第71話 知ってる顔と知らない顔
「あれ? アリスちゃんじゃん。やっほー!」
ある日のお昼前、街をお散歩をしていたらいきなり声をかけられた。
見ると、離れた場所に井上さんの姿がある。返事をしようと思ったら、それよりも早く、井上さんが手を振りながら走ってやってきた。
「一人なんて珍しいじゃん。みゃーのは一緒じゃないの?」
「はい。お姉ちゃんはお店のシフトに入っているので」
「あー、そういやそうだったかも」
自分から訊いておいて、井上さんはそれほど興味なさそうだった。
「で、アリスちゃんは何してんの?」
「お散歩です。せっかくのいいお天気なので」
ふーん、とまた気のない返事。
挨拶をしてもう行こうかなあと思っていると、
「よっし! そういうことなら、アリスちゃん、今日は私の相手してよっ!」
「えっ」
意外過ぎる言葉に、思わず目を丸くしてしまう。
「……私はいいですけれど……井上さんはいいんですか?」
「うん。わたしゃ今日暇だからのぅ。相手してくれると助かるんじゃ」
何故か嗄れ声でいう井上さん。おかしくてちょっと笑ってしまった。
「そういうことなら……いいですよ。ご一緒します」
「おっしゃ! そうと決まれば……」
ガッツポーズをした井上さんは、
「行こうアリスちゃん!」
一人ですたすたと歩きだしてしまって、
…………
……………………
「え、えっ? 行くってどこにですか!?」
私は慌ててその後を追うのだった。
「やー、ごめんごめん。まだどこ行くか決めてなかったよね」
しばらく歩き回った後で、井上さんは唐突に思い出したのか、それとも私の声が聞こえたのか、ピタッと足を止めた。
「アリスちゃん、行きたいとこある?」
「そうですね……いい時間ですし、お昼ご飯を……」
「お、なんか人だかりできてる。ちょっと行ってみようぜー」
「食べたいです……って、井上さん!?」
私がしゃべっている途中にしゃべりだした井上さんは、走り出してしまった。
その先には、確かに人だかりができているけれど……
な、なんてマイペースな人っ! もうちょっと、こう……落ち着いてほしい!
集まっているのは、みんな若い女性ばかりだった。
井上さんが聞いたところによると、新作の化粧品の路上販売らしい。
新作かあ。お姉ちゃんに買っていこうかな……
「よさそうじゃん。みゃーのに買っていったら?」
商品を見ていたら井上さんに言われた。
……もしかして、分かってて私に教えてくれたのかな?
「うっわ、高いのばっか。やっぱ化粧品は恋人に買ってもらうに限るね」
……いや、そういう訳じゃないっぽい。
とはいえ、高いだけあって良質な品みたい。
ちょっと悩んで、私はお姉ちゃんに口紅を買っていくことにしたのだった。
「あれ? そういえば何の話してたんだっけ?」
買い物を済ませた後、井上さんが不思議そうに言った。
冗談なのかなーと思っていると、
「おっかしいなー。アリスちゃんに今日はみゃーのと一緒じゃないんだって言ったとこまでは覚えてるんだけど……」
いや、冗談ですよね。
それかなり最初のほうですけど。
驚きつつも井上さんに状況を説明。
すると、井上さんは「あー、はいはいっ!」と元気よく頷く。
「そうだったそうだった。じゃ、さっそく食いに行こうぜーっ!」
「そうですね……って、だから待ってくださいってば!」
まだどこで食べるか決めてないじゃないですか!
と言う暇さえないままに、私は井上さんを追いかけた。
結局、お昼はおいしいパスタを出すお店があるというのでそこで食べた。
私は、井上さんにバレないよう、秘かにため息をついた。
なんだか妙に疲れてしまった。
お姉ちゃん、井上さんと仲いいけれど、いつもこんなふうに疲れてるのかなあ。
ていうか、かなりタイプが違うように見えるけれど、どうやってお友達になったんだろう?
でも、お友達ってそういうものかも……
「アリスちゃん」
私の思考を止めるように、今まであっちへこっちへ行っていた井上さんは、今度は足を止めた。
「な、何ですか?」
今までのことからちょっと身構えてしまったけれど、井上さんはとても真面目な表情をしていた。
どうしたんだろう? 何か深刻な話かな……
いや、でもお姉ちゃんが言ってたっけ。真面目な顔をしている時こそ、ろくな話をしないって。
今回も変なことを言うんじゃ。私の顔に何かついているのかな……
「ありがとうね」
突然お礼を言われて、ギョッとなってしまった。
「どうしたんですか? 今日のことなら……」
「うぅん、そうじゃなくて。言ってるのはみゃーののことだよ」
「お姉ちゃんの?」
余計に意味が分からず首を傾げてしまう。
「アリスちゃんが来てから、みゃーのはすっごく楽しそうだからさ。
前のみゃーのはさー。ちょっと冷めてるっていうか、クールなところがあったんだよね。でも、今のみゃーのはねー。時々見てるほうが恥ずかしくなるからさー」
あははと笑う井上さん。
そこにはいつもの飄々とした雰囲気はなくて、とても真摯な態度だった。
私が知らないお姉ちゃん……
それをこの人は知っているんだよね。妬けちゃうなあ。けれど……
気になる。
私が来る前、お姉ちゃんはどんな風だったんだろう……?
「あ、そうだった! 私行きたいところがあったんだ! 行こうアリスちゃんっ!」
「えっ!? ちょ、だから待ってくださいってば! 私ヒールなので……きゃっ!?」
井上さんがいきなり私の手を引いて走り出したので、私はバランスを崩して転びそうになってしまうのだった。
「はぁ~~~~……」
その日の夜。お姉ちゃんの部屋で休んでいた私は、思わずため息をついてしまった。
「どうしたの? なんかお疲れみたいだね」
「実はね……今日お散歩してたら井上さんに会って、二人でランチしたんだけれど……」
そこで言葉に詰まってしまった。
……どうしよう? なんて言おうかな。お姉ちゃんのお友達だし、あんまり失礼なことは……
「あ~。だから疲れてるんだ? あいつ自由だもんね」
そうだった。
お姉ちゃんて井上さんには結構容赦ないんだった。
私は「ちょっとだけね」と答えて、
「お姉ちゃんてさ、私が来る前はどんなふうだったの?」
「え、どんなって……どういうこと?」
お姉ちゃんは不思議そうに目をパチクリさせている。私は、今日井上さんから聞いたことを説明した。
「うーん、どうって訊かれてもな……普通だよ? バイトしたり、たまに遊びに行ったり」
「それって、井上さんと?」
「そういう時もあったけど……あとはゼミの人たちとか」
「ふーん」
そういえば、たまに帰りが遅くなる時もあるよね。そういう時も、お友達と遊びに行ってるのかなあ?
そのくらい普通だよね。私も星野さんとお出かけするときあるし。分かってはいるけれど……
「うーーん……」
「どうしたの? どこか痛いの?」
唸っていると、お姉ちゃんは心配してくれた。
それ自体はとっても嬉しい。けれど……
「ズルい……」
「えっ?」
予想外の言葉だったのか、お姉ちゃんはキョトンとしている。
けれど、私は構ってはいられなかった。
「井上さんも、ゼミの人たちも、私が知らないお姉ちゃんを知っているんでしょ? ズルいよ」
「そ、そんなこと言われても……」
お姉ちゃんはちょっと困った顔になった。見たことある顔だ。
「ねえ、お姉ちゃぁん。見せてよ。私が知らない顔……」
「ん……っ」
首筋をペロッと舐めると、お姉ちゃんはくすぐったそうな、ちょっと恥ずかしそうな顔をした。見たことある。
「違うよ。私が知らない顔を見せてほしいの」
「えっ? ちょ……きゃっ!?」
力任せに押し倒す。
そしてお姉ちゃんの体に触れると、ビクンと震えた。
優しく撫でまわすと、お姉ちゃんの顔はすぐに真っ赤になった。
羞恥と期待が混ざり合った、切なそうな顔……
とっても素敵な顔だけれど、何度も見たことがある。
「そういうのじゃなくって、私が知らない顔を見せてほしいのにぃっ!」
もどかしさから言ってしまうと、お姉ちゃんはちょっとムッとした顔になった。
「もう我がままばっかり言わないのっ!」
怒られた。
その顔は、赤くなってはいるけれど、羞恥とは違う。
それに、ただ怒っているのとも違う。まるで、聞き分けのない子供に言い聞かせるみたいな……
「えへへっ」
「な、なんで笑ってるの?」
「私が知らない顔だぁ」
初めて見る顔に私のテンションは上がる。
「ねえ、お姉ちゃん。もっと怒ってほしいな」
「お、怒るって……」
「さっきみたいに叱ってほしいの」
言って、私はお姉ちゃんの体に触れる。
敏感なところ、弱いところ、どこを触ったらどんな反応をするのか、私は全部知ってるんだから。
「お姉さまぁ、わがままなアリスをもーっと叱ってくださいな」
お姉ちゃんの体に触りながら、耳元で囁く。
「も、もうっ! アリスちゃん!」
「やーん、お姉ちゃんが怒ったぁ~」
きゃーと身をよじって逃げるフリをする。すると、お姉ちゃんに抱きしめられた。
「お、お姉ちゃん……?」
意外な反応に面食らっていると、
「ん……っ!?」
今度は唇を塞がれた。
今日のキスは、今までとはちょっと違う味がする。何だろう、いつもよりドキドキする……
唇が離れたとき、私は息が上がっていた。
それはお姉ちゃんも一緒で、顔にも朱を散らしている。
「わ、わがままな子には……お仕置き、だよ……」
そんなことを、恥ずかしそうに言われて、
私は……私は……
「お姉ちゃんかわいいーーーーーーーーっ!!」
お姉ちゃんを力いっぱい抱きしめた。
すると私の腕の中にお姉ちゃんを感じられて、さらに抱きしめる力が強くなる。
「ねえ、お姉ちゃん。お姉ちゃんてどうしてそんなにかわいいの?」
「えっ? わっ、わかんない、です……」
照れているのか、お姉ちゃんは私から視線を逸らして瞬きを繰り返している。
その仕草がまたかわいくて、私の感情はもう決壊した堤防みたいに溢れ続ける。
「お姉ちゃ~~んっ。うりうり~~~~」
「お、落ち着いてアリスちゃん……ねっ?」
「落ち着いてるもん……えへへ、お姉ちゃんいい匂い……ぺろりっ」
「んっ。……なんで舐めるの……?」
「舐めたいから。……んっ、お姉ちゃんおいしい。ぺろっ」
「んんっ……もう、アリスちゃん!」
どうも調子に乗りすぎちゃったみたい。
お姉ちゃんは怒ったような顔をして私を見てくる。けれど……
「はむっ」
「きゃっ!?」
私の腕の中で、お姉ちゃんの体が大きく震える。
肌が擦れあって、気恥ずかしさと共に、変な気持ちがこみあげてくる。
お姉ちゃんは耳が弱いことを私は知ってる。
耳を甘噛みされるのが好きなことも。
甘噛みしながら体に触ると、お姉ちゃんは顔どころか、首元まで真っ赤にしてしまう。
それは恥ずかしさだけじゃなくて、これからされることへの期待もあるのも、私は知ってる。
知ってる顔だ。
何度も見た、私の大好きな顔……
「きゃぁっ!?」
悲鳴が自分のものだとは、最初は気づかなかった。
突然与えられた刺激に、私の体はピリピリ震えて、抱きしめていた手の力は弱くなり、何かに耐えるようにお姉ちゃんの服の裾をつかむ。
「……んっ、聞き分けのない子にも……お仕置きだよ。はむっ」
「ひゃっ!?」
もう一度刺激が来て、ようやく何をされたのかが分かった。
私、お姉ちゃんに耳を甘噛みされてる。いつも、私がしているみたいに……
「お、お姉ちゃん……ぁっ、くすぐった、ぃ……っ」
「んっ。アリスちゃんも、耳が弱いんだね。かわいいよ……はむっ」
「お、お姉ちゃぁん……っ」
「だめ。お仕置きなんだから、やめてって言ってもやめてあげないんだから」
「……もっと、もっと、やってぇ……」
「だからやめてあげ……え?」
「もっとやってほしいの。お姉ちゃん、お願い……」
「え? いや……あれ?」
お姉ちゃんが動揺してる。……どうしたんだろう?
けれど、今の私にはそれを気にしていられるほどの余裕はなかった。
「ねえ、お姉ちゃん。お姉ちゃぁん……っ」
「……も、もうっ! どうなっても知らないから!」
怒ったように言ったかと思うと、お姉ちゃんは半ばやけくそ気味に私の耳を甘噛みしてきた。
それは、私が初めて見る顔で……
私が知らない顔も、知っている顔も、どちらもお姉ちゃんの魅力に変わりはなくて。
だから知らない顔を見ると、こんなにも嬉しいんだ。
好きな人の、新しい魅力を見つけられたから。
これからも、もっともっと見つけたいな。お姉ちゃんの魅力を。
お姉ちゃんのすぐ傍で。
「お姉ちゃん、愛してるよ……」
これからも、ずっと――
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