第67話 その唇は何の味?

「ん~……」


 ある日の夜。


 いつものように私の部屋でゴロゴロしていたアリスちゃんは、ちょっと困ったような声をだした。



「どうしたの?」


 スマホから顔を上げて見ると、アリスちゃんは上唇で下唇を噛んでいた。


「なんかね、唇が乾燥しちゃってるの……お姉ちゃんは大丈夫?」


「うん。リップクリームつけたら?」


 すると、アリスちゃんは口のへの字にして「なくなっちゃったんだー」と言った。


 それから、舌で唇をペロリと舐める。



「唇、舐めないほうがいいよ。余計に乾燥しちゃうから」


「んー。分かってはいるんだけどねー……」


 なんて言っている間にもまたペロリ。よっぽど気になるらしい。


 仕方ない、そういうことなら……



「アリスちゃん、ちょっとこっちおいで」


「? ……うんっ」


 キョトンと首をかしげたアリスちゃんは、でもすぐに何かに思い至った顔になると、嬉しそうに私のところまできた。



「あのね、舐めてばっかりいると乾燥しちゃうし、切れちゃうかもだから、私の……んむっ!?」


 いきなり唇を塞がれた。


 驚きで一瞬体が強張ったけれど、いつもと同じ心地よさにすぐにほぐれていって……っていやいや!



「っ……きゅ、急にどうしたの? アリスちゃん……」


「え? だってお姉ちゃん、私とキスしたいんじゃないの?」


「違うよ!? 何でそんな話になってるの!?」


「えっ?」


 すると、笑顔だったアリスちゃんの顔は一気に曇る。



「違うの? お姉ちゃん、私とキスしたくないの……?」


 泣きそうな顔で問われて、私は焦ってしまう。


「いや、その……したいはしたいけど、今はそうじゃなくって、唇乾燥してるんでしょ? だから、私のリップクリーム塗ってあげようと思って」


 すると、アリスちゃんは「そうだったんだー」と安心したように笑って、


「もう、ビックリさせないでよ……」


「それ私のセリフなんだけど」



 まあ、それはもういいや。


 アリスちゃんが突然アレなことするのは今に始まったことじゃないし。


 それよりも今は、



「ほら、クリーム塗ったげるから、じっとしてて」


「はあい」


 アリスちゃんは目をつむって、唇をつぐんでちょっと突き出してくる。


 無防備に、私に全部委ねているみたいに。



 ……なんか、まるでキスを待っているみたい。


 一度そう考えたらなんだかドキドキしてきて、唇を触れ合わせたくなってくる、けど……


 ダメダメ! ついさっき自分で言ったんだから!



 私は、アリスちゃんの唇にそっとクリームを塗る。


 桜色のきれいな唇にクリームを塗ると、部屋の明かりを反射してキラキラ輝いて見えた。



「はい。もういいよ、アリスちゃん」


「ありがとー、お姉ちゃん」


 嬉しそうに笑って、そっと下唇に触れたアリスちゃん。


 ちょっと考えるような顔をしたと思ったら、



 ぺろっ



「こらっ。どうして舐めるのさ」


「なんだろ、これ……ちょっと甘い……?」


「オレンジ味だからじゃない? それよりアリスちゃん……」


「ふーん、オレンジ味かあ……ぺろっ」


「こら! 舐めたらダメだってばっ!」


 私が止めるのも聞かずにぺろぺろ舐めるアリスちゃん。……そんなに美味しいのこのリップクリーム。



「ごめんごめん、ちょっと気になっちゃって」


 ペロッと舌を出して謝ったアリスちゃんは、リップクリームに手を伸ばして「貸して」と言った。


「今度は私がお姉ちゃんに塗ってあげる」


「え? 私はいいよ。今あんまり乾燥してないし」


「お姉ちゃんに塗ってあげたいの。……だめ?」


 うぅ。やっぱりズルいよその顔。


 そうやっておねだりされたら、私は断れるはずもなくて……


 結局、「じゃあお願い」と言ってリップクリームを渡すのだった。




「お姉ちゃん、じっとしててね」


「うん……」


 私は目を閉じて、アリスちゃんが塗りやすいようにちょっと上を向いた。



 ……あれ? これもしかして、私もキス待ってるみたいになってるんじゃない?


 さっきのアリスちゃんみたいに、無防備な格好で……


 そう考えたら、なんだかすごくドキドキしてきた。



 知らず知らず、体が強張ってくる。


 ……どうしよう、私、キスされちゃうかも。それとも、触られるのかな?


 だって、アリスちゃんはこういう時は必ず変なことしてくるし。


 今だって、きっと……



「ん……っ」


 それが唇に触れたとき、強張っていた体が震えてしまった。


 アリスちゃんは、それ……リップクリームをゆっくりと私の唇に塗ってくれる。



「はいっ。もういいよ」


 リップクリームが私の唇から離れて、アリスちゃんの満足そうな声が聞こえてきた。


 目を開くと、アリスちゃんは満足そうな顔。私はといえば、拍子抜けして体から力が抜けてしまった。



「うん、ありがとう……」


「お姉ちゃん、どうかしたの?」


 アリスちゃんは不思議そうに小首をかしげて私を見ている。


 私はといえば……うっ、と言葉に詰まってしまう。


 だって、キスされるんじゃとか体を触られるんじゃって期待していたなんて、言えるわけないし……



「……んっ」


 突然、唇に柔らかい感触が当てられた。


 リップクリームじゃない。やわらかくて、甘い、私が期待していた感触だった。



 舌が絡まり、私の唇のなめるように。


 やさしく、手で愛撫するようだった。



「っ……どう?」


 離れた唇はまだ甘くて、温もりがあって、体もしびれていた。


 求めていた感覚を得られて、私はぼうっとしていたのかもしれない。


 うぅん、事実そうなってた。体はピリピリして、頭はふわふわしていたから。だから……



「ぅん……とっても、気持ちいいよ……」


 私の言葉を聞いたアリスちゃんは一瞬キョトンとして、それからクスリと笑った。


 いたずらっぽい、ちょっと意地悪な顔で。



「お姉ちゃんのエッチ」


 耳元で囁かれ、くすぐったさと羞恥とで、私は顔どころか耳と首元まで真っ赤になった。


「私、リップクリームの味を訊いただけだよ? 甘いでしょって……」


「う、嘘! 絶対そんな訊き方じゃなかったもんっ!」



 言い返しても、アリスちゃんは意地悪な顔のままだった。


 それが恥ずかしくて、ちょっとムッとしちゃって、でもイヤな感情じゃなくて、


 それでも羞恥が勝り、私はアリスちゃんから視線を逸らしてしまって……っ!?



 突然、私の視界は逆転した。


 さっきまで床を見ていたはずなのに、今は天井を見ている。


 そして、アリスちゃんのきれいな顔を……



「じゃあ、もう一度訊くね」


 返事をするよりも早く、アリスちゃんの唇が、私の唇を塞ぐ。


 そこまでされて、私はようやく押し倒されたんだってことに気づいた。


 体が強張ったのはほんの一瞬。甘酸っぱい味と心地よさに、私の体はあっという間にほぐれて、目の前の愛しい女の子を求めていた。



「……どう?」


 さっきと同じ質問。考えるよりも前に、私の口は動いていた。


「甘いね……」


「でしょ?」



 アリスちゃんの桜色の唇はキラキラ光っていて宝石みたいだった。


 甘い……


 アリスちゃんとのキスはとっても甘くて、満たされて、


 吐息がかかるたびに、私の体はびくびく震えた。



 アリスちゃん、息が荒い。


 それに、頬も真っ赤だ。


 私で、私がそうしたんだって思うと、体の芯が熱くなって、胸がキュッと締め付けられた気がした。



「ぁの……っ」


 絞りだした声は言葉にならなかった。


 そこで初めて、私は自分が荒い息を吐いているのに気付いた。


 ……そっか。私も、アリスちゃんと同じなんだ。アリスちゃんで、アリスちゃんが、私を……



「あの……あのね、アリスちゃん……っ」


 もう一度。今度はしっかりと言葉にする。


「私……私ねっ、このリップクリーム好きなの……! だから……ねっ? お願い……」



 あふれた感情は私を飲み込んでしまった。


 もういっぱいいっぱいで、言葉にできたと思ったのに、言葉がまとまらない。


 それがすごくもどかしくて、余計に気が急いて……もうっ、どうしてこんな……



「私も、好きだよ」



 その一言で、私の頭は真っ白になった。


 余計な言葉は全部消えて、残るのは、たった一つ。



「好き……っ」



 そうして、私たちは、



 とろけるような甘さの中に、そっと身を委ねたのだった――

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