第102話  貧乏男爵家②

この紅茶は、領内の山間部南側斜面に自生していたお茶の木から作った物だ。


正確には発酵茶の紅茶ではなく、弱発酵茶の白茶と呼ぶべき物なのだろうが。


どこから種がもたらされたのか、冬にはかなりの積雪がある冷涼な気候にも耐えたお茶の木は、周囲に自らの茶の実を撒き散らし、そこから芽を出して生き残ったお茶の木が群生する斜面を作り上げていた。


発見した時には、ただの藪としか見えずに『猪の巣になっても困るから刈り払うか』と思ったものだ。


それが『これはお茶の木だ!』と気づいた者がいて、周囲の下草や雑木を刈り払うと立派なお茶の木であると分かった。


杉の伐採は後回しにして、お茶の葉の芽を摘んで持参していた鍋で炒って、緑茶にして早速飲んだところ、これが美味しかった。


寒暖差がある土地で育ったお茶の葉だからなのだろうか、雑味の少ない透明感に溢れた緑茶に仕上がっていた。


以後、その斜面へ出向いて茶葉を摘んで、即火入れして緑茶を作ったり、摘んだ茶葉を持ち帰って笊に広げて弱発酵させてから火入れして弱発酵茶を作ったりしている。


寄親のフォン・カレンベルク侯爵へこの弱発酵茶を献上したところ、『男爵は、極上のお茶を飲んでいるのだな」とお褒めの言葉を頂き、以後毎年献上するようになって、フォン・ハイゼ家は侯爵からの憶えが多少良くなってはいる。


「…うん、結構な味だ。これだけのお茶は、なかなか飲めるものではないな」


「豊穣をもたらして下さる主に、感謝しなければなりません。勿論、製茶をした者への感謝も忘れてはいけません」


敬虔な聖教徒である執事長ミルヒがそう言った時に、食堂の扉が叩かれた。


「誰かな?」


執事長の問いに、使用人の声がした。


「旦那様へ面会を願っているお客様がお見えです」


この朝の6時前から、一体何事だ?


「お通ししなさい」


「おお、ゾンダーではないか。こんな朝早くから、一体どうしたのだ?」


扉が開かれると、領地が隣のフォン・ライケ伯爵の執事、ゾンダーが姿を現した。


「我が主、フォン・ライケより伝言があります」


挨拶抜きで、ゾンダーがそう切り出した。


「伺おう。まず、君には一杯の水が必要に見えるが」


「先に用件を。第三銀行破綻の懸念あり。預金引き出し制限中だが、解約は可能である。直ちに口座を解約し、預金の保全に努められたし。併せて、第三銀行の株式を所有している者は、早急に売却されたし。以上、フォン・カレンベルク侯爵からの情報である、です」


説明してから、執事長が差し出した水を一気に飲み干した。


「はぁ?第三銀行が破綻する?」


「そう伝えろと、我が主より命ぜられました。この村には電話も通じておらず、電信も郵便局が開く前ですので、私が早馬で来た次第です」


…フォン・カレンベルク侯爵の弟のフォン・カレンベルク男爵は、確か第三銀行の頭取だった筈だ。


そこから、兄へ情報が流れて、侯爵が自分の寄騎の各貴族へ伝えているのだろう。


だとすると、これは本当に危ないということだ。


それを伝えに、10バイレグ(40km)もの距離を、危険を顧みず夜明け前から馬を駆けさせてきたのだ。


「伯爵の心遣い、そして薄暗い中にもかかわらず馬を長距離走らせてきた君の行為に感謝したい。この後の予定は?」


「後は、ベーブリンゲンへ戻るだけです」


「食事は、未だなのだろう?用意するので摂っていくのが良いだろう。馬も疲労していることだろうから、帰る際に代わりの馬を用意する」


「…男爵の配慮に感謝いたします」


「執事長、手配をお願いする…私は少々やらねばならぬ事ができたので、後は宜しく頼む」


そう言って食堂を立ち去り、寝室へ向かう。


「ジル、起きて。ジル、ジルヴィア、話がある」


まだ寝ている妻のジルヴィアの身体を揺すって、強引に目を覚まさせる。


「ん…あら、あなた、一体どうしたの?私、寝坊したのかしら?」


寝ぼけ声で、ジルヴィアがそう応えた。


「お前、第三銀行にヘソクリなんか預けてないだろうな?」


「あなたに隠れて、そんなことはしませんよ」


「ならいい。第三銀行が破綻するらしい」


「第三銀行って、貴族銀行の…ええっ?」


「ヘソクリ云々は、この際関係ない。預金があるなら、今から支店のあるベーブリンゲンへ行って、預金を解約だ」


寝台から慌てて飛び起きたジルヴィアだった。


「でもあなた、預金の引き出しは制限されていて」


「引き出しではなく、解約だ。か、い、や、く。フォン・カレンベルク侯爵からの伝言だ。実弟が第三銀行の頭取をしている。間違いないだろう」


「そんな、貴族銀行が破綻するだなんて…お父様は、ご存知なのかしら?」


起きて身繕いしながら、そう言った。


妻の実家は、やはりフォン・カレンベルク侯爵が寄親のフォン・エルトマン伯爵家だ。


伯爵家とは言え厄介者の三女のジルヴィアを持参金無しで娶ったからか、フォン・エルトマン伯爵からは「婿殿は、大層出来た人物である」と言われてはいる。


だが、伯爵や伯爵夫人の誕生日に贈り物をしても、返礼の品は一切無い。


伯爵家から見た男爵家など、その程度の存在なのだろう。


「それは大丈夫だ。侯爵が寄騎の全貴族に伝えている。我が家には早馬が来た。逓信省に働きかけて、早めに電話が通じるようにしてもらわないと、緊急の際に遅れを取るな」


辺境に住んでいると情報が伝わるのが遅くなり、場合によっては致命的な事態を引き起こしかねない。


「預金解約の委任状を書くので、誰か使用人に第三銀行へ行かせて下さいな」


「手配する」


「お姉様方は、このことはご存知なのかしら…」


「必要なら、義父上から連絡が行っている筈だ」


この情報は、銀行内部からもたらされた物で、この情報を基に預金を解約したり株式を売却するのは、法律違反ではないが、非道徳的脱法行為である。


情報を広めるのは、良くない。


森林へ向かう予定だったが、事情が変わった。


フォン・ハイゼ家は色々な名義に分けて、絶対に破綻しない郵便貯金へ預金している。


株式の投資もしていない。


今回のような金融恐慌の影響は、ほとんどない。


だが、金融恐慌からの不況が長引くようだと、新規の住宅需要が減って材木価格が下落するかもしれない。


それが問題だ。


亡き父に似て、髪が薄くなってきた前頭部を抱える羽目にならなければいいのだが。


フォン・ハイゼ男爵は、そう思った。












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