第44話  ネフスキ通り30番地①

レヴィニア 首都シロンスカ



まずいな。


在レヴィニア カルシュタイン大使館へ向かう馬車の中で、フーゴ・フォン・ノイラート大使は、自分の周囲が埋められていく音を聞いていた。


午後からレヴィニア外務省に招致があり、自らを含むレヴィニア大使館勤務の外交官6名の国外退去命令を伝えられた。


レヴィニア外務省は慣例として、慶事はなるべく早目に告達するよう午前中に招致し、凶事は対策が取れる時間的猶予を与えるように午後からの招致を行なっている。


昨日、レヴィニア外務省から午後に招致、の連絡があり、大使館内は騒然となった。


おそらく、マルメディアのオストマルク騒乱の件で、好ましからざる人物ペルソナ・ノン・グラータとして国外退去命令が出るのだろう、と予測はしていたが、6名もか…


しかも全員、カルシュタイン外務省情報部の工作員だ。


正体が露見していたのか?


退去猶予は、通告書の手交から24時間。


明日の午前中にはシロンスカ中央駅発の列車で、この国を離れなければならない。


大使業務の引き継ぎは後回しで、出国の準備をしなければ!


しかし、退去命令の出ている5名の外交官は、この国に細胞セルを植えつけてある。


この引き継ぎは確実に行わねばなるまい。






持ち手ドアノブに掛けられた「故障中 使用禁止」の札と扉の「故障中」の貼り紙を無視して、トイレの中へ入る。


人が入って来ないように、扉に抑止板ドアストッパーを挟み込む。


窓を開けると、ネフスキ通り30番池、在レヴィニア カルシュタイン大使館本館の車寄せが遠くに見える。


距離、570リーグ(570m)。地図で確認してある。


清掃具入れ置き場の扉を開ける。


長柄雑巾モップ刷子ブラシの間に、望遠照準器スコープ付きカルシュタイン陸軍の狙撃銃M1720があった。


鎖閂式ボルトアクション、5連発。


バケツの中の洗剤入れを探ると、M1720用の15.2モル×126(7.6mm×63)弾が5発入っている。


狩猟用の膨張弾エクスパンディングが弾頭で、薬莢内の火薬は手製装薬ハンドローディングした高速燃焼型の火薬入り改造弾薬ワイルドキャットだ。


試射した時には、距離600リーグ(600m)で20モル(10cm)の集弾性グルーピングを見せた。


今日は使うのは、1発だけだ。


ここまでの仕事は、誰かがしっかりやってくれているな。


後は射手シューターの俺が、やるべきことをやるだけだ。






歯車が狂ったのは、ハインリッヒ3世暗殺が失敗、未遂に終わってからだ。


実行犯のハーンは、フォン・ゲーリケが犯行直後に射殺する手筈だった。


だが、爆発があった現場から避難しようとする市民の波に巻き込まれて、ハーンの射殺は失敗した、


ハーンは取調べでも裁判でも完全黙秘だったが、その後に起こったことを考えると、情報を洗いざらい話したようだ。


生きて出所した者はいない、と噂されているヴェルゲル刑務所に収監されているのだから、中で色々な尋問ごうもんが行われたのだろう。


事件に関わった、メルダース、フォン・ブラウン、マイヤーは、何者かに殺害されてしまった。


報復として、マルメディアが実行したのは間違いない。


何一つとして証拠はないが、他に殺される理由が見当たらない。


フォン・ゲーリケ、ファン・デ・ポールとは12月以来、連絡が取れていない。


秘密裡に抹殺されたか?


生き残りは私だけだ。


残りの人生を怯えて暮らさねばならないのか?


本国政府が守ってくれないなら、マルメディアへ亡命して、保護と引き換えで全て話してやるのもあり、か。


いや、無理だな。


国王暗殺を企てた者の亡命と保護を期待するなんて、ヴァレーゼの砂糖菓子のように甘過ぎる考えだ。


大使公邸へ戻ったら、身の回りの物と骨董市で偶然見つけたエティエンヌの風景画を持ち出す準備だ。


妻には何と説明しようか。頭が痛い。





大使閣下のお召し物は、黒の乗馬服モーニングコートに灰色の縦縞洋袴コールパンツだったか。


寒いのに外套オーバーコート無しなんて、大使の仕事も大変だねぇ。


ま、それももう直ぐ終わるけどな。


コンココン、コンココンとドアを叩く合図が二回した。


馬車が見えた。


おお、凄ぇ!


6頭立て4頭曳きコーチかよ!


輓馬に馭者が騎乗する騎馭式か、しかしカルシュタインも無駄に金を持っているんだな。


遊底ボルトを操作して、初弾を薬室チャンバーへ送り込む。


砂袋サンドバッグを窓枠に置いて、6ストーン(4.2kg)ある小銃の被筒ハンドガードを優しく載せて固定する。


今日は気温が低い。


火薬の燃焼速度も落ちる。


600リーグで照準合わせサイトインしたこの銃だと、撃ち下ろしの570リーグだが、気持ち少し上を狙わないとな。50モル(2.5cm)程度か…






「閣下、この後ですが」


随官のファン・バイレンドンクが、そう尋ねてきた。


「公使、全参事官それに退去通告を受けた5名の政務班員を招集して、今後の対策だ。今はそのくらいしか出来ることがない」


忌々しい。


決して表には出せない工作がヴァレーゼで成功して、騎士に叙任され、そこから更に結果を出して男爵へ封爵された。


ハインリッヒ3世暗殺が成功していれば子爵に陞爵、いずれは伯爵へ、のつもりだったが、今の有様はレヴィニアから国外退去とは。


まぁいい。


どんな人間だって、失敗したことはある。


負けたこともある。


そこからどうやって巻き返すかで、その人間の価値が決まる。


このまま終わらせてなるものか!





車寄せに馬車が止まった。


乗降の台が運ばれてきて、馬車脇に置かれた。


馬車の扉が開いた。


望遠照準器の十字が、馬車から降りた大使の肩から下300モル(15cm)の位置で重なろうとする寸前…


滑らかに引きトリガーを引いた。










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