07 アイキャンノット?
運動不足って怖い。
私はまだ十代だからか、筋肉痛が翌日にきた。三日間、ほとんど動けなかった。
思えば専門学校の冬休みに入り、バイト先のベーグル屋とアパートの往復が主だった。
朝起きて、徒歩十分で駅から電車。下車してからは歩いて約十分の場所にバイト先。さらに買い物は駅の中にある商業施設、駅に隣接した大型スーパー。遊び場も大体その周辺である。
アパートはオンボロだったが、なんて好条件な私の生活動線。
運動? ラジオ体操だってご無沙汰だ。
空から落ちて、木の枝をつかんだ時、腕がぶちっと取れなかった事が不思議なくらいに…。
(今、肩から何から、ギシギシ悲鳴を上げているけど)
トイレだけは自力で行ったが、未だ風呂には入れていない。
臭い? ノンノン。
そういう問題は次元の外だ。
それに臭いを気にする、乙女が発動する相手など側に居ないのだから。この数日、エルビーと髭の医者以外会っていない。
見た目は二十代半ばのエルビーは申し分ないが、私は彼に対して恐怖の偽装山菜取り、誘拐トラウマを持っている。三十代から四十代の髭の医者に関しては、年齢が離れすぎていて私の恋愛対象にはない。
私、彼氏いないのに理想だけはしっかりと持っている。
理想だけは、しっかりと持っている。
譲らない。
譲れない。
(そもそも譲る相手がいない…。妄想のみ)
ハゲとデブ、どっちを選ぶ?
彼氏のいない女の集い。その中で人生の行き着く先を選択させられた事がある。男性の人生でたどり着く終着駅に、この二択は外せないのだと議論がなされたのだ。
回答者その一。
ーーハゲは本人の努力の範疇外だけど、デブは努力によって改善されるのでは?
回答者その二。
ーーでもね、会社のストレスとか、取引先との接待で、本人が意図せずに中年以降にお腹は出てくるものなの。
議題の提案者。
ーーで、どっちを選ぶ?
回答者その三。
ーーそもそも、何故その二択なのですか? 世の中には、ハゲでもデブでも無い人も多いはず! 中肉中背の人びと、または生え際の後退はハゲの内に含まれるのですか?
今現在、選ぶ相手もいないくせにの、この妄想議論はそこそこ白熱してしまう。
虚しいのである。
男性からしてみれば、女性に対しての二択は何だろう。彼らからしてみれば、また別の発想で女性の行き着く先の想定があるだろう。女性ホルモンの減少による、おばさんのおじさん化などは、本物のおじさんは大目に見てくれるのであろうか?
(おじさん化、太る事や皺は同じだろうし、デブ…加齢臭? でもそれも男女共に発生するし…)
加齢臭、におい…。
においといえば、お風呂…。
お風呂といえば、入っていない三日目突入。あえて言えば、頭皮のしっとり感や頭の痒みにいらいらしてきた。痒み、ベタつき、苛立ち、それを解消するお風呂とは、やはりとても大切なのだ。
(彼氏居ないのに譲れない妄想議論終わる。そしてまた、やることも特になくなった…)
全身から痛みが抜けない私は寝転がり、日がな一日ぷるりんを撫でたり、ぷるりんに話しかけたりしていた。
返事の返らない独り言。
スライムに話しかける私、痛々しい?
(だって、暇なんだよね…)
たまにやって来るエルビーは、にこにこ私を観察しているが言葉は全く通じ無い。彼は気を遣って私の言葉を覚えようと反復してくれているのだが、状況的に私が学ぶ方が良さそうだ。
異邦人は、私なのだから。
**
その後、ようやく動けるようになった私は、まずお風呂を希望したのだが、なんと親切な事に、髭がお風呂の使い方を一から教えてくれそうな雰囲気だ。
(確かに、今のところ女性スタッフの姿を見てないけれど、髭…。まあでも、髭はお医者さまだから女風呂でも問題ないか)
我が国では十分問題になるとは思うが、ここは異国なのである。
「******」
渡された粗目のタオル。指さし確認。分からない異国語の説明に、なんとなく雰囲気で頷く私。退室した髭を会釈で見送ると、振り返り現場を再確認する。
そのお風呂だが、お湯の張られた風呂では無かった。
(湯気は出てるし温いけど、)
熱した石の温かい部屋にお湯の流れる水場があって、そこで身体を洗うのだ。石鹸は液状では無く固形。女心のかけらも無い、切りっぱなしのごつごつした塊である。それを、渡された目の粗いタオルで必死で泡立てる。
(無臭。頭から全身利用の自然派石鹸?)
コンディショナーなんて無い。なので洗髪後のゴワゴワ感はいなめない。髭の黒髪が馬のシッポになっている理由が分かった。
脱衣所には新しい服が置いてあり、以前着ていた物に近い衣服を身につける事が出来た。驚いたのは厚手のタイツがあったこと。素材は私が使用していた物よりも更に厚地で丈夫そうである。
着替えといえば、実は全身筋肉痛が発覚した時、入院寝間着に着替えさせられたのだ。髭に。
無表情な髭は、痛みに動けない私をつるりと剥いた。年頃の女性の裸を事も無げに、介護人の鑑としてテキパキと薄手の寝間着に着せ替える。
(…まあ、医療従事者に、全てさらけ出す事に抵抗はないけれど、でも、)
深く考えない様にしよう。
髪をまとめ終わると、ぷるりんが肩に登ってきた。かわゆい。私のいやし。
この子が生きていたと、ほっとしたのは二日前。トイレに起きた時に頭に登ってきたのだ。以来、私が移動する時には必ず付いて来る。だが寝間着を脱いでお風呂場に入る前に、ぷるりんは居なくなっていた。脱衣所に隠れてしまったのだろうと思う。
もしかすると、お湯や水が嫌いなのかもしれない。トイレに入ると、逃げるように廊下に出てしまうから。
風呂場から廊下に出ると、クールな表情の髭が待っていた。彼の名前はメアーさん。私の中では最早父…は失礼だから兄。表情は厳めしいが、よく見ると美形なのだ。
切れ長の茶色の目、通った鼻筋、きれいな形の顎も髭を剃れば完璧だろう。ついでに髪も切ればいい。絶対モテると思う。
「メアーさん。私、終わる。風呂。ありがとう」
彼は鋭い目つきだが、私に一つ頷いてくれる。後に付いて行くと、久しぶりの顔ぶれが待っていた。
黒豹、悪漢、チャラソウが居る。
プチ宴会以来だ。ここは事務所のような場所で、各机には山積みの書類を、事務員が何やら検索している。メアーさんはチャラソウと話し始めて、ぼんやり隅っこに立つ私を悪漢が呼んだ。
「*****、**、******」
『こんにちは…』
ほぼ悪漢の顔ぶれの中、なぜ彼だけを悪漢と呼ぶのか?
それはこの館の入り口で、初めて出会った悪漢だからだ。初めての記念に、彼を悪漢の中の悪漢と命名しました。
キング・オブ・悪漢。
実のところ、前の宴会で本名を聞いたが、残念ながら忘れてしまったのだ。失礼な私である。
(たしか、ロー…なんとか。今度は覚えよう)
事務所の奥の一角に、応接ソファーを発見する。私はその一つに座らされて、おもてなしのお菓子を与えられた。
(糖分うれしい。遠慮なく一つ頂きます!)
あむっ。
ジャリッ!
『……、』
なんだ、これ?
砂糖が硬い。マカロンのような見た目の菓子に砂糖がかけてあったが、うっかり噛みつくと、これは前歯に危険だ。まるで氷砂糖、柔らかいを想像出来るマカロンにまぶす物では無い。
お茶を飲んで辺りを見回すと、人は多いが、その中にエルビーは居なかった。
今日はまだ、彼を見ていない。
「エルヴィー*、****?」
きょろきょろしていた私を見た、黒豹にエルビー捜索を察知された。彼を好きみたいな私。恥ずかしいのである。
(でも、毎日会っていると、居ないと気になる)
それはそうと、ここの人達は皆長身だ。家具の仕様も彼らの足の長さに合わせてあるから、必然的に私の足は床からぶらんと浮いている。浅く腰掛けているにも関わらず。
背もたれなんて、利用した日にスカートなんて穿けば、椅子から降りる度にパンツは丸見えだろう。まるで人形のような座り具合になるはずだ。
異文化と足の長さに己を卑下していると、ほどなくチャラソウが私の前に座った。彼は笑顔は王子様だが、怒れば映画のマフィアの幹部のようだったので、あれから一目置いている。
しかし、少し垂れ目の甘いお顔だち…。
まじでチャ・ラ・そ・う…。
チャラソウが黒豹に何か言うと、彼は私の前のお菓子を取り上げて、代わりにペンと紙を置く。するとチャラソウがにこにこ私に話し掛けて、それから勉強会が始まった。もちろん、私の言葉の勉強である。
(なんて言うのかなー…、順番が違うんだ。言葉の配置の。そう、英語に似ているような…。主語、動詞…これは目的語?)
はい。得意ではありませんでした。実戦はカタコトジェスチャーで押し通していました。ここでもそうしようと思っていました。エルビーとメアーさんはそれで通じていました。
でもチャラソウはしつこかった。
怒らすわけにもいかない。別に覚えるのが遅いと恫喝するわけでも、指を詰められそうになるわけでもない。教える事に粘り強い。根気強い。粘着性を感じる。
繰り返し繰り返し、繰り返し繰り返し。
はい、次も。
繰り返し繰り返し、繰り返し繰り返し。
(この人、結婚してるのかな…? 彼女か奥さん、大変なんじゃないかな…)
エルビー! 助けて!
今は居ないエルビーより、メアーさんに助けを求めようと探す。
…しかしもう、彼は部屋にはいなかった。
時折、黒豹と悪漢が様子を見に来て、ニヤニヤにやついて去っていく。
『……』
八時間後、私は解放された。
もちろん合間に休憩と食事はあった。しかし、びっちり言葉の勉強だったのだ。ご飯の時にもチャラソウが側に居て、全て何かを頭と胃袋に詰め込まれた。
ギブ! ギブギブ!!
容量オーバースペック!
キャパシティブレイク!
私はゆとり教育賛成派である。詰め込み教育反対派である。
夜にエルビーが迎えに来た時は泣けた。もっと早く来てほしかったと覚えたての現地語で喚いたのだが、それを聞いたチャラソウ先生は、私の言語理解能力に不満を持ったのかこう言った。
「また、明日な」
これって、追・試?
…理解出来てしまった事が悔しかった。
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