している。用心棒は本業ではないが、命を削るような危険があるならばそこがスオウに罰という安らぎを与えてくれる。
「水はあるか?」
スオウは自らの雇い主であるその男に訊ねる。サブドが吐き出した紫煙がスオウの鼻先を掠めて乾いた空気に溶けていく。
「水? それくらいいくらでも飲んでくれよ」
サブドはベルトに引っ掛けてあった水筒を引っ掴み、気前よくそれをスオウへと投げて寄越す。右手だけで器用に栓を外せば、中身が水ではないことを示す甘ったるい匂いが漂った。蒸留酒の類だろうか。下戸のスオウにはそれが水でないということが分かっただけだった。
「固いこと言うなよ。もうすぐプルウィア市の安全域に入る。お前さんもそろそろお役御免ってわけなんだから。上手いぞ?」
「まあいいか」
スオウはぼそりと言って、右手の水筒を逆さに傾ける。勢いよく流れた琥珀色の液体はスオウの左腕へと注がれた。
「なぁっ、おいっ、てめっ、ど、どういうつもりだ馬鹿野郎めっ!」
慌てたサブドがスオウの手から水筒を取り返す。床にばら撒かれた酒を掬おうと手を伸ばし、そしてそれが不可能だと悟って溜息を吐く。
「なんてことしやがるんだ……アビア産のペルフェト、しかも一〇八二年製の
サブドは名残惜しそうに床へ視線を落とし、さっきまでの威勢が嘘のような弱々しさで呟く。
「げはははは、ンナもん持ってきやがるからバチが当たるんだよ」
「ったく、気が緩むとすぐ酒に浸りやがるな。ちったぁ気ぃ引き締めろよなぁ?」
肩を落とすサブドを面白がるように、同じ荷台で酒盛りをしていた別の男たちが笑い声を上げる。
「うるせえなお前ら! ホンモンの酒の味を知らねえから腐った笑い声をあげていられるんだっ。ペルフェトっていやぁグーフラシア大陸の三大銘酒の一角で…………」
サブドが部下たちに酒のうんちくを語り始め、スオウはどこまでも同じに見えるギャレット荒野の風景に視線を投げる。靡いた髪が顔に張り付き、スオウの左手がそれを払いのける。
痛みはまだ完全に去ってはいなかったが、意識を散らせば気にしなくて済むくらいには遠退いていた。
ギャレット荒野はスタフティア共和国の東部に広がる大陸最大の荒野である。昼夜の寒暖差など過酷な環境もさることながら、人類の怨敵である〈異貌〉の過密地帯とも言われており、普通の人間ならば寄り付こうとしない。かつては東西を結ぶ交易路であるオラティコニア街道が存在していたが、それも二三年前の第八〈異貌〉戦役において破壊されてしまっている。
それでも尚、このギャレット荒野を横切ろうとするのは、スタフティア共和国軍を除いてしまえば、単なる命知らずか死にたがり、そして商魂たくましい
「それが三大銘酒だぁ? おいおい勘弁してくれよ、臭いがきつくってたまんねえ」
「げははははは。こんだけ臭えと噂に聞く下等甲級〈異貌〉の〝ギャレットの砂竜〟とやらを呼び寄せちまいそうだな」
「縁起でもねえこと言うんじゃぁねえよ。そうなりゃ積んだ金も商品も何もかもご破算だ」
「大丈夫だ、大丈夫。俺は知っている。砂竜様はな、
「詳しいな。お月さんも酒が足りねえってか!」
「お月さんに分けてやる分はねえ! 一滴たりともな! ざまあみやがれ!」
男たちが下品に笑うのをよそに、スオウは空を見上げる。遥か西の空の片隅に、青白く浮かぶ大小二つの星が見える。白から徐々に色を帯び、赤を最後に黒ずんで夜の闇に溶けていく
「まあ、何にせよ、大丈夫ってのは間違いねえよ。何てったってこっちにもあの〝鬼のスオウ〟がついてるんだからよ」
サブドの部下の一人の髭面が強引に肩を組んでくる。さっき散々銘酒とやらを馬鹿にしていたのに、吐く息はだいぶ酒臭い。
「受け取った金の分の仕事はする。今夜のあんたたちは何事もなく、自分のベッドでぐっすり寝ているだろうさ。いや、酒場で酔い潰れて固い机の上で夢見心地か」
サブドたちは口笛を鳴らし、スオウに向けて下品な笑い声と拍手を送る。
本来ならば隊商はもっと剣呑な空気を漂わせ、注意深くギャレット荒野を進んでいく。彼らがこうして気を大きく緩ませているのは、これが既に帰路だからであり、それももう終盤であと数刻もすれば目的地であるプルウィア市が見えてくるからに他ならない。
〈
「鬼に乾杯!」
サブドが大仰な身振り手振りで新しく手に取った酒瓶を掲げる。部下の髭面ともう一人の痩身の男がそれに続く。
「鬼に――――のわっとぉっ! な、なななんだっ?」
突如の地鳴り。手から離れた酒瓶が荷台を転がり、薄茶の液体が床を汚していく。地鳴りはもう一度続く。今度はさらに距離が詰まる。隊商の前方から、悲鳴が聞こえた。
「止まれ止まれ止まれーっ! 一旦停止だっ!」
サブドが
地鳴りに混じって微かな悲鳴が聞こえるなか、前方から下働きと思われる粗末な身なりの少年が血相を変えて走って来る。
「て、てててててててぇへんですっ!」
「どうしたっ? 何が起きてやがるっ?」
「い、いいい〈異貌〉の奴が出やがりましたっ!」
「なんだとぉっ! くそっ、てめえが縁起でもねえこと言いやがるからだっ!」
サブドが耳までを怒りの朱に染め、髭面に向かってお門違いの怒声を浴びせる。
「畜生。積み荷はどうなった?」
「三番車までが大破。動ける人間で、四番から六番までの積み荷を運んでるっす!」
命の危険も顧みず積み荷を運び出すとは見上げた商人根性だ。その気合いに応えてか、スオウはゆっくりと立ち上がる。身に纏う剣呑は圧へと転じ、味方と理解しているはずのサブドたちでさえ思わず気圧される。
「……ここからは俺の仕事だ。あんたらは、積み荷と命のことだけ考えて引っ込んでな」
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