第69話 世界で一番甘い日 後編
「ふぃいい~~……」
営業を終えると、また大きなため息が。
でも今度は私じゃない。井上だ。
「オーナー。今日めっちゃ疲れちゃいましたよ~。せっかくのバレンタインだったのにぃ~」
井上は唇を尖らせつつ、ブーブー絡んでいる。
……そういえば、今日は井上は何も予定なかったんだろうか? バレンタインなのに。
コイツのことだ。バレンタイン中だけでも恋人作る! なんて言い出しかねないと思うけど……
オーナーも同じことを考えたらしく、私が考えた通りのことを訊いていた。
曰く、「バレンタイン近くだとみんな恋人持ちなんすよ~」とのことだった。
なかなか思い通りにはいかないものなんだなー。私も人のこと言えないけどさ。
井上は「私のバレンタインが始まる前に終わっちまったー」と嘆いている。
その言葉も、私にとっては他人事じゃない。でも……
私は決意を新たに、気合を入れ直すのだった。
「ふぅ~~~~……」
家に帰って、湯船に浸かった私は、思わずため息をついてしまった。
今日はすごく疲れたなあ。
オーナーから忙しくなると思うとは聞かされていたけれど、あそこまでとは……
私はバレンタインに日本にいたことはないから、日本のバレンタインは初体験だ。
イギリスでは男性から女性にプレゼントを渡すけれど、日本はその逆で、チョコレートを渡すんだっけ。
お姉ちゃんは、私にチョコレートくれるのかな?
うーむ、と唸ってしまう。
一緒に入ろうと思っていた……というか、当然一緒に入るんだと思ってたのに、後で入るって言われちゃったし。
どうしてだろう……ハッ!
唐突に気づく。気づいちゃった。
そっか……お姉ちゃん、私がまだプレゼント渡してないから怒ってるんだ!
今朝渡そうとしたら渡せなかったからなあ。
仕方ないなあ。お風呂はもう上がって、プレゼント渡さなきゃ!
思いつくや実行すべし! 湯船から出た、まさにその時だった。
フッ
突然、電気が消えた。
いきなりのことでビックリしたけれど……電球が切れたのかな?
おばさんに報告したほうがいいよね。替えがあるなら付け替えないと、お姉ちゃんも困るだろうし……
私の思考を遮ったのは、お風呂場のドアが開く音だった。
続いて、誰かが入ってくる気配がして、後ろから抱き着かれた。
流石に体が強張っちゃったけれど、すぐに気づく。
「どうしたの? お姉ちゃん」
私の体に回された手に自分のものを重ねる。すると、お姉ちゃんの体は小さく震えた。
けれど、返ってきた反応はそれだけ。お姉ちゃんは何にも言ってくれない。
一体どうしたんだろう……?
疑問に思いつつ、もう一度呼びかけようとした時だった。
「あのね……っ」
お姉ちゃんはようやくそれだけを言ってくれて、でもまた口を噤んでしまった。
今度は、私はお姉ちゃんの言葉を待つことにした。
すると、待つほどもなく聞こえてくる……
「イジワル……」
けれど、それは予想外の言葉で、私はとっさに何も言うことができなかった。
「どうして、最近言ってくれないの……?」
「え……?」
言ってくれない? 何の話だろう。キョトンとしてしまうと、後ろからムッとした雰囲気が伝わってきた。
「前はよく『結婚しよう』って言ってくれたのに、アリスちゃん最近ちっとも言ってくれないっ! だから私、すごく不安になっちゃって、もう言ってくれないのかなって、そんなことばっかり考えちゃって、それで……」
もうこれ以上、待つことはできなかった。
私は振り向くと同時に、お姉ちゃんの唇を塞ぐ。
すこし触れ合えば、もっともっとって、自然と求めてしまう。いつの間にか、私はお姉ちゃんを壁際まで追い詰めていた。
思い出すのは、私がホームステイをしに来て、初めてお姉ちゃんとお風呂に入ったときのこと。
……正確には、私があとから無理に入ったんだけれど。
そう。今日のお姉ちゃんみたいに……
「大好きだよ、お姉ちゃん。愛してる……」
「うん。私も」
お姉ちゃんは、期待するような目で私を見てきた。
だから私は、
「ねえ、あとで私のお部屋に来てくれる? 渡したいものがあるの」
耳元で、そっと囁いたのだ。
お風呂から上がって、私はお姉ちゃんの手を引いて自分の部屋に戻った。
「今日はなんだか疲れちゃったね~」
「そうだね」
「お姉ちゃんて、大学生になってからあのお店で働いてるんだよね? 去年もやっぱり忙しかったの?」
「うん。同じくらい忙しかったと思うよ」
「そっかー」
なんて話している間も、お姉ちゃんはソワソワした態度だった。
「あのね、お姉ちゃん」
かわいらしい様子をもっと見ていたかったけれど、私は本題に入ることにする。
「言わなくなったのには、理由があるの。バレンタインて、日本ではチョコレートをあげるみたいだけれど、イギリスではプレゼントを贈る日なんだ。だからね……」
どうしよう、ずっと前から今日渡そうって決めていたのに。いざ渡すとなると、すっごくドキドキする。
お姉ちゃん、受け取ってくれるかな? 喜んでくれるかな? 重いって思われないかな……
頭には後ろ向きな考えばかりが浮かんで、でも消えてはくれず、おかしくなりそう……
ぎゅっ
突然、私の手を温かなぬくもりが包み込んでくれた。
それはあっという間に体いっぱいに広がって、私の胸の内まで温めてくれる。
「大丈夫だよ。私、待つから」
お姉ちゃんがやさしい声で言ってくれる。まるで、私を安心させようとしてくれているみたいに。
「お姉ちゃん。これを受け取ってほしいの」
背中を押された私の口からは、ビックリするくらい簡単に、言葉が出てきた。
私は、お姉ちゃんの手を握り返して、その指にプレゼントをはめ込んだ。
「これって……」
「指輪、だよ」
目を丸くしたお姉ちゃん。私はその目をまっすぐに見て言う。
「これをあげたかったの。私ね、お姉ちゃんに喜んでほしくて、たくさん働いたの。お風呂場で私の告白を受けてくれた時から、今日のことを考えてたんだよ」
うぅ、ドキドキする。何だか胸がいたい。
私は続ける。痛みを誤魔化すみたいに。
「恋人同士になったんだから、次に言うときは、言葉だけじゃなくて、形も一緒に贈ろうって……」
一度言葉を切って、もう一度、お姉ちゃんの手を握る。
「大好きだよ、お姉ちゃん。昔からずぅっと。私の気持ちと一緒に、この指輪を贈ります。だから……」
「結婚してください」
その言葉は、私のものじゃない。
目のまえの、世界で一番愛しい人の言葉だ。
「大好きだよ、アリスちゃん。私も、アリスちゃんと結婚したい。うぅん、してくださいっ」
「お姉ちゃーーーーんっ!!」
私はお姉ちゃんに飛びついた。
「お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃぁああああああああああああんっ!!」
「な、なに!? なになになんなのっ!?」
勢い余って押し倒しちゃったけれど、お姉ちゃんは気にする余裕がないくらい動揺してるみたい。
けれど、正直私もあんまり余裕がない。
お姉ちゃんが、お姉ちゃんがあ……
ついに、ついに私と……
「するするっ! 一杯する毎日するずっと結婚しようねお姉ちゃん!」
「落ち着いて!? 何か意味分からないこと言ってるよ!?」
「お姉ちゃ~~ん。うりうり~」
「も、もうっ! 落ち着いてってば……っ!」
い、いきなりお姉ちゃんにキスされた!?
ま、まさか誓いのキス!? もう、お姉ちゃんてば気が早いんだからっ!
でも……
ああ、幸せだなあ。
お姉ちゃんとこうしていると、細かいことなんてどうだってよくなっちゃう。
幸せ。ただただ、幸せで……
「落ち着いた?」
「……うん」
嬉しさのあまり、ちょっと変なテンションになっていた気がする。
「お姉ちゃん。あの……」
「本気だよ、私」
私の言葉を遮るようにして、お姉ちゃんが言った。
いつもの優しい顔と声。
けれど、今は強い意志が宿っているように思える。
思えたんだけれど、次の瞬間には「だ、だからね」と、照れたみたいな、困ったみたいな顔と声に変わった。
「そろそろ、気づいてほしいんだけど……」
お姉ちゃんが恥ずかしそうな顔をして私を見てる。
どうしたんだろう? ハッ!?
そ、そっか。分かった。お姉ちゃん、私とエッチしたいんだ!
もう、仕方ないなあ。結婚式の前に初夜だなんて。それなら……
「やっ!? ちょっと、止めてよアリスちゃん!」
本気で怒られた。…………あれ?
「そうじゃなくて、もう……これだよ……」
お姉ちゃんはまた私の手を握って、私の指に触れてきた。
正確には、その指にはめられた……
「指輪……」
なぞるように言う。
私の薬指には、銀の指輪がはめられていた。
「私もね、ずっと考えてたの。今日のこと。海外ではプレゼントを渡すって映画で見たから、これを渡したくて。お風呂場で告白された時から、この日のためにお金貯めたんだ……」
「お姉ちゃーーーーんっ!!」
お姉ちゃんを抱きしめる。抱きしめまくる。頭を撫でたりおしりを触ったりする。
「ちょっ……変なとこ触らないでよっ」
怒られた。
ふとお姉ちゃんと目が合う。
何故だかおかしくて、二人して笑ってしまう。
「私たち、同じこと考えてたんだね」
お姉ちゃんは、なんだかとっても嬉しそうだった。
だから、私も余計に嬉しくなる。
二人で同じことを考えていたんだ。
同じ気持ちで、同じことを。
「お姉ちゃん。結婚してくれる?」
「うん。する。うぅん、したい」
少し恥ずかしそうに笑いながら、でも、お姉ちゃんはハッキリと言ってくれた。
私が、ずっと……ずっとずっと待ち望んでいた言葉を。
もうそれ以上、言葉なんて必要なかった。
私たちはそっと唇を重ねて、触れ合い、お互いを求めあったのだった――
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